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白米が狂ったように食えるレシピとソイレントの幸福論

 Twitterでこういうレシピをよく見かける。このアカウントだけではないけれど、ひとつの典型として。僕にはこういう料理の何が嬉しいのかわからず、いつも戸惑ってしまう。


 この「大葉の浅漬け」は、大葉に白だしの味をつけるというより、むしろ、白だしに大葉の風味を与える、といった構成になっているように思われる。 
 野菜の煮物が、野菜に出汁や醤油の味をほんのり含ませることで野菜を美味しく食べるものだとして、煮物と浅漬けを単純比較することはできないが、このレシピの白だしの使用量は出汁や醤油の味をほんのり含ませる量であるとはとてもいえない。ヤマキの白だしを使って野菜の煮物を作る場合白だし:水=1:30だが(https://www.yamaki.co.jp/basis/about/)、このレシピでは白だし:水=1:1.6である。めんつゆのもとでそうめんのつけつゆをつくるときには、めんつゆのもと:水=1:2が一般的であることを踏まえれば、大葉の水分があることを踏まえても、この「大葉の浅漬け」はかなり白だしの味だ。
 白だしの味が中心である以上、かりに他の香草を使っても、例えば大葉を小口切りにしたネギに変えたところで、その根幹は変わらないように思われる。実際、ネギをめんつゆ、あるいはほとんど同じことだが、しょうゆと鶏ガラスープのもとで和える、といったレシピを見たことがある気がする。
 また白米が進むことがこの料理の肝であるとして、それも白だしの力であり、大葉の力ではない。白だしだけをかけた白米と、大葉だけをのっけただけ(あるいは最低限、塩を補った大葉をのっけただけ)の白米のどちらが食べやすいかといえば、たぶん白だしの方だろう。白米に白だしだけをかけるのは、ごはんにめんつゆ、あるいはしょうゆをちょろっとかけるようなものなので。

 ここまで書いてみて気づいたが、このレシピは「浅漬け」と名付けられているものの、浅漬けではない。これは浅漬けとして自存しているわけではなく、白米に従属するものである。この「大葉の浅漬け」が、例えば普通の白菜の浅漬けのように、白米との相性がとてもよいのだとしても、それでも独立して賞味に耐えうるものであるのか、想像してみてほしい。たぶんしんどいものがある。常にこの「大葉の浅漬」は白米とともにある。


 第一に、この料理の美味しさってなんなんだ?
 先に書いたように、この料理は大葉の風味を添えた白だしで白米を食べることである。白だし、すなわち、出汁と薄口醤油と砂糖(あるいはみりん)を混ぜたものを白米にかければ、そしてそこにちょっと薬味があれば、確かに美味しいけれど、いや絶対に美味しいが、その美味しさでいいの?(注1)

 第二に、大葉の浅漬があれば白米がたくさん食べられる、ということの嬉しさって何?
 僕は炭水化物嫌いなので、極めて個人的には、その嬉しさがわからないではない。炭水化物嫌いという表現は不正確で、おいしい米はとてもおいしいと思うし、そうでない米もまずいと思うことはないのだが、一般の食事として必要な量を食べるのはしんどい。味に飽きて咀嚼に疲れる。食べないと空腹がしんどいから食べている。食事一般としてそうだが、炭水化物において特にそうだ。そんな炭水化物をすぐ食べることができるなら、美味しさは別として、僕にとっては喜ばしいことだ。
 あるいは「限界飯」、すなわち簡単に安く空腹を満たすことのできる食材としての米を摂取する手段なのかもしれない。時間がなくて買い物ができないときでも、大抵は米は家にあるようだし、野菜や肉と比べて米が安いものであることは知られている。
 では、大葉の浅漬けは、僕と同じく白米が口腔を通過するのが苦痛な人たちの処世術なのか?Twitterなどで見られる、留保のない肯定的な雰囲気を見る限り、そうではない。おそらくは、白米を咀嚼し、嚥下し、消化すること、あるいは、胃に食物が溜まっていくことそのものが喜ばしく、それを様々に楽しみたいという人たちのための料理なのだろうと思う。(違ったらぜひ教えてください。)

 僕は大葉の浅漬け+大量の白米を食べることに喜びを見いだせる人たちのことが本当に羨ましい。
 この料理の幸せは、旨味甘味塩味といった比較的単純な味と、炭水化物を摂取することの、満腹中枢あるいは時間的金銭的コスパに結びついたものであるように思われる。
 こういう料理で幸せを感じられるようになれば、複雑な料理ではないと楽しめないことに比べて、より確実に幸せな人生を送れるはずであり、「5分で作ったおかずで家の白米が全部なくなった…」みたいなレシピは確かに幸せのレッスンである。


  だが、僕は「大葉20枚を白だし大さじ2半、水大さじ4に30分漬ける」ではなく、たとえば「大葉20枚を白だし大さじ1、水大さじ8に30分漬けるだけ」のレシピを愛する人々が増えることと、誰もがそのようなレシピを愛することが可能な社会の到来を願う。


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 ところで最近、完全栄養食品がブームだ。火付け役となったのはアメリカで開発されたソイレントという商品で、これはプロテインのようにその粉末などを液体に混ぜて摂取するものだが、生存に必要な栄養素をすべて取ることができるというものである。日本でもプロテイン様のComp、麺状のBaseといった商品が販売されている。僕も日本にいるときはCompにお世話になった。
 今だって決してまずくはないが、味はどんどん良くなるだろう。ソイレントに日替わりのエッセンシャルを加える、みたいな感じで、たぶん大葉の浅漬け的な美味しさならすぐに実現されるだろう。栄養に反応する神経も確実に刺激してくれるはずだ。普通のインスタント食品よりはよほど健康なはずだ。まだあまり安くないにしても、必ず安くなるし、肉を食べたりするよりは地球にも優しいだろう。
 食事の大部分は、「とてもおいしい」完全栄養食品に取って代わられるのだろう。


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 昨日の夜、どうしてもイタリア的なパスタが食べたくなって、近くのイタリア系移民が経営している食堂に行った。ペルーのパスタも美味しいのだが、どうしてもイタリア的なパスタとは方向性が違う。やさぐれた気分だったので一番安いグラスの赤ワインを頼んだのだが、それがとても美味しかった。
 最初口に含んだときは、黄桃やアプリコットの香り。少し時間をおいて空気に触れさせると、次はゼラニウムのような赤い花が最初に香り、黄桃やアプリコットの匂いになって、最後にアニスや苔のような香りが残る。さらに時間を置くと、カシスと白い花の香りが基調になった。
 僕はワインのことはほぼ知らないので、ヴェネツィア付近のメルロー(名前は覚えていない)が本当にそんな香りを持ちうるのかは知らないが、香りの移り変わりがとても楽しかったです。


(注1)読者諸賢はお気づきかもしれないが、大葉の浅漬+白米とかなり似た構造を持つが、しかし一般には限界飯と捉えられない料理が存在する。めんつゆで食べるそうめんである。そうめんにはのど越しや風情がある、といった区別も考えられようが、では白米には食感や風情がないのか、といったこみいった話になるので、稿を改めていつか検討したい。

これから書きたいと思っているのは「家でできる日本酒の作り方」「ペルー料理を理解するための料理・レストランガイド」「セビーチェのすべて」「ペルー料理を日本料理化する:日秘料理の構想」「砂漠への虚無旅」です!乞うご期待!