#046 「努力は報われる」という考え方はなぜ危険か?

日の当たらない場所であっても、地道に誠実に努力すれば、いつかきっと報われる、という考え方をする人は少なくありません。つまり「世界は公正であるべきだし、実際にそうだ」と考える人です。

このような世界観を、社会心理学では「公正世界仮説」と呼びます。公正世界仮説を始めて提唱したのが、正義感の研究で先駆的な業績を上げたメルビン・ラーナーでした。

公正世界仮説の持ち主は、「世の中というのは、頑張っている人は報われるし、そうでない人は罰せられる」と考えます。このような世界観を持つことで、例えば「頑張っていれば、いずれは報われる」と考え、中長期的な努力が喚起されるのであれば、それはそれで喜ばしいことかもしれませんが、しかし、実際の世の中はそうなっていないわけですから、このような世界観を頑なに持つことは、むしろ弊害のほうが大きい。

注意しなければならないのは、公正世界仮説に囚われた人が垂れ流す、「努力原理主義」とでも言うような言説です。そのような言説の代表例として、よく言われる「一万時間の法則」と言うのがあります。

「一万時間の法則」とは、米国の著述家であるマルコム・グラドウェルが、著書「天才!成功する人々の法則」の中で提唱した法則で、平たく言えば、大きな成功を収めた音楽家やスポーツ選手はみんな一万時間という気の遠くなるような時間をトレーニングに費やしているというものです。この件について、僕はすでに複数の書籍やブログで反論を掲載しているので、ここではごく簡単に、反論の骨子だけを述べたいと思います。

グラッドウェルの主張はシンプルで、「何かの世界で一流になりたければ、一万時間のトレーニングをしなさい。そうすれば、あなたは必ず一流になれますよ」ということなのですが、ではさて、これだけ大胆な法則を提案しているにもかかわらず、同書の中に示されている法則の論拠は、一部のバイオリニスト集団、ビル・ゲイツ氏(プログラミングに一万時間熱中した)、そしてビートルズ(デビュー前にステージで一万時間演奏した)についてはこの法則が観測されたというだけで、論拠は非常に脆弱です。

これはグラッドウェルに限ったことではなく、「才能より努力だ」と主張する多くの本に共通している特徴で、例えばデイビッド・シェンクによる「天才を考察する」では、「生まれついての天才」の代表格とされるモーツァルトが、実際には幼少期から集中的なトレーニング=努力を積み重ねていたという事実を論拠として挙げて、やはり「才能より努力だ」と結んでいるのですが、これはよくある論理展開の初歩的なミスで、実は全く命題の証明になっていません。

まず、真の命題は次のようになります。

命題1:天才モーツァルトは努力していた(天才モーツァルト⇒努力)

この命題に対して、逆の命題、つまり

命題2:努力すればモーツァルトのような天才になれる(努力⇒天才モーツァルト)

を真としてしまうという、よくある「逆の命題」のミスです。

正しくは

命題1:天才モーツァルトは努力していた(天才モーツァルト⇒努力)

という真の命題によって導出されるのは、対偶となる命題、つまり

命題3:努力なしにはモーツァルトのような天才にはなれない(¬努力⇒¬天才モーツァルト)

であって、「努力すればモーツァルトのような天才になれる」という命題は導けません。

では努力は全く意味がないのかというと、もちろんそうではありません。実際の研究結果はどうかというと、一万時間の法則が成立するかどうかは、その対象となっている楽器・種目・科目によることがわかっています。

プリンストン大学のマクナマラ准教授他のグループは「自覚的訓練」に関する88件の研究についてメタ分析を行い、「練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない」という結論を出しています[1]

具体的には、同論文は、各分野について「練習量の多少によってパフォーマンスの差を説明できる度合い」を紹介しています。 

  • テレビゲーム:26%

  • 楽器:21%

  • スポーツ:18%

  • 教育:4%

  • 知的専門職:1%以下

この数字を見ればグラッドウェルの主張する「一万時間の法則」が、いかに人をミスリードするタチの悪い主張かということがよくわかります。「努力は報われる」という主張には一種の世界観が反映されていて非常に美しく響きます。しかしそれは願望でしかなく、現実の世界はそうではないということを直視しなければ、「自分の人生」を有意義に豊かに生きることは難しいでしょう。

さて、話を「公正世界仮説」に戻して進めます。公正世界仮説、すなわち「頑張っている人はいずれ必ず報われる」という考え方は、実証研究からは否定されており、努力の累積量とパフォーマンスの関係は、対象となる競技や種目によって変わる、ということを説明しました。つまり、いたずらにこの仮説に囚われると、やってもやっても花開くことのない「スジの悪い努力」に人生を浪費してしまいかねない、ということです。

さて、ここからは「公正世界仮説」の別の問題点を指摘します。それは、この仮説に囚われた人は、しばしば逆の推定をするということです。つまり「成功している人は、成功に値するだけの努力をしてきたのだ」と考え、逆に何か不幸な目にあった人を見ると「そういう目に遭うような原因が本人にもあるのだろう」と考えてしまうわけです。いわゆる「被害者批難」「弱者避難」と言われるバイアスです。例えば日本にも「自業自得」「因果応報」「人を呪わば穴二つ」「自分で蒔いた種」など、弱者非難に繋がることわざがありますね。

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