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沖縄戦に動員させられた朝鮮半島出身者─朝鮮人軍属・徴用工・慰安婦たちにとっての沖縄戦─

 昭和20年(1945)3月26日の米軍慶良間諸島上陸、そして同年4月1日の米軍沖縄島(本島)上陸から同年6月23日の牛島満司令官および長勇参謀長の自決という第32軍壊滅、そして同年9月7日の沖縄戦降伏調印式までのあいだ戦われた沖縄戦は、日米・軍民あわせて約20万人の犠牲者を出した壮絶な戦いだった。
 沖縄戦で犠牲となったのは、日本人とアメリカ人ばかりではない。摩文仁の平和祈念公園に「韓国人慰霊塔」が建立されているように、「朝鮮人軍夫」として、あるいは「徴用工」として、そして「慰安婦」として、多くの朝鮮半島出身者が沖縄に連れられ、戦争に動員させられ、犠牲となった。
 一般に、沖縄戦に動員させられた朝鮮人の数は1万人から2万人といわれているが、はっきりした数字ではなく、現在、様々な検討・分析が試みられている。もちろん朝鮮人犠牲者の数もいまだ明確ではなく、朝鮮人たちが具体的にどのような任務についていたのか、その全容も明瞭ではない。
 以前、荒唐無稽な「戦艦大和民生品輸送説」を取り上げ、「沖縄戦歴史修正主義とたたかう」としたが、「沖縄戦と朝鮮人」の歴史を見つめ、いかに沖縄戦において朝鮮半島出身者が苦しみ、犠牲となったのか、そのことを把握し反省することも歴史修正主義との一つの戦いであり、真に日本という国を思い、日本の歴史を自分自身の歴史とする愛国者のなすべきことである。
 以下、朝鮮半島出身者と沖縄戦の関わりについて、様々な文献・先行研究を参照しつつ確認したい。

「朝鮮人軍夫」と沖縄戦

朝鮮人軍属と特設水上勤務隊 
 国民徴用令に基づく「徴用」などにより、朝鮮半島からは多くの人々が沖縄に連れてこられ、戦争に動員させられた。彼らは大きく「朝鮮人軍夫」ともいわれるが、この「朝鮮人軍夫」については、沖縄では第32軍や海軍に配置させられた朝鮮人軍属と、基地建設を請け負った民間会社の下で働かされた「徴用工」に分けて考えるべきだろう。
 朝鮮人軍属の多くは特設水上勤務隊(水勤隊)に配備され、朝鮮半島から下関・鹿児島などを経由し、沖縄各地に連れてこられた。朝鮮人軍属の召集・編成は強引に行われ、「村の夫役だから数日ですぐ帰れる」、「いい仕事がある」、「金になる」などと騙されて軍属となった者も多い。また水勤隊は韓国大邱で訓練を行ったが、その間には逃亡が相次いだという。
 水勤隊は沖縄に到着すると港湾荷役作業に従事し、軍事物資など沖縄へ運び込まれた物資の陸揚げや運搬、あるいは港湾の整備や拡張工事を行ったが、その労働は非常に過酷なものであったといわれる。
 水勤隊第104中隊の港湾作業について、以下のような調査がある。

 読谷村渡具知港にいた104中隊の44年9月陣中日誌に9月の荷役総量が出ている。「米65,611袋、木材543粒、建築道具499梱、弾薬20,350箱、梱包糧秣45,572梱、セメント5,490袋、需品(各種含)22,846梱、大豆160俵、被服6,082梱、兵器(短銃機関銃)3,180梱、4門、揮発油1,829ガソリンタンク、釘582頓、移動起重機1台、大発機艇5隻、馬量(ママ)1,333梱、その他鋼材130頓、品目不明3,000梱」。このときの渡具知港の人数は第1、3小隊の425人(2個小隊)である。うち1個小隊が1週間ほど与那原へ派遣され、9月24日からは84人残して那覇港の応援に行ってしまった。欠けた人数でこれだけの量をこなしたというのは驚くしかない。作業は平均11時間前後で、終夜に及んだこともあった。(沖本富貴子「沖縄戦に動員された朝鮮人に関する一考察─特設水上勤務隊を中心に─」)

 水勤隊は軍の配備変更や作戦変更に伴い、沖縄各地を転々としているが、昭和19年8月12日、宮古島に到着した水勤隊第101中隊の足取りとその特徴は次の通り。

 ① 101中隊
 那覇には上陸せず宮古島に移動した。宮古島到着が12日、第1、第3小隊が宮古島、第2小隊が石垣島に駐屯した。その後の移動はなく同地で終戦を迎える。宮古では28師団輜重兵第28連隊(豊5656)の指揮下に入り平良港で港湾作業についた。45年3月1日平良港で揚陸作業中、米軍の攻撃で船が沈没し、朝鮮人56人が犠牲になった。水勤隊101中隊の徐正福はその時陸側にいて助かったが、その後80人の朝鮮人と共に農作業についたと証言している。宮古島には水勤隊のほかに、朝鮮人が32軍防衛築城隊4、5中隊に69人、第5野戦航空修理廠第2独立整備隊に19人、歩兵第3連隊に13人、比較的まとまった数で動員されている。住民は朝鮮人が井戸掘りや陣地構築作業についているのを見ているが、それがいつの時期なのか、どの部隊の朝鮮人であるかなどの詳細は分かっていない。宮古島、八重山地域には米軍の上陸はなかったが、空爆は継続し、飢餓とマラリヤに苦しめられた。(沖本富貴子「沖縄戦に動員された朝鮮人に関する一考察─特設水上勤務隊を中心に─」)

原田組と「徴用工」 
 沖縄に連れてこられた朝鮮人には、いま話題となっている「徴用工」も多数いた。彼らは民間業者に雇われ、飛行場建設などに従事させられた。例えば石垣島の海軍飛行場建設では、「大林組」の下請けの土木業者であった「原田組」が朝鮮人「徴用工」約600人をダイナマイトやツルハシで岩塊を砕く危険な重労働に従事させた。

朝鮮人軍属が置かれた劣悪な環境と激しいリンチ 
 
八重山諸島小浜島には海軍第38震洋隊、後に第26震洋隊といわれる特攻艇部隊が配備された。昭和20年3月頃より小浜島での基地建設が始まるが、これに従事したのは朝鮮人軍属であった。彼らは島の民家を宿泊先とし、毎朝トラックで作業場所まで連れていかれ、奴隷のように働かされていた。朝鮮人軍属が桑の木に吊るされリンチをうけていたという証言もある。
 また慶良間諸島阿嘉島には同年2月に水勤隊第103中隊が配備された。このため小さな島の人口は膨れ上がり、深刻な食糧不足に陥り、朝鮮人軍属が飢えのため食糧を盗んで処刑されたり、朝鮮人軍属の米軍への投降が発生すると、朝鮮人軍属が縦横5、6メートル、深さ2メートルほどの穴2箇所に入れられ、格子状の木で穴をふさがれ監禁されることもあった。
 その他にも「よれよれの軍服を着て路上に横たわる朝鮮人軍夫たち十数人を日本兵が蹴り飛ばしていた」、「舟艇の上に5~6人並べられロープを束ねたようなものでぶたれていた。端の朝鮮人が倒れて海に落ちたので住民が助けたところ、その住民も日本軍に相当やられていた」、「人間扱いではなかった、ひどかった」、「軍夫たちはごく子細なことでも難癖をつけられて殴り倒されていた。牛馬にもひとしい扱いを受けて男泣きに泣きじゃくっていた光景はいまも忘れることができない」といった証言が残っている。

米軍によって捕らえられた朝鮮人軍属(沖縄県公文書館、資料コード:0000112179)

朝鮮人軍属の最後 
 水勤隊第102中隊・第104中隊は、最後は沖縄島での米軍との地上戦に兵士として動員させられた。第102中隊は沖縄島への米軍上陸後、前線への弾薬運搬に従事させられ、昭和20年6月21日頃には南部で全滅した。第104中隊も首里方面での戦闘に参加し、第32軍の南部撤退以降は真栄平での戦闘に従事、同年6月22日には総員敵陣への「斬り込み」を敢行し全滅した。

泣きながら逃げまどう朝鮮人「慰安婦」の女性たち

 第32軍が沖縄に派遣された昭和19年以降、沖縄では「慰安所」が次々に設置された。慰安所は「軍人倶楽部」などとも称され、軍の工兵部隊が建設作業を行い新設される場合もあれば、民家などを接収し「慰安所」とされることもあった。
 「慰安所」で働かされた「慰安婦」は、辻のジュリ(娼妓)だけでなく朝鮮半島から連れてこられた朝鮮人「慰安婦」も多数いた。朝鮮人「慰安婦」のなかには「賃金のよい工場で働ける」、「内地で女工を募集している」などといわれ、「親孝行ができる」と思い応募したところ、沖縄に送られ「慰安婦」にさせられたという証言が残っている。例えば裵奉奇(ペ・ポンギ)さんは同年11月7日頃、「金を稼げるところがある」などと騙され、「マライ丸」で沖縄に連れていかれ、渡嘉敷島の「慰安所」で「アキコ」という名前をつけられ「慰安婦」として働かされたという。
 日本人「慰安婦」と朝鮮人「慰安婦」には待遇で差別され、特に将校相手の「慰安所」には日本人「慰安婦」が配置され、彼女たちには十分な食事が支給され、きれいな身なりをしていたという。
 戦闘が激化すると一部の朝鮮人「慰安婦」は野戦病院に配置され、看護任務に従事した。また軍が撤退し戦場に取り残された朝鮮人「慰安婦」たちが泣きながら逃げまどう姿が目撃されている。
 昭和20年11月、沖縄の朝鮮人女性150人が朝鮮半島に送還させられた。彼女のたちのほとんどが「慰安婦」だったといわれているが、裵奉奇さんのように帰国船の存在を知らず、沖縄に置き去りにされた女性もいた。

日本軍による朝鮮人一家虐殺事件

 沖縄戦時、久米島には鹿山正兵曹長率いる海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊(鹿山隊、通称「山の部隊」)が駐屯し、島を恐怖支配していた。鹿山隊は総員30名程度、武器は重機関銃2丁、小銃20丁の貧弱な兵力であり、米軍よりもむしろ1万人からの島民を恐れていた。久米島には昭和20年6月26日に米軍が上陸するが、その前後から鹿山隊は島民が米軍と通じることを異常に警戒し、「スパイ」と見なした島民の「処刑」を開始し始める。
 鹿山隊は日を追うごとに凶悪化し、とうとう同年8月20日深夜、島民で朝鮮・韓国人であった谷川昇さん一家7人を皆殺しにする凶行におよぶ。昇さんの奥さんは針仕事が得意であったため統制品の糸を村の人に分けるなどしていたが、それを妬んだ島民が鹿山隊に「統制品を持っているのは怪しい」と密告したため、また鋳掛屋をしていた昇さんが米軍キャンプのゴミ捨て場からいろいろな廃棄品を拾ってくるのを島民が妬み鹿山隊に密告したためともいわれている。
 なお鹿山は同年9月7日、数々の住民虐殺に手を染めながら平然と武装解除・降伏し、何の咎めもなく復員し、戦後、自身の戦争犯罪を開き直る発言までしている。

米軍に降伏する鹿山(新『沖縄県史』各論編6 沖縄戦)

収容所で行われた朝鮮人捕虜による「報復」

 沖縄戦では軍人は捕虜収容所へ、住民は民間人収容所に収容され、米軍の管理下に置かれた。捕虜収容所は屋嘉収容所(金武)を本部とし、浦添・読谷・那覇・嘉手納などに支所が置かれ、1万2千人ほどの軍人が収容されたといわれている。
 屋嘉収容所は昭和20年4月頃から設営が開始され、同年7月中旬頃にはほぼ完成したといわれる。捕虜は一同に収容されたが、後に本土・朝鮮・沖縄など出身地ごと、また将校・兵士など階級ごとに分類されて別々に収容された。そして、これら捕虜のリーダは朝鮮人捕虜が任命された。
 そもそも米兵は朝鮮人に対して、日本によって植民地支配をうけている人々として親切に接し、戦勝国民並みの扱いであった。その次に沖縄出身者を「ノンジャパニーズ」として扱い、本土出身者には敵国民意識があった。そして日本人将校捕虜は、これまで自分たちを過酷な目に合わせてきたとして、朝鮮人捕虜や若い日本人捕虜に呼び出され、毎晩のように「報復」のリンチをうけたといわれている。

お わ り に

 冒頭述べたように、現在、沖縄戦歴史修正主義が沖縄の人々の基地反対の声を圧殺するうごきと連動しながら、明確な政治的意図を含んで吹き荒れている。強制集団死はじめ軍による住民迫害という確定的な史実ですら歴史修正の対象となっている以上、沖縄戦における朝鮮人の動員やその犠牲などいまだ不詳な部分の多い歴史は、あっさりと修正され、歴史の闇に「封印」される可能性がある。
 だまされて沖縄に連れてこられ、日本のために強制労働をさせられ、日本兵の性の相手をさせられ、殴られ、殺され、最後は米軍へ突撃させられて死んでいった朝鮮半島出身者たち。
 彼らの悲哀と痛苦にこたえるためにも、まずは朝鮮半島出身者がどのように沖縄戦に動員させられたのか知る必要がある。

参考文献
新『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
大田静男『八重山の戦争』(南山舎、2014年)
沖本富貴子「沖縄戦に動員された朝鮮人に関する一考察─特設水上勤務隊を中心に─」(『地域研究』第20号、2017年)
沖本富貴子「沖縄戦の朝鮮人─数値の検証」(『地域研究』第21号、2018年)

トップ画像:「韓国人慰霊塔」(平和祈念公園)における韓国人戦没犠牲者慰霊大祭の様子(韓国民団沖縄県地方本部ホームページ)


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