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映像民族誌『Second Life en Perú』(+制作者解説)

津田啓仁, 藤田周. (2020年2月2日). 『Second Life en Perú』 [ビデオ]. Youtube.  https://youtu.be/56KrSI2vVbM

(Youtube説明欄より)
藤田さんから送っていただいたペルー生活の映像と、Second Lifeをプレイするラリーの言葉から映像を作りました。(2020年2月)※過去にNHKで放送された「自閉症アバターの世界」という番組での発言から抜粋。

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成立し得ないことについての感慨と輪廻しない自然:Second Life en Perúにおける映像的逆説(藤田)


 リマは砂漠のただ中にある都市だ。すべてのものが曇天、砂、汚れのいずれかでぼやけている。わずかな果物とグラフィックを除けば彩度が低い。春に日本で見るような新芽を見ることはなかった。わずかに見かけた若い葉と思しきものは、すでにくすんだ色か、原色のような発色を示していた。地面から日々伸びてゆく雑草はない。落葉もほぼ見なかった。

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 「現実?」というキャプションは、この映像が現実ではないということを指す。続いて提示されたキャプションは、「私はただ、混沌を見ている」。映像冒頭において私たちが見ているものは、非現実な混沌だとされる。映像では不規則にテクスチャが輝いていて、たしかにそれは混沌を正確に形にしている。

 この映像はもう一つの相を重ねる。「ただ座って頭の中を可視化する」というキャプションと、ライトアップされた巨大なキリスト像--これ以上に適切な「可視化された頭の中」があろうか?--の対が喚起するイメージ。構築物としての現実。キリスト像が想像の可視化であるのなら、それを含む街の風景もひとつづきに虚構であり、そうであるならば、これまで私達が見せられてきた混沌も、構築されたものであったのではないか?

 つまり、この映像で示されているのは、構築された非現実な混沌である。しかし、映像において映されているものは現実でしかないことを私たちは知っている。現実=非現実+混沌+構築という魔術的等式。現実性についての自明な事実と、非現実的な混沌にしか感じられない瞬間や構築物にしか感じられない瞬間の間を私たちは揺れ動くことになる。それは人間が混沌を構築できることへの驚きと、成立し得ないことについての感慨を抱かされたことへの戸惑いでもある。

 さて、ここでこの読解を生み出しているものを明らかにしておかなければならない。それは、ブロック状の単位物体を積み重ねて自由に仮想世界を作る3DCGゲームである「セカンドライフ」という比喩である。映像に付けられたキャプションが、ラリーという人物がセカンドライフでの自身の活動について述べた言葉であるということは、映像編集者である津田くんから事前に聞いていた。そうとなれば、私が映像をセカンドライフのように眺めたのは不可避でもあった。

 セカンドライフでは非現実と混沌と虚構が順接的に癒着している。セカンドライフの(非)現実は、それぞれに性質が与えられたブロックの組み合わせとして構築されたものである。組み合わせの規則に乱数が導入されることで、セカンドライフ上にはカオスのような風景も生み出される。

 とはいえ、映像は語られたことにおいてのみセカンドライフとの類比を受け取っているわけではない。映像に見られる混沌は、確かに、乱数を組み込んだ規則の積み上げのようでもある。信号が変わるとともに、人々が高速道路のような開けた道路を渡りだすシーン。様々な装いをしたキャラクターがランダムでありつつも一定の規則に沿って動いている、ということ以上の何が見えるのか?そもそも、道を渡ろうというとき、人が取る行動はある程度の幅に収まる。人間をある種の限られた状況に置き、表面的な把握で満足するならば、人間は単純な規則を場合分けに応じて実行するプログラムになる。

 この稚拙な独我論は、異国での生活において頻出する印象である。異邦人はまず、集団に共有される傾向性のレベルの違和感に思考が囚われる。心の表現のように感じられたものは、しばしば、後に共有された傾向的なものや状況の要請への典型的応答に過ぎないとわかる。

 もちろん、これは映像による現実とセカンドライフの短絡であり、固着である。現実は非現実ではなく、人間には心がある。しかし私には、こうした感受自体が、固着したメタファーが切り裂かれない場所としてのリマを示していると感じられる。映像にも示されているが、リマにはメタファーを切り裂く思考の原型となりえる自然のゆらぎがない。

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 砂埃の中にすべてが少しずつ崩れていくようなイメージばかりが想起される。リマにあるのは、急激な崩壊ではなく、緩慢に形をなくしていく風景だ。そのような場所で、例えば、輪廻や腐乱といった主題が現実性を持つのだろうか。『雪国』の駒子はリマで意味を持つのか。

 短い断片をつなぎ合わせた映像であるにせよ、日本で同種の映像を作った場合、これとは違う自然の様態を予期させるイメージを含まないことは不可能だ。刈り込まれたツツジ、冬晴れのケヤキ、なんでもいい、衰退と再生の目まぐるしい入れ替わりを結晶化するものは常に映像に含まれる。日本で考えられる神様は、分裂したり生き返ったり殖えたりする動物的な形をもつ神であり、不可視で、不動で不吉なものではない。

 こうした自然と思考の照応が、私たちの理性的な思考をも支えているとすれば、どうだろう。あるものをそうではないかもしれないと捉え直すことも、自然のイメージを借り受けながらなされているのではないか。考え事が行き詰まって散歩に出ることの意味は何なのか。私たちが--少なくとも私が--「考え直す」という基本的な思考を特定の景色に頼っているのだとすれば、その景色が与えられていないリマでは私たちの思考は固着する。そのようにして、現実とセカンドライフは短絡される。

 現実とセカンドライフの短絡の操作に、この映像のもう一つの逆説性がある。それは短絡がセカンドライフにはないもの、すなわちリマ的な自然を示し続けることによってなされていることである。犬はわずかな力で噛むことによってのみ、噛まないということを示すことはできる(ベイトソン『精神の生態学』)。映像による否定もおそらく同様の理路を踏まざるを得ない。泥ではなく生地、畑や市場ではなくスーパーマーケットの果物、方形の建物に取り囲まれた花火、海岸砂漠といった自然的なものはセカンドライフに含まれない。だが、映像はそれらを含むことによってのみ、揺らがない現実を示すことができる。空き地のゴミ袋や風に舞う花びらでさえ、私たちの知るゴミ袋や花びらに比べて重いように感じられる。それにより現実がセカンドライフ的になる。映像の比喩と現実が、比喩のようではない事物を映像の内に含むことによって接続される。

 この映像は視覚イメージと文字イメージ、そしてそれぞれの視覚イメージの喚起を厳密に組み合わせることで、映像の本性にかかわる複数の逆説を実現している。

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メイキング・オブ・Second Life en Perú(津田)


この部屋、このベッドにいても、世界を感じる。体が重たいのか、何が重たいのか、よくわからないくらいになって、スクリーンから目を上げ、ベッドから起き上がることが、とてもつらいと思う。セカンドライフにいることも、映像を作ることも、家で・スクリーンを見ながらすることだ。世界からどうやって身を起こすか。これは重さとの戦い、その痕跡に他ならない。

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きっと私たちが必要としているのは、ある軽さだ。今までのことを全部忘れて、ふわっと立ち上がるための軽さ。その軽さはどこにあるか。答えは映像そのものにある。あるシーンとシーンがいかに繋がるか。その理由のなんでもよさが答えだ。あるシーンとシーン、イメージとイメージが、どんな理由であれ、連なりうること。

南米での暮らしは、
トイレットペーパーが鼻と連なる、
土と床/靴と服が連なる、
汗ばんだ肩と肩が連なる、
初対面の人の頬と頬が連なる。


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映像において、境界に対して垂直に、あるいは斜めに、ねじれの位置に、かけられる橋。それは眺めるだけでよい。向こう側を見さえすれば、橋を作り、向こう側へ行くミッションを達成したことになる。そんな冒険がある。そしてこの冒険の最後には、もっとも大きな橋に出会うはずだ。ただ目を開くだけで、最高速度で渡れてしまう、それは、高速道路で透明でピカピカした橋。ただ見えてしまうだけの、この平面的で分厚い世界。


これから書きたいと思っているのは「家でできる日本酒の作り方」「ペルー料理を理解するための料理・レストランガイド」「セビーチェのすべて」「ペルー料理を日本料理化する:日秘料理の構想」「砂漠への虚無旅」です!乞うご期待!