「子供の時代」がやってくる

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

マルコによる福音書10.13

唐突ですけど、ここから「子供の時代」がやってくる、と思っています。子供のような「感性」や「わがままさ」や「衝動」をもった人たちが活躍する時代、という意味ですが、このような指摘をすれば、「いや、もうすでにやって来ている」と感じる人もおられるかもしれません。

それはたとえば、Appleのスティーブ・ジョブズやGoogleのセルゲイ・ブリンやTeslaのイーロン・マスクといった人たちのことで、彼らを見ていると本当に「やんちゃな子供」そのものですよね。

一方で、大人はどうかというと、これから先はなかなか厳しいのじゃないかと思うのですよね。特に「大人の配慮」とか「大人の事情」といったことが言われているところほど、しんどい場所になっているように思います。

どれだけ、自分の中の「子供の部分」を引き出せるか?これから先の社会を生きていく上でこの論点は非常に重要なものになってくると思います。

衝動を阻害するもの

 これは「ビジネスの未来」で指摘したことですけど、子供は衝動をエネルギーにして動きます。一方で大人は計算を考えて動きます。先に挙げた起業家たちは「いてもたってもいられない」「これをやらずにはいられない」という衝動に突き動かされてビジネスを立ち上げています。

人間性に根ざした衝動が高原社会における経済活動になりうるのか?この問いについて考えたときに、大きな阻害要因になると思われるのが、私たちが暗黙裡に自分たちを縛っている規範です。

衝動によって自己を駆動するためには心理を抑圧する規範を意識化した上で一旦はそこから解き放たれつつ、一方で同時に社会的な規範の範疇とどう折り合うかを考えることが求められるわけですが、そのようなことが可能なのでしょうか?

遠野物語の「あの話」は何を伝えようとしているのか?

 昭和を代表する思想家の一人である吉本隆明は、彼の代表作「共同幻想論」の中で、柳田國男の「遠野物語拾遺」(1935年)の中から次のような二つの言い伝えを紹介しています。

1.       村の馬頭観音の像を子供たちがもちだしてころばしたりまたがったりして遊んでいた。それを別当がとがめると、すぐにその晩から別当は病気になった。巫女に聞いてみると、せっかく観音さまが子供たちと面白く遊んでいるのをお節介したから気に障ったのだというので詫び言をしてやっと病気がよくなった。

2.       遠野のあるお堂の古ぼけた仏像を子供たちが馬にして遊んでいるのを、近所の者が神仏を粗末にすると叱りとばした。するとこの男はその晩から熱を出して病んだ。枕神がたってせっかく子供たちと面白くあそんでいたのに、なまじ咎めだてするのは気に食わぬというので、巫女をたのんでこれから気をつけると約束すると病気はよくなった。

いま、この二つの言い伝えを読んだ読者のみなさんの心の奥底には、おそらく何か名状しがたい独特の感興が微かに湧き上がっていることだと思います。吉本隆明はこれらの言い伝えを彼独自の「対幻想」論の分析に用いているのですが、ここで先述した「衝動と規範」の関係について考察してみましょう。

吉本隆明が取り上げた「遠野物語拾遺」の言い伝えは上記の二つですが、実は「遠野物語拾遺」には同様の言い伝えがなんと五つも掲載されています。話の骨子は常に同様で、必ず「畏れ多いもの」、つまり先述の例で言えば観音様や仏像などがそれに当たりますが、を持ち出して子供達が遊んでいると、それを咎め立てして叱る大人が出てきます。

私たち大人の規範に照らせばそれはもちろん「良いこと」をしたように思われるわけですが、不思議なことに子供を叱った大人はその後、高熱を出すなどの不幸に見舞われます。身に覚えのない大人はそれが何の罰かわからないのですが、高熱にうなされる夢うつつの中、枕神や巫女などの境界的・超越的な媒体を通じて「恐れ多いもの」から「子供と遊んでいたのに邪魔をした」と怒られ、これに詫びることで大人の不幸は解除される、という構図です。

伝承や民話には「重大な忠告」が隠されている

さて、これはいったいどういう話なのでしょうか。これを読まれた方の中には、単なる荒唐無稽な昔話で別に深い意味なんてないだろ、と思われた方もおられるかもしれませんが、それは大きく間違った考え方です。

現に、いままさに私がこうしてみなさんにこの言い伝えを読み伝えているように、これらの言い伝えは古い昔から気の遠くなるような数の人々による口伝の繰り返しによって伝えられてきたわけで、いわば「民話の自然淘汰」をくぐり抜けて残ったものです。

しかも、それが単に一つの言い伝えであるというだけでなく、ほぼ同様の骨子を持っている話がいくつも残っている。ここには、私たちの文化の基層をなすある価値観や禁忌が織り込まれていると考えなければなりません。平たい言葉で言えば、一種の「重大な忠告」がここに含まれている、と考えるべきなのです。

ちょっと話が横道に逸れますが、そう言えば第二次世界大戦時に日本に滞在して諜報活動を指揮したソ連共産党のスパイ、リヒャルト・ゾルゲ[1]は日本への赴任が決まった際、真っ先に「日本の神話」を収集し、これを読み込むことで日本人の精神構造を理解しようとしていますね。イギリス大使のパークス[2]なども同様のことをやっていますが、スパイ活動や外交交渉などのような、手続き上のルールだけに従っていてもコトが進まないような「一筋縄ではいかない」仕事に取り組む場合、相手の精神性を深いところまで理解するためのよすがとして、彼らはその国の文化が営々として築き上げてきた神話に頼るわけです。

ということで、話をもとに戻せば、これらの物語は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?

子供の無垢なる衝動を大人は邪魔するな

さまざまな解釈がありうると思いますし、どれが正解ということでもないのでしょうが、私はここで「無垢なる衝動が偽善に脅かされる危険性」を訴えているように思うのです。

子供たちが仏像や観音様を持ち出して遊ぶのは「無垢なる衝動」の発現です。それは先述の言葉でいばまさにコンサマトリーなもので、そこには何ら功利的・手段的な目論見はありません。そして、神々はそのような「無垢で清浄な衝動」と戯れることに愉悦を感じている。そう村上春樹さんのいうとおり「神の子どもたちはみな踊る」のです。

一方で、それを咎め立てして叱る大人たちは「仏像は大事、観音様は拝むもの」という人間界の規範や観念に基づいて子供たちを叱ります。一見すれば、大人のこのような行動は神仏への敬愛があればこそ、と考えられるわけですが、しかし本当にそうなのでしょうか?

大人たちが子供たちに「神仏は敬い、拝むものだ」という規範を押し付けるとき、その背後に何らかのご利益や他者評価を期待している、つまり先述の枠組みでいえばインストルメンタルな意図が含まれているのだとすれば、そのような偽善的規範こそが邪まなものだと言えます。

無意識の地下に深く根っこをなすインストルメンタルな意図に気づかぬまま、意識の地上に枝葉をなす規範と観念を正当化して振り回し、コンサマトリーな衝動に突き動かされて神仏と戯れる清浄で無垢な子供たちを叱るのであれば、それはやがて「よこしまでインストルメンタルな規範」が、「無垢でコンサマトリーな衝動」を駆逐することになりはしないか。これが、この言い伝えが後世の私たちに伝えようとしている忠告だと、私は思います。

神様も子供

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