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noteとウォーキングは似ている

noteとウォーキングは似ている。

いや、これは別にこのふたつに多くの共通点が見いだせる、という意味ではない。

今年からnoteを毎日更新する目標を掲げた。同時に、ウォーキングも日課として続けようと決心した。たまたま、ぼくのなかでこのふたつの目標が隣り合わせになってただいま継続中、という意味の「似ている」だった。

まったくもって私的な「似ている」だ。「似ている」の乱用ですらある。だが、実際のところ、「似ている」の要件を満たすほど、このふたつのなかには共通項があるのではないか? そんな気もする。

「似ている」部分があるからこそ、同時に目標としてセッティングしやすかった。いまのところ、安定して継続しているし、おそらく続けられるんじゃないかという手ごたえはある。

noteとウォーキング。奇しくも同時に目標として選ばれたこのふたつを比べ、「似ている」ことの実証をしてみようと思う。

いま、このふたつは、川を挟んで両岸に向かい合っている。それぞれお互いのいいところ、毎日コンスタントに続けていける要素、気を楽にして目標にしやすい部分、それを続けることで自分へ還元できる効果。そんないろいろを出し合えば、それが橋となり、つながる道となって、このふたつを引き合わせてくれるかもしれない。今回のエッセイは、そのお膳立てという試みだ。この時点でもう600文字使ってしまった。「あ、これ別にいいやつだ」と思わず、ふたつの概念が邂逅するそのときまでお付き合いいただければありがたい。

ウォーキングは、もっともコスパのよい運動法だ。これはぼくの私見ではなく、権威ある病院の先生の見解である。人間ドッグを受診した際、その先生から「ウォーキングをしなさい。これがもっとも負担なく、簡潔で、効率よく脂肪を落とせる運動法です」というアドバイスをもらい、気づいたことである。

長時間やる必要はなく、20分程度でいい。天候の悪い日以外、毎日続けること。軽く汗ばむ程度にはや歩きすること。先生はそう付け加えた。持続させることで、健康的で引き締まった体をつくり、生活習慣病と無縁の生活をもたらす、ということだ。

忙しい日常のなか、運動時間の確保は容易じゃない。大きな目標を掲げてさあやろうと意気込んでも、やがてあわただしく過ぎ去る時間のなかでかき消されてしまうのがオチだ。それが「毎日20分程度、近所の周りを歩くだけ」だと、気軽にチャレンジできるし、続けやすくなる。

noteも、同じことが言える。

ライティングの初心者でも、noteは取り組みやすい。日常のこと、仕事のこと、気づき、モヤモヤとうごめく感情、書くことは何でもいい。小説やマンガなどの創作でも構わない。自分のなかにあるものを表現する場として、noteという空間を選ぶ人は多い。それは、ウォーキング並みにライトな気持ちではじめられ、かつ継続することで確実に力がつくという自覚があるからだろう。

noteも、短時間でさらっと書き上げる人は多い気がする。20分という時間がスタンダードかどうかは分からないけど、スキマ時間を使って書いている人は多いのではないか。それくらいの短時間でも定期的にコツコツ続ければ、ヘルシーな脳を手に入れられる。

「インプットを血肉に変え、アウトプットして進化する」という“更新の仕組み”も、noteとウォーキングでは同じじゃなかろうか。

健康な体は食べものでつくられる。ただ食べっぱなしだと脂肪ばかりが増え、血液の循環もよくならない。それを適度な運動によって吸収させ、内臓や血液、骨の細胞を動かすエネルギーに変える。しかも歩くだけだから、骨に過度の負担を与えない。足回りについた筋肉は運動の成果であり、体からにじみ出る汗はエネルギーが充満している証だ。運動した後の身体は、確実に進化を遂げている。

知識や情報、何かから受けた刺激は、ただため込むだけじゃいけない。表現者として、自分なりの方法でかたちにする作業をどこかで実行する必要がある。noteはそのきっかけを与えてくれるプラットフォームだ。

エッセイ、随筆、小説、漫画など、アウトプットの方法は自分に合う方法でいい。別にそこで大作にチャレンジするわけじゃないから、自分を追い詰める必要もない。きわめて省エネ的なアウトプット習慣だ。表現し続けることで、代謝機能はいつまでも生き生きと動き、良質な細胞を再生してくれる。表現の筋肉は確実にたくましく、色つやも帯びるようになる。

また、「自分と向き合える時間」を与えるという意味でも、このふたつは似ていると言えるだろう。

ひとりもくもくと、街の中を歩く。ただ足を動かすそのときでも、心は何かしら感じるし、脳も動いている。何も考えたくなくても、つい何か考えてしまうのが人間だ。そんな状態で思うことは、今日の仕事で感じたことだったり、これからの自分についてだったり、これまでの人生についてだったり。

じっと座っているだけだと、そうもいかない。退屈すぎてつい本やゲームに手を出したくなるだろう。外の空気を吸いながら、景色を見ながら歩くという作業は、体を動かすと同時に考える時間も与えてくれる。ふだんは考える余裕もないテーマでも、その時間を使ってゆっくりと思考をめぐらすことができる。

noteを書くときも、ぼくは自分と向き合っている。

ライターとして任される執筆では、自分のことは書けない。だから「ものを書く」習慣があっても、書く内容は自分の考えや思考と別世界のものであり、自分を脇に置いて書く必要がある。そこから解放されて、ひたすら「自分」というものに切り込むことを許してくれるのが、このnoteである。日頃の思いや感じたこと、体験、今の自分をつくった出来事など、自分事を書いてもいっこうに構わない。その習慣を持つことで、「自分はこういう人間だったんだな」と鏡を見ているような気分になれる。「お、こんなところにもオレの表情があったか」と思わずニヤッとなる。


「最後のやつは、ちょっと強引だろ。精神論じゃないか」と思われるかもしれない。が、考えてみてほしい。気づきを与えるための「あいうえお作文」だって、最後の「お」はやや取って付けた感のあるものが少なくない。ひどいのになると頭文字じゃなく二文字目に来るものすらある。それでも「ああ、最後のやつはどうしても思い浮かばなかったんだな」と忖度し、黙って飲み込む。そんな何気ないやさしさが足りない部分を埋めて、世の中は回っている、ということに、させてください。


どうだろう? noteとウォーキング。それぞれ対岸で向かい合っていたふたつは、無事にめぐり合ってくれただろうか? それぞれの部屋から飛び出して、ひとつ屋根の下に違和感なく座れるようになっただろうか? ぼくの力不足でいまいち伝わらなかったとしても、ニーズに合えばこのふたつはおすすめです。

ここまで書いて気づいた。「#noteでよかったこと」をテーマに書くつもりだったエッセイ。これはもうひとつのテーマ「#とは」にも使えるじゃないか。「ウォーキングとは」というテーマでも違和感ないですよね?

実はもともと、「ぼくには今、ふたつの目標がある。ひとつはウォーキング、ひとつはこのnoteだ」みたいな書き出しで、「#noteでよかったこと」を書くつもりだったけど、これだとウォーキングの取り扱いが中途半端になりそうで修正した。しかしこれでふたつのテーマを兼ねることができた。よかった、今のやつに変えて。







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