武田信玄の名言「人は城」は、反面教師の父がいたから生まれたという話

いまはむかし、甲斐信濃(現在の山梨県・長野県)を治めた武田信玄という戦国武将がいた。信玄というのは法名で、幼名を勝千代、元服(成人)後は晴信と名乗った。ここでは信玄で統一する。

武田信玄といえば、次の言葉が有名である。

「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」

おそらく後世の人の創作と思われるが、信玄がとりわけ人材を重視した武将であったことは間違いない。家柄や血縁に関係なく能力重視で人材を登用し、褒賞や待遇も公平であった。親族出身から他国浪人、服属大名、生え抜きの足軽まで、ほぼすべての家臣が信玄に厚い忠誠を誓った。抜群の個性に加え、高い統率力と規律ある軍団編成。その組織力は戦国最強とまで評された。

武田臣団の団結力がいかに強かったか。それを物語る歴史的資料が現存する。信玄が家臣団の団結力強化のために、二百名以上の家臣らに書かせたといわれる起請文(「神仏に誓って守ります」という意味の文書)がそれである。長野県・生島足島神社に残された八十通以上もの文書には、信玄に忠誠を誓う言葉で埋め尽くされている。

信玄にとっての人、忠誠、結束力。それについて考えるとき、父・信虎の存在を無視して語ることはできない。

信玄の父・信虎は短期間のうちに甲斐国を統一したほど、戦の強い武将であった。軍事の才だけをいえば、信玄に引けを取らなかったかもしれない。そんな一国の領主であった父を、信玄は策略によって追放してしまったのである。

戦を終え引き上げてきた信虎を、足軽たちが包囲して入国を阻んだ。足軽だけではなく将兵もお国衆も信虎に反旗を翻した。信虎の入国阻止という命令は、城にいる信玄から下されたものだった。信虎は仕方なく娘婿の今川義元が治める駿河へと向かった。

このクーデター劇の真相は分からない。信虎が家督を次男信繁に譲ろうとしたからとも言われるが、定かではない。ただひとつ言えるのは、家臣たちの動きからしてそのときすでに、人心が信虎から離れていたということだ。信虎の内政や処遇に対して、不満を持つ家臣が多くいたのは想像にかたくない。

家臣たちの心が信虎から離れていくさまを、信玄はまじかで見ていた。だからこそ、「人を大事に使ってこそ、人の上に立てる」という真理にたどり着いたと言えないか。

まだ信玄の時代は、組織の中枢や上層部をお国衆などの血縁で固める傾向が強かった。信玄は実の父親をクーデーターで追放したほどである。そのような風習を取っ払うなど造作もなかったに違いない。真田昌幸、山本勘助、馬場信治といった有能な軍師・武将を従えることができたのは、血縁や家柄にとらわれない柔軟な人材活用術の産物である。

今川家に仕えていた山本勘助を引き入れたのは、親族系の重臣・板垣信形の推挙によるものだった。「これは今川の謀に違いない」。多くの家臣は勘助の背後に今川家の影があることを疑い、重用に反対した。だが信玄は気にするそぶりも見せず、ただ山本勘助の才能にほれ込み、召し抱えることを決めた。異能の軍師・勘助は、巧みな軍略で数多くの戦を勝利に導き、信玄を喜ばせた。

勘助を推挙した板垣信形のことも、信玄はこよなく愛した。信虎の代から武田家に仕えた重臣である彼が、よもや独断で兵を動かして敵の謀略にはまりるという失態を演じた。その戦いで多くの騎士と歩兵を失ったのである。信形には多くの非難が集まり、さぞかし重い罰が下されるだろうと噂された。信形は覚悟して信玄からの達しを待った。いよいよ信玄に呼ばれて本営に出向くと、そこには穏やかな顔をした主君の姿があった。

「敵の策略にはまりながらあの程度の損害で済んだのは、信形の老練な指揮によるところが大きい。だから何も気にするな」

信玄の温かい言葉に励まされた老将は、これまで以上に奮い立ち、武田家のために戦った。

「人こそが城」。政治も外交も戦もすべて、人があってのもの。その精神が徹底していたからこそ、信玄のまわりは忠義に厚い家臣ばかり集まったのである。



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