「自分らしさ」の罠

「歌は世につれ、世は歌につれ」と言う言葉がありますよね。

これは「歌は世のなりゆきにつれて変化し、世のありさまも歌の流行に左右される」といった意味だけれども、では近年のヒット曲の歌詞を並べてみると、そこにどのような「世」が炙り出されてくるのか。

一つ明確な傾向として指摘したいのが、21世紀に入ってからの「自分らしさ」を称揚する歌の台頭です。例えば「自分らしく」、「僕らしく」、「君らしく」という言葉で歌詞検索をかけてみると、該当するのは平成に入ってからの歌が殆どで、昭和の歌は全く出てこないことに気づきます。

加えて「自分らしさ」や「自分らしく」といった「そのものズバリ」の言葉は含んではいないものの、例えばSMAPの「世界に一つだけの花」の様に、歌詞全体として「自分らしさ」を称揚している歌まで含めれば、相当量の歌が「自分らしさ」、「君らしさ」を大事にしようと訴えていると考えられます。

「歌は世につれ、世は歌につれ」ると考えれば、「自分らしさを大事にしよう」と訴える歌の大量発生は、一体どういう「世」なのでしょうか。

ピンクレディの歌詞の全てを手がけ、また「スター誕生」で実質的なアイドルプロデューサーの役割を果たした昭和を代表する作詞家=阿久悠は、平成の歌について

あなたと私以外に世界を持たない。向かい合っている相手だけを見ているのか知らないけど、歌の中に景色がまったくない。(中略)その結果、今年の歌も去年の歌も一昨年の歌も、結局どこかで聞いた同じ様なことを歌っている

「阿久悠神話解体」より

と指摘しています 。

「星の王子様」の作者でパイロットでもあったサン・テクジュペリは「愛するとは、お互いを見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見ることだ」と言っていたけれども、阿久悠は、日本の歌がお互いを見つめ合うことしか語らなくなってしまった、と指摘しているわけです。

自分らしさを安易に称揚する歌謡曲の氾濫は、我々が「過大な自己愛の時代」を生きつつあることを示しています。かつての全共闘は「自己否定せよ」と叫びましたが、これらの歌が訴えているのは「自己肯定せよ」ということで、そのためにまず「僕が君を肯定するよ」と言っているわけです。

新約聖書では、イエス・キリストは神の名のもとに娼婦や皮膚病患者等の、当時のユダヤ教社会において排斥されていた多くの弱者を肯定しますが、現代の歌手やアーティストはいわば現代のキリストとして、多くの人に「あなたはかけがえが無い、あなたは肯定される」と訴えているわけです。

ナンバー1とオンリー1という対比の構造で考えみた場合、ナンバー1を目指すには今の自分を部分的には否定しながらより高い目標へと自己を駆りたてていかなければなりませんが、オンリー1であればそうした自己否定を経ずに安易に自己充足することが可能です。

オンリー1という言葉は、競争の序列から離れた個人が、それでもなお内在的に価値を有していることを主張しているのでしょうが、実際には「世界に一つだけしか無い」ということはそのまま価値を持っていることを意味しません。

足元に転がっている石コロでも全く同じ形のものは世界に二つとないわけで「世界に一つだけのオンリー1なんです」と言われても、価値判断をする側としては「だから?」としか応えられない。つまり、これらのレトリックは、ナイーブな人たちを慰める一種の「まやかし」でしかないということです。

ここで問題になってくるのが、いわゆる「自分探し」の問題です。最近の若い人を見ていて危なっかしいなと思うのは、過剰な自己愛の時代を生きてきたために、多少でも「自分らしくない」と思える事態に向き合うとすぐにそこから逃げてしまうという傾向があることです。

しかし、オンリー1であることをSMAPが肯定してくれても、実生活の上で他者が肯定してくれるかどうかはまた別の問題です。20代から30代前半といった時期に「自分らしさ」を追い求めて自己肯定しようとする度合いが高ければ高いほど、後になって自己否定せざるを得ない状況に追い込まれてしまう可能性が高い。

であれば逆に若いときは不自由さ、自分らしくないことにも「ある程度」は耐える、ということも必要なのではないか、と私は考えているんですけどね。

どうなんでしょうか。

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