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身体性のようなものについて書く

手術後しばらく杖の支えで歩いた。そのときまで当たり前のようにできていたことができなくなった。病院の外の世界が覚えていた雰囲気と違って、暗かった。杖を置いたら少し歩けるのにまだ身体に自信がなかった。傷があまりに大きかったのだ。リハビリにバスで通うほかは、六畳の部屋にしばらく引きこもった。
今にしてみれば、それは自分の身体と向き合う充実した時間だった。杖がカタツムリのアンテナのように自分と世界の間にあって、それで世界を感じた。ただただ、ゆっくりと歩く辛さと喜びを感じて生きた。こんなに集中して歩いたことは今までなかった。筋肉が落ちてバランスが崩れて世界観が変わる。ただの数ヵ月間の時間が、昔話のように、深い森から出たら何年もたっていた。時間の感覚も、杖のような長い棒のような何かの塊になった。ゆっくり、ゆっくりと体があの自分の延長になった杖にだけに集中し、それ以上ものが考えられない。
イリナ・グリゴレ「蛇苺」 


 困惑させられるエッセイだった。

 ここ数日は、フィールドノートこと日記を一日中書いている。料理人の日々の仕事がどういうものかについて。たとえばパルメジャーノチーズと生クリーム、レモン、塩を混ぜてソースを作る過程について、事細かに書いている。どういう過程があって、それぞれにどういうことを考えて、というだけでなく、それぞれの仕事には一ヶ月分の小さな出来事が付随している。教わったこととか失敗したこととか。


 そうした文章に慣れた目で見ると、この文章の書きっぷりには恐怖を覚える。細部を描写せず、大まかな描写と比喩だけで文章を進めてしまうことができるなんて。言葉を詰めた文章を書くことは怖くない。どこまで伝わっているのかがわかる。言葉が身勝手な他人様だとしても、ある程度の数を並べてあげれば常識的にこのあたりになるだろうという見通しは立つ。
 グリゴレさんがそういうことを考えているとは思えない。展開していくイメージを臆せずに追いかけ臆せずに書いているようだ。途方もない素直さを持って体感覚を伝えるイメージを記しているのだと思う。言葉の効果にではなく、出来事にではなく、体感覚に描写に忠実なのだろう。比喩は単にそれを捉えるのに適切な言葉というだけなので、それ以外の部分から浮かない。比喩の部分がきちんと後の部分に係るように見える。正確ではない用語だろうが、無意識について書くことにきちんと取り組める姿勢がまばゆい。何について書いているかも、それについてどんなことが伝わるかも、確信が持ちようにないと思われるてないものについてよくも書けることよ。

 これも伝えることだけを考えた紋切り型だろうか、多分そうだと思う。まだ難しい。でも練習なので大乗b(大丈夫と大乗bはそんなに違わない)


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午後になると、埃のついた汗で真っ黒になる。汗の跡で体中に面白い模様ができ、顔は日に焼けて真っ赤になる。ビンに残ったわずかの水を飲むと、すっかりお湯になっている。そして弟が泣き始める。仕方なく祖母は私たちを連れて帰り、祖父はもう少し残って夕方の涼しい風で体を慰めながら畑仕事を続ける。祖父は日が暮れる前に帰ってくるが、薄暮の中で肩に鍬を担いで門からやってくる姿はものすごく大きく見えた。
イリナ・グリゴレ「生き物としての本(上)」


 身体性について書けるのは、幼い頃から身体で生き、そのことを覚えているからなのだろうと思う。
 とてもできない。本当に子供の頃のことをほとんど覚えていない。いくつかのシーンのフラッシュのような記憶があるだけだ。それだって写真から再構成をされたもののような気だってする。子供の頃だけではなく中学生や高校生の頃のことも似たようなものだ。何なら1年前のことだって日記に書いた以上のことはすべて記憶から抜け落ちている。すでに死んだようなものだ。
 日記を今必死で書いているのは、研究にとって重要であるだけでなく、個人としての記憶にとっても大きな意味を持ちうるからなのだろう。


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 友人が紹介していた、ピカソが絵を描くドキュメンタリーを見た。ピカソは描いたものに上書きしていく。新たに描かれた部分に基づいて、別の部分を書き換え、それを元にしてまた別の部分を書き換える。それを見る前はもちろん想像できないが、次の部分が描かれえしまえば、なんとなく納得できるような対応であるようにも思われる。否定による更新。よい。

 私は以前、天使と呼ばれたことがある。おそらくそれは、それまでの言動を言葉によって軽々と否定し自分を作り変えるような軽さによっていたのではないかと思う。それを人に責められたこともあるが、だって道理がそうなっていることがわかったんだもの。
 グリゴレさんが書くような身体性が僕には明らかに存在しないにせよ、それに相当するものがあるならば、この道理のあたりにあるのだろう。この文章はその道理を捉える練習。


 ちょうど、多和田葉子の『雪の練習生』を読んでいる。玉乗りの経験がある主人公が自伝を書いている。自伝を書くことは玉乗りと同じようなもので、「結果が結果を生んで次々、自分でもわからないところにどんどん引っ張られていく」。最後には書いたものが主人公を追い抜き、主人公は描いたものを追いかける。同じことが自分でもできたらとてもいいじゃない、楽しそう。


 そういえば、ポール・オースター『孤独の発明』が読みたいです(英語で読む元気はないです)。内容はこれに関係していたような気がするけど忘れてしまった。送ってくれる人がいたら嬉しいです。


 なんでこんなものを書いているかというと、個人的なことやぼんやりと考えたことのような書きにくいことを書けるようになっておかないと研究でも困るから。

これから書きたいと思っているのは「家でできる日本酒の作り方」「ペルー料理を理解するための料理・レストランガイド」「セビーチェのすべて」「ペルー料理を日本料理化する:日秘料理の構想」「砂漠への虚無旅」です!乞うご期待!