#053 「島」を出よう!

いまからちょうど半世紀前の1973年1月23日、アイスランド沖のヴェストマン諸島に属するヘイマエイ島で突然に火山の噴火が起きました。幸いにして島の住民のほとんどは無事に救出されましたが、その後、噴火は五ヶ月の長きにわたって続き、島民の三分の一が家屋を失うことになります。この「三分の一」という数字がポイントです。

島民の「三分の一」が家屋を失ったということは、逆に言えば島民の「三分の二」の家屋は残った。ということです。溶岩流に飲み込まれる、あるいは火山礫や火山灰に埋もれるなどして失われた家屋を再建するには言うまでもなく莫大な費用がかかります。不幸にも家屋を失った人々は別の住居を再建することを余儀なくされたのです。

溶岩流に家屋が飲み込まれたり、火山礫に家屋が破壊されたりするのは純粋に確率の問題です。これはつまり、この噴火によって家を失った「三分の一」の人と、家を失わずにすんだ「三分の二」の人とのあいだに何らかの能力的・資質的な違いがあったわけではなく、ただ単に「運の良し悪し」という違いしかなかった、ということです。

最終的に、家を失った人には政府から補助金が支給され、それで島の別の場所に家を建ててもいいし、どこか別の場所に移住しても良いとされました。ヘイマエイ島は長らく漁業で栄えた島です。家屋を失った島民のほとんどは先祖代々、長らく家業として漁業を営んできた家に生まれ、本人もまた漁業者として人生を送ることを当たり前の前提として噴火の直前まで生きていました。

そんな彼らが「噴火によって家を失う」という契機によって、「自分はこの先、どう生きるのか」という問いに向き合わざるを得なくなったのです。そして最終的に、噴火によって家屋を失った人の42%が、島を出て、漁業という先祖伝来の仕事を捨て、別の人生を生きることを決断しました。

さて、興味深いのはここからです。アイスランドは非常に小さな国ですが住民の統計が極めて正確に記録されており、納税その他の記録を使うことで、このときヘイマエイ島に居住していた人々が、その後、どのような人生を送ったかを精密にトレースすることができます。

このように「不幸な契機」によって家を失い、島を出ることを決断した人々の人生はその後、どうなったのか?ある研究者が疑問に思って調べたところ、これらの人々、つまり不運にも家を失って仕方なく島から出ることを決断した人々の生涯収入は、島に残った人々のそれを大幅に上回っていた、ということを明らかにしました[1]。

要因の仮説は様々に立てることができます。たとえば島を出たことで大学進学の確率が上がったのではないか、あるいは漁師以上に適性のある仕事を見つられたのではないか等々。しかし、どれもこれもすべて、噴火という「短期的には不幸な契機」によって、「この後、自分はどのようにして生きていくのか」という問いにしっかりと向き合わざるを得なくなった、という唯一の根本原因によっているのです。彼らのほとんどは、噴火によって家を失うということがなければ、島に住み続け、彼らの先祖と同じように漁師としての人生を全うして人生を終わっていたでしょう。

そしてさらに、この研究が明らかにした別の興味深い点があります。それは、幸運なことに噴火によって「家を失わなかった人」の27%も、補助金をもらわずに島を出るという決断をし、そしてこの人々も、島に残った人々に比べて最終的にはより豊かな人生を送った、ということです。

この人たちがなぜ、家を失わないまま、先祖伝来の職業を捨て、島を出て新しい世界で生きるという、大きなリスクを背負う決断をしたのか、それはわかりません。おそらく本人にも答えられないでしょう。ただ、確実に言えることは、噴火というきっかけによって彼らが「この先、自分はどのようにして生きていくのか、これまでの人生を続けて、それでいいのだろうか」という問いにしっかりと向き合い、おそらくほとんどのケースは直感的に「それは違う」という判断を下した、ということです。

社会経済学者の世界ではよく知られるこのケースは、アフターコロナをどう生きていくのかを考えなければならない現在の私たちに、深い示唆を与えてくれると思います。

私たちがここ数年のあいだ直面した新型コロナウィルスによる危機は、ヘイマエイ島の噴火と同じく、短期的には不幸なインシデントでしかありません。そしてヘイマエイ島の住民と同じく、インシデントがもたらす「負のインパクト」は人によって大きな差があります。

隣同士の家の片方が火山礫によって粉々に砕かれた一方で、もう片方は傷ひとつない、といったことが起きたのと同じように、コロナによってある企業は破綻に追い込まれた一方で、ある企業は逆に売上や利益が改善するということが世界中で起きています。

急速に進行する予測不可能なパニックによる影響ですから両者を分つのは経営力でも現場力でもない、つまるところ「運」としか言いようがないものでしょう。そして、それぞれの内部にいる人々は、いままさに「運が悪かった」あるいは「運がよかった」と一喜一憂し、そして一刻も早く、ふたたび穏やかな「日常」が回復することを望んでいます。

しかし、私たちは本当に「かつての日常の完全な回復」などを望んでいるのでしょうか。私たちの社会、あるいは私たち一人ひとりの人生に、何の問題もないと自信を持って答えられる人はこの世界に一人も居ないでしょう。であれば私たちは、まさにヘイマエイ島から出るという決断を下した人々が、噴火後に「自分はこれからどう生きていくのだろうか」と考えたのと同じように、「これからどのような社会を築いていくのか、これからどのようにして生きていくのか」という問いに向き合わなければならないのではないでしょうか。

このカオスに怖気付いてひたすらに「日常性の回復」を求めるか、このカオスに乗じて人生の再設計を図るかは最終期にみなさん次第です。ただし、ここで「リスクの持つ別の側面」にも触れておきたいと思います。

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