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地面師たちの緻密すぎる詐欺テクニック満載! 新庄耕『地面師たち』試し読み

不動産売買専門の詐欺師――地面師。2017年に積水ハウスが地面師グループに55億円騙し取られた事件が話題になりました。

その「地面師」を主人公にした小説『地面師たち』が、12月5日に発売されます。著者・新庄耕さんのデビュー作『狭小邸宅』はブラック企業の不動産営業マンの圧倒的なリアリティで話題になりましたが、今作でも膨大な取材をもとに「地面師」を迫力たっぷりに描いています。

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刊行前に、作品冒頭の約1万6000字を公開いたします。最初のシーンでは、七億円の地面師詐欺を描いています。取引の場面は、ハラハラドキドキ間違いなしです。この機会にぜひ!

〈第一章の登場人物〉
拓海:本作の主人公。地面師。ある事件で妻子を失い、若くして白髪。「井上秀夫」という偽名を使う。
後藤:地面師グループの一人。以前はまっとうな司法書士だった。関西出身。
ササキ:なりすまし役の老人。ターゲットとなる物件を所有する「島崎健一」のフリをする。

※『地面師たち』のPVもぜひ。

     第一章

「干支は?」
 隣の後藤がとうとつに言った。
「え」
 緊張した面持ちのササキが間のぬけた声を出している。拓海は、アイスティーのグラスをテーブルにもどした。
「え、ちゃうで。しっかりしいや。これから本番なんやで、頼むわ。ジイさん、ぎょうさん練習したんやから、ちゃんと頭に入ってんねやろ」
 後藤は苛立たしげな声をもらし、ベルトを隠すほどの脂肪でおおわれた腹をゆするようにして座り直した。
 駅からほど近い喫茶店には、拓海と同年代だろうか、出勤前と思しき三十代後半の女性がノートパソコンをひろげていたり、よれたスーツを着た中年男性が放心したように虚空を見つめて紫煙をくゆらせたりしている。各席はゆとりをもって配され、適度なざわめきもあるためか、窓際に面したこちらのテーブルに関心をはらうものはいない。
 拓海はアイスティーにささったストローを口にくわえ、後藤の表情をうかがった。かろうじて残された頭髪をポマードで後ろになでつけ、仕立てのいいスーツを身にまとっている。一見して店内のどのビジネスマンより紳士然としていても、ササキをにらみつけるその目は険しい。
「ササキさん」
 拓海は、かたい空気を振り払うようにつとめて明るく呼びかけた。
「先方と会ったら、いつどんなタイミングで質問が飛んでくるかわかりません。いつでも答えられるように心の準備をしておいてください。気を張る必要はないです。リラックスして、ごくごく自然に、なるべくわざとらしくならないように」
 そう落ち着いた声で語りかけると、ササキはすがるような目をして小さくうなずいた。
「もっぺん最初から暗唱させた方がええわ。不安やわ、こんなん」
 横から後藤がじれったそうに声を出す。
 拓海と後藤はこの日はじめてササキと対面した。その「出来」については、本番に耐えうるというハリソン山中の所感しか知らされていない。
「ジイさん、あんたの名前は?」
「し、島崎健一」
 身をせり出した後藤に気圧されつつも、ササキがおずおずと答えている。拓海は、氷の溶けたアイスティーを口にふくみながら、二人のやりとりに耳をかたむけた。
「生年月日」
「生年月日は……昭和十五年の二月……十七日」
 ササキの眼がせわしなく左右にさまよう。この日のためにたくわえられた口髭が、声を発するたび毛虫のごとく動き、窓外にあふれる七月の朝陽をうけて白く光っていた。
「西暦で言うてみ」
 間髪いれず後藤がたずねる。
「ええと……一九四〇年の二月十七日。干支は辰で、生まれは新潟の長岡――」
「あかんあかん。訊かれてもないことそんなぺらぺら話したらあかんて。訊かれたことだけでええねん。余計なこと言うたらあかん。すぐボロが出る」
 後藤がとがった声でたしなめると、ササキはすみませんと小さく言ってテーブルに眼を落とした。拓海はすかさず表情をゆるめ、ササキをなだめた。
「ササキさん、質問には短く答えるだけで結構です。もし仮に事前におぼえてないことや答えられない質問がきたら、曖昧に言葉をにごしてください。その場合は我々の方でフォローするようにしますから」
 フォローすんのも限界あるやろ、と隣の後藤が不満そうに口をとがらせている。
 後藤が神経質になるのも無理はなかった。ササキがひとつ受け答えを間違えるだけで、拓海たちがこれまで入念に積み重ねてきたものが崩れ去り、残代金の六億円をとりっぱぐれることになってしまう。拓海は、不安の色を隠そうとしない後藤をなだめつつ、引きつづき暗記事項の確認をササキに求めた。
 ササキは緊張を解きほぐすようにコップの水を飲んでから、ふたたび口を開いた。氏名にはじまり、生年月日、干支、出生地、家族構成、家族の氏名や年齢、隣近所の状況、最寄りのスーパーマーケットの名前、物件の概要や外観、売却の理由などと多岐にわたる。ところどころ言葉に詰まるところはあったものの、もれなく記憶にきざまれているらしい。
 今回のプロジェクトでターゲットとしている物件の所有者は、島崎健一という七十八歳の男性だった。数年前に妻と死別してからはひとりで暮らしていたという。昨年の夏に都内の老人ホームに入居し、現在はそこを生活の拠点にしている。
 島崎健一のなりすまし役を立てるにあたって、ハリソン山中らはいつもより多くの候補者と面接したと聞いている。中にはこのササキよりも演技力に秀で、容姿や背格好についても、島崎健一にもう少し似ている者もいたらしい。どの候補者を選出するか意見が分かれたものの、結局はその優れた記憶力を買ってササキを採用したハリソン山中の判断は間違っていなかったとあらためて思った。
「ほんで拓海くん、書類の方は大丈夫なん?」
「ええ。何度もチェックしたので」
 三日前に、後藤をふくむメンバーの最終打ち合わせが終わったあとも、拓海はハリソン山中とともに書類や証明書に誤りや漏れがないか、時間を割いて確認作業を行っていた。
「見してくれる?」
 こちらが足元にある茶革のダレスバッグから書類を取り出すのを見て、後藤が速乾性の透明なマニキュアの小瓶をテーブルに置いた。
「もしまだやったら、これ使うてな」
 注意して見れば、後藤の太い指の腹がかすかにつやめいている。両手の指すべてに塗られたマニキュアはすっかり乾ききり、昆虫の殻のように固まって皮膚に密着していた。
「ありがとうございます。僕はもう済ませてきたので、結構です」
 拓海は丁重に答えながら、親指と他の指をさりげなくこすり合わせた。かすかな異物感がつたわってくる。
 指の腹や掌に、アメリカの専門業者から取り寄せた超極薄の人工フィルムが貼ってあった。海外の諜報機関などにも採用されたという最新の特殊フィルムで、表面には架空の指紋や掌紋の凹凸がほどこされているうえ、人間と同じ皮脂成分の油膜が塗られている。専用の薬品を使わなければフィルムを剝がすことはできず、お湯や少々の力がかかったくらいではビクともしない耐久性もそなえていた。
 物的証拠となりうる指紋の隠蔽は、この仕事をする上では欠かせない。それでもマニキュアを使用した詐欺事件があまりにも頻発したせいで、近頃は、書類などに指紋がひとつもないと、二課の刑事も逆に地面師の仕業を疑うという。後藤のやり方はもう古い。
「……あの」
 書類を後藤にわたそうとすると、テーブルのむこうからササキの声がした。
「どうかしましたか」
 拓海はササキの方に顔をもどした。
「私も、それを塗った方がよろしいでしょうか」
 ササキの視線が、テーブルに置かれたマニキュアの小瓶にのびている。
「ああ、いらんいらん」
 いとわしそうに後藤が顔をしかめて、羽虫を払うように手を振る。子供に言い聞かせるような声でつづけた。
「ジイさんは横に座って、あっちの質問にちょこちょこっと答えるだけで終わりやから、こんなもん、なんも心配せんでええ。全部こっちの話。ダイジョウブ。無事に片付いたら残りのお金もろうて、温泉でもゆっくり浸かり」
 後藤に代わってマニキュアを塗ってあげようか……すぐに思い直した。いわばスケープゴートであり、形式上の主犯だった。罪をかぶる可能性が高い。罪の重大さと事件の性質ゆえ、指紋をごまかした程度のことで当局の追及から逃れられるはずもなく、ただの気休めにしかならない。
 拓海は、さりげなくササキに眼をむけた。
 後藤に恐縮しながら相槌を返しているその顔には、長い時間を経て堆積した苦労と、そこから生じる淡い諦念の色がにじみ出ている。七十代なかばを過ぎた身で、借金を返済するために昼間は都内の地下駐車場で管理業務のアルバイトにはげみ、夜は交通誘導員として路上で赤色灯を振っているのだという。かつては名古屋の高級クラブに給仕として勤め、マネージャーにまで昇りつめて華やかな時代を過ごしたこともあったらしい。店の金に手をつけてからは暗転し、いまや当時の面影をうかがい知ることは難しい。
「ジイさん、あんたこれ済んだらどないすんの。なんか当てあるん?」
「……ええ。あの、知人が長崎におりますので、そちらの方にしばらく世話になろうかと」
 後藤の問いに、ササキがうつむきがちに言葉を返している。
 このプロジェクトによっていわば主役を演じるササキが手にする報酬は、きっかり三百万円でしかない。まとまった金とはいえ、借金を完済するには遠くおよばず、日本を離れて東南アジアなどの海外へ逃亡をはかろうにも中途半端な金額だった。国内の地方都市でひっそりと身を隠すぐらいが現実的な選択なのだろう。
 後藤がスーツの袖をまくり、ギョウシェ彫りがほどこされたランゲ&ゾーネの文字盤に眼をやる。約束の時間が迫っていた。
 拓海から受け取った書類などを、後藤がファイルから抜き出してひとつずつ確認していく。以前はまっとうな司法書士だったという後藤の眼差しはするどい。印鑑登録証明書、登記事項証明書、固定資産評価証明書、固定資産税課税明細書、運転免許証、実印、物件の鍵……一部の証明書をのぞいてすべて偽造品だった。いずれも道具屋によって精巧に造られている。実印は最新の3Dプリンターで寸分たがわず偽造し、運転免許証にいたっては本物と同じICチップが組み込まれている。素人目にはまず本物と見分けがつかない。
「身分証は、ジイさんが持っとかなあかんな」
 後藤はそう言って、実印と免許証をササキに手渡した。
「あっちで本人確認求められるから、そんときこれ見したって。財布に入れといた方が自然やわ」
 ササキは、自身の顔写真が載った、島崎健一の免許証を興味深げに見つめたあと、色褪せて端がやぶれた革の財布にそれをおさめ、真新しいフランネル地のジャケットの内ポケットに実印とともにしまった。ササキのために拓海が靴やシャツとともに用意したジャケットは、多少の着慣れない感じはするものの、一応は資産家風の印象をあたえてくれている。
「ほんで拓海くん、あれからあっちはなんか言うてきたん?」
 後藤が書類の入ったファイルを拓海にもどす。
「いえ、特になにも。決済をせかされて多少うんざりはしてましたけど」
「場所の件も?」
 拓海はダレスバッグにファイルをしまいながらうなずいてみせた。
 通常、不動産売買の決済場所に使われるのは、銀行の応接室や会議室がほとんどだった。そうでなければ不動産業者の事務所が多い。今回、売主側である拓海たちは、いわば第三者的立ち位置にある弁護士事務所を指定していた。職業柄ひとを値踏みするのが習い性となっているだろう銀行と直接対峙することを避けるだけでなく、行内に設置された防犯カメラに自分たちの姿を残さない狙いもあった。
 必ずしも一般的とはいえない決済場所に関して、当初、先方は戸惑いを示しはしたものの、
いまのところはっきりとした疑義は出されておらず、こちらを信用しているといっていい。計画は順調にすすんでいた。
「なんや。今度のは、えらい張り合いないな」
 後藤がわざとらしくうそぶき、嬉しそうに目尻に小皺をつくっている。
 その隙だらけの表情をながめているうち、古い記憶が脳裏をかすめ、しだいに重苦しさがつのってくる。厚く塗り固めていた胸底が音を立てて割れそうな感覚にとらわれる。無意識に奥歯を嚙みしめていることに気づいた途端、右の頰から目尻のあたりにかけて、その箇所だけ固有の意志をもったように痙攣しはじめた。
「どないしたん?」
 後藤が怪訝そうに見ている。
「いえ、大丈夫です」
 顔面の痙攣もそのままに、拓海は無理に笑顔をつくって言った。コップの水を口にしているうち、やがて痙攣はおさまっていった。
 むかいのササキが、落ち着かない様子で窓の方をながめている。後藤が、ふと思い出したようにこちらに眼をむけた。
「そういえば、拓海くんってハリソンとどれくらいの付き合いになるん?」
「四年ぐらいになりますかね」
 その間、ハリソン山中とどれくらいの仕事をしただろう。小さい事もふくめればそれなり
の数におよぶ。
「なんや、まだそんなもんなん? 俺よりぜんぜん短いやん。めっちゃ白髪やし、もっと前からつながってんのかと思うてたわ」
 後藤が拍子抜けしたような声を出す。
「そもそも、拓海くんっていくつなん?」
 今年で三十七になると答えると、後藤は信じられないといったように瞠目していた。
 拓海が後藤と一緒に仕事をするのはこれで二回目となる。それ以前に後藤がハリソン山中とどのような関係にあったのかほとんど知らない。
「大きなお世話かもしらんけど、拓海くんも、いつまでもハリソンなんかにおんぶにだっこのままやと足すくわれるで。他人を信用しすぎたらあかん。自分の身は自分で守らな」
「ありがとうございます、気をつけますよ」
 いくらか分別臭い説教を適当にいなしていると、その反応が気に入らなかったのか、ふいに後藤の顔つきが険しさをおびた。
「もともとあいつはな……」
 そう言いかけて、後藤は口をつぐんだ。
 店員がコップの水をそそぎにあらわれる。拓海はそれを断ると、腕にはめたガーミンの文字盤に眼を落とした。ディスプレイの片隅に表示された心拍数は平時の目安である七十を示し、デジタルの針はもう少しで九時二十分を指そうとしている。待ち合わせの弁護士事務所は地下鉄の隣駅からすぐのところだった。時間には余裕を持っておいた方がいい。
「ぼちぼち行こか」
 後藤がテーブルの伝票をつまんで腰をうかせた。


 
 弁護士事務所の応接室に通されると、すでに不動産業者であるマイクホームの関係者が待っていた。
 これまで事前交渉や売買契約締結のため拓海と何度か顔をあわせているマイクホームの社長の他に、胸に社長と同じプラチナの社章をつけたその部下二人と、マイクホーム側の司法書士だろう、見知らぬ若い男の姿もある。
 席に荷物を置くなり、どちらからともなく名刺交換がはじまった。
 拓海は、〝スパークリング・プランニング〟という不動産コンサルタント業をかかげる社名と、今回のプロジェクトで使用している〝井上秀夫〟という偽名が記された名刺を手にした。後藤とともに挨拶にまわっていく。型通りの挨拶とはいえ、残代金の支払いと所有権の移転が同時におこなわれる、不動産売買のクライマックスとも言うべき決済を前にして皆口数は少ない。妙な緊張感が室内にただよっている。関西弁をつらぬく後藤の快活な声だけが、やたらと大きくひびいていた。
 ほどなく名刺交換が終わり、総勢八名におよぶ顔ぶれが明らかとなった。
 買主側は、マイクホームの三名と彼らが用意した司法書士の一名が居ならび、売主側は、この取引を表向き取り仕切り、売主の代理人役をつとめている拓海、仲介業者役の後藤、売主役をつとめるササキがならぶ。ミーティングテーブルの端には、立会人であり、ふだんはここ「さかい総合法律事務所」に間借りしながら活動している四十代前半の弁護士が座っていた。
 拓海は、かたい空気をときほぐすように軽く会釈すると、テーブルのむかいにならんだマイクホーム関係者を見回して口をひらいた。
「本日はお忙しいところご足労いただきましてありがとうございます。いろいろと無理ばかり申し上げましたが、無事にこの日をむかえられて嬉しく思っております」
「こちらこそ、このたびは貴重な物件を私どもにお譲りくださり、深く感謝申し上げます」
 四十代なかばという実年齢よりずっと若く見える、端整な顔立ちをした社長が目礼する。慇懃な語調とは対照的に、不躾な視線が拓海の左隣でうつむきがちに座っているササキの方へそそがれていた。
 マイクホーム側がササキと会うのは今日がはじめてだった。
 社長は、今回の取引がはじまって以来一度ならず、物件の所有者である島崎健一との面会を拓海に要請してきた。島崎役のササキを何度も会わせれば、それだけ偽者と見抜かれる可能性が高まってしまう。できるかぎりリスクを軽減するため、体調不良や気難しい性格などの理由をその都度でっちあげ、いずれの要求も突っぱねていた。
 高額な金銭がやりとりされる不動産売買において、買主側は、書類などの形式上の精査だけでなく、慎重を期してその物件が本当に所有者のものなのか、現地視察とは別に対面での本人確認をすることが少なくない。ましてや今回のようにはじめての取引相手で、親族でもない第三者の拓海が売主の代理人ならばなおさらだった。その意味では、今日まで面会を先延ばしされてきたマイクホーム側のササキに対する露骨な反応は、むしろ自然といえるかもしれない。
「それでは時間も限られていることですし、早速はじめましょうか」
 拓海が明るい声でうながすと、右隣に座る後藤がつづいた。
「せやせや、早いとこ片付けましょ。それと個人的なあれですんまへんけど、ワタシ、ちょっと午後から大阪に戻らなあかんのですわ」
 場をなごませるように、後藤がわざとらしく卑下した笑みを満面にうかべている。
 マイクホーム側の反応はうすかった。一様に硬い表情をくずそうとしない。
 拓海がダレスバッグから取り出した書類をテーブルの上にならべると、むかいの司法書士もそれにならい、決済に必要な書類の確認が双方でおこなわれた。
 今回、取引対象となっている物件は、恵比寿駅にほど近い土地だった。地積は三百四十三平米を有し、七億円あまりの売値でマイクホーム側とすでに折り合いがついている。坪単価にして七百万円弱ほどで、実勢価格が一千万円を超えるこのあたりの土地の相場からすると相当に安い。現況は築五十年以上経過した二階建ての空き家で、庭の草木が手入れもされず鬱蒼としている。都心の一等地でありながら、古びた民家に独居老人が住んでいただけで権利関係に複雑な事情は見られず、抵当権も設定されていない。誰にも土地を売らないという所有者の島崎の思いとは無関係に、このエリアを得意とする不動産業者の間では知られた物件だった。
 拓海たち地面師が、島崎健一が老人ホームに入ったという情報を得たのは、入居して半年ほど経った昨年末のことになる。それからあわただしくも周到に準備をすすめ、方々に偽の情報を流すと、いくつかの問い合わせと紆余曲折を経たのち、二ヶ月ほど前にマイクホームから不動産ブローカーを通じて買いたいという知らせを受けた。拓海は、売主の代理人としてマイクホーム側と交渉をかさねると、大幅な割引にくわえ他にも多数の購入希望者がいることを理由に急かし、あおった。ひそかに作った合鍵で物件の内覧を実施するなど相手をその気にさせて、早々と売買契約を締結し、この日の決済をむかえるにいたっていた。
 いかにも実直そうな司法書士が、拓海から受け取った書類に順に眼を通していく。
 拓海は平静をつくろって指を組んだ。相手の名刺を一枚ずつ値踏みするようにながめている後藤と、体をかたくしているササキの方へさりげなく眼をやりつつ、テーブルのむこうにたえず神経を集中させていた。知らぬうちに汗ばみはじめ、指先に貼った人工フィルムの異物感がやたらと意識される。
「にしても、あんた、えらい若いな」
 後藤がおもむろに顔をあげ、マイクホーム側の司法書士に眼をむけた。
 まだ三十代前半に見えるその司法書士は、ふいに声をかけられて、縁無しの眼鏡をかけた顔に動揺の色をあらわにしている。
「登録年次いつなん?」
 後藤が高圧的にたずねると、司法書士は心なしかたじろぎながら、登録して五年あまりだと答えた。
「なんやあんた、まだ年次制研修、一回しかうけとらんの。職業倫理めっちゃ大事やで。そんなんで、こない大事な決済つとまるんかいな。ちょっと心配になってきたな」
 座が静まり、不穏な空気が室内に流れた。
 言いがかり同然の、後藤の不満げな発言に、司法書士は儀礼的に低頭して顔をひきつらせている。マイクホームに対する体裁もあるのだろう、書類を確認する手つきはいかにもやりづらそうだった。
 司法書士が皆の視線に耐えながら、丹念に確認作業をつづけていく。
 不動産の価格にもよるが、不動産売買にかかる所有権移転登記で司法書士が受け取る報酬の相場は、十万円前後らしい。落ち度があれば顧客から多額の損害賠償請求をされることもありうる。そのリスクの大きさからすると、必ずしもじゅうぶんな報酬とはいえないだろう。若くして独立開業を果たしたこの司法書士はいい加減にかたづける気はないようで、自身に課せられた職務を誠実にこなそうとしている。
 途中、気になるところが出てきたのか、司法書士がすでに確認済みの書類を手元にもどそうとしたときだった。その様子をじれったそうに見ていた後藤が口をひらいた。
「そんなちんたらせんと、はよせえよ。新幹線の時間あんねんぞ。乗りそびれたらどないしてくれんねん」
 あからさまに険をふくんだ声だった。
「すみません、島崎さんも午後から老人ホームの定期回診があるようなので、なるべく急いでいただけますか」
 拓海が丁重に補足すると、司法書士の隣で落ち着きなく見守っていた社長が代わりにうなずき、それとなくうながしている。
 その様子を見ているうち、最初にマイクホーム側と対面した際に社長が発した、懇願するような言葉が思い起こされた。
 ――お願いします。うちに買わせてください。
 主に投資用ワンルームマンションの開発・販売を手がけるマイクホームは、創業七年目ながら社員六十名あまりをかかえていて成長いちじるしい。不動産の仲介から事業をスタートし、販売代理、専有卸を経て、今回がはじめての自社開発となる。
 一部上場という経営目標をかかげるマイクホームにとって、自社開発はいわばその足がかりだった。目標実現のために、以前から都内の良質なマンション用地を探していたものの、競争が激しく、開発されつくした都心ではまったく見つからなかったのだという。そのような状況下にあって、島崎健一が所有する恵比寿の一等地が売りに出たとなれば、マイクホームが前のめりになるのも無理はなかった。
 たとえば、建蔽率八十%、容積率四百%、前面道路十四m、高度四十mに制限された今回の土地に目一杯のマンションを建築すると、共用部分をふくめても、区の条例を満たした二十八平米の単身者用のワンルームや、より広いファミリーむけの部屋が三十室前後はとれるだろうか。賃貸価格の相場が坪あたり二万円強となるこのエリアでは、満室時の年間賃貸収入が九千万円以上は見込め、そこから諸経費を差し引くと八千万円ほどに落ち着く。仮に利回りを三・五%と期待するなら、マンションの評価額はおよそ二十数億円と算出されることになる。
 今度の土地の売値を決めるにあたって、拓海たちは、どれくらいの価格が買い手の心をつかみ、同時に怪しまれず、それでいて自分たちの利益が最大になるか協議をかさねた。最終的に、市場価格からすれば破格だが、現実味を残す七億円と設定した。その値段で土地が仕入れられれば、建築設計費用のほか各種税金や近隣対策費用などを考慮しても、原価はおおむね十五億円ほどにおさえられる。リスクに見合っただけの、大幅な利益が見込めるだろう。ましてや島崎の所有する土地は都内屈指の一等地にある。商業地のみならず、住宅地としても人気エリアにあり、かつ駅にも近いとなれば、売れ残ることはない。
 社長はそうした、今回の契約がもたらす種々の利益と、失敗した折の損失を嫌というほど認識しているからかもしれない。書類確認に慎重な姿勢をかろうじて見せつつも、売主側の機嫌をそこねて万が一取引が破談にならぬよう心をくだいている気配が濃厚だった。
 気まずそうな薄笑いをうかべていた司法書士が、ササキに顔をむけた。
「それでは、島崎さま。本人確認をいたしますので、顔写真つきの身分証明書をご提示いただけますか」
 入室してから一言も言葉を発していないササキは、いくぶん緊張した面持ちで小さくうなずくと、ジャケットの内ポケットから財布を取り出し、中にしまっていた免許証を司法書士へ示した。
「直接拝見してもよろしいですか」
 司法書士は「島崎健一」の免許証を受け取った。形状や外観を確認してから、氏名や住所表記などに視線を走らせ、券面の写真とササキの顔を見比べている。
「では、念のためいくつか簡単にこちらから質問させてください」
 司法書士が呼びかけると、ふたたびササキはうなずいてみせた。
「島崎健一さまご本人で、お間違いないですね」
「……間違いありません」
 ササキの表情に動揺らしき色は見受けられない。少し答えづらそうにしている雰囲気が、かえって「本物」っぽさを演出できているとすら感じられる。
「生年月日を教えていただけますか」
「昭和十五年の、二月十七日」
 ここに来る前の喫茶店でのやりとりを再現するように、ササキがよどみなく答えている。拓海は、平穏な心もちで耳をかたむけていた。
「干支をお願いします」
 免許証と卓上のメモを見ながら司法書士が淡々とした調子でつづける。
「ええと……せ、一九四〇年生まれの二月十七日生まれで、た、辰」
 記憶を呼び起こすようにササキが眼をつむりながら答えた。暗記した内容に気をとられすぎて、余計なことまで答えてしまっている。思わしくない流れに、拓海は眉間のあたりがこわばってくるのを自覚していた。
「こちらに二枚の写真がありますが、ご自宅の写っている方を教えていただけますか」
 司法書士が二枚のコピー用紙をテーブルの上にならべた。
 片方の用紙には、正面から撮影されたと思しき島崎健一邸のカラー画像が印刷されていた。長らく風雨にさらされつづけた石塀はまだらに黒ずんで苔が付着し、そのむこうに、このあたりではいまやほとんど見かけなくなった瓦葺きの木造家屋が建っている。もう片方には、島崎邸と同じ年数ほど経年劣化したように見える民家が写っている。一見して雰囲気は似ていても、瓦の色や窓の配置、塀の造りなどがちがう。
 ササキが口をつぐんだまま、コピー用紙を凝視している。喉元が、動揺するように大きく上下に動いていた。
 想定していない鋭い質問だった。ササキに島崎邸の写真をさらりと見せてはいたものの、細部の造りまでおぼえさせることはしていない。忘れてしまったか、この画像だけでは判断がつかないのかもしれない。
 拓海が助け舟を出そうとしたとき、いかにも山を張ってという感じで、ササキが島崎健一邸の写った用紙を指さした。
 うなずいた司法書士がなおも質問しようとしている。
「まだやるん?」
 後藤が、皆に聞こえるような声で口をはさんだ。
「せっかく、こちらの弁護士の先生が島崎さん本人やって証明書つくってくれはったのに。そんな今日会っただけの、なんも知らん司法書士が、弁護士の先生や、天下の公証人の本人確認をうたがったりしてええんかな」
 そうつづけて、弁護士の方を一瞥した。
 マイクホームと交渉する前、拓海たちは、あらかじめ目星をつけていたこの弁護士のもとへ、島崎健一を装ったササキを単独でむかわせている。そこで、土地の権利証を紛失したとして、所有者であることを証明する「権利証に代わる書類」の作成を依頼させていた。
 この書類、すなわち「本人確認情報」さえあれば、権利証がなくとも不動産の売却が可能となる。書類作成の責任をおう弁護士をいわば善意の加害者として参加させると同時に、今回の決済場所であり、弁護士がふだんから間借りしている、ベテラン弁護士事務所の看板を利用して、このプロジェクトの真実性を強化する狙いもあった。
 聞けば、当初弁護士は、万が一の事態を恐れたからなのか、それとも単純に疑わしさを感じたからなのか、書類作成をしぶったらしい。それでも他人の事務所を間借りしているぐらいだから仕事の依頼は多くないのだろう、結局は相場をはるかに超える報酬で、京都方式の登記共同代理とともに引き受け、生年月日や干支といったいくつかの質疑応答と偽造した免許証によって、ササキを島崎健一本人であると認定した。
 ふいに皆の視線を浴びる形となった弁護士は、拓海たちにはめられているとも知らず、まんざらでもない表情で手元の手帳に視線を落としている。
 後藤の一言と弁護士の後ろ盾が利いたらしい。本人確認はそれでうやむやとなった。
「それでは島崎さま、こちらのご自宅をマイクホームさまにお売りしてもよろしいですか」
 司法書士が、島崎健一邸の画像が印刷された紙を示す。
 皆が注視する中、予行演習どおりササキが、
「……はい」
 と、ひかえめにうなずいた。
 司法書士の指示にしたがって、買主の社長と売主のササキが登記関係の書類に次々と記名、押印していく。
「ここと、それからここにも実印をお願いいたします」
 ササキの表情は相変わらず余裕が失われているものの、書き慣れた感じが出るまで何度も筆写させたはずの〝島崎健一〟の文字に迷いはなかった。指示にしたがって実印を押す動作もそつがない。
 室内は物静かだった。紙のめくれる音やペンを走らせる音がひびいている。
 拓海は安堵した心もちでササキの様子を見つめていた。隣の後藤も、もはや司法書士を急き立てるようなことはせず、黙って見守っている。
 やがて、それぞれの記名と押印済み書類の確認を終えた司法書士が、出席者を見回しながら口をひらいた。
「登記申請書類はすべて整いました。決済をしていただいて結構です」
 知らぬうちに息を詰めていた拓海は、鼻腔からゆっくりと息を吐き出した。ここまでくれば、あとは残代金の振り込みだけだった。
 今回の契約では、買主と売主の二者間取引のため、手付金や中間金を差し引いた六億円近くにおよぶ残代金は、マイクホームの口座から島崎健一の口座に振り込まれることになっている。無論、自宅が売却されていることなどつゆほども知らない島崎健一本人の口座に振り込まれることはない。拓海たちは、運転免許証を偽造するなどして、漢字の異なる〝シマザキケンイチ〞名義の架空口座を用意していた。手付金や中間金については、すでにその口座に振り込まれており、マイクホーム側もなんら疑いをもっていない。
 司法書士の言葉をうけ、マイクホームの社長が部下の男性社員に対して残代金の支払いをするよう指示を出している。男性社員はその場で、銀行に待機させている別の担当者に送金を実行するよう電話をかけた。
 人声がまばらになった。間もなくそれも絶え、重い空気がひっそりとした室内にただよう。
 十分は経ったような気がするが、ガーミンの文字盤を見ると三分しか経っていない。心拍数があがり、九十を超えている。拓海は所在なくテーブルの書類を整理しつつ、遅々とした時間の流れを意識していた。
 残代金が架空口座に振り込まれ、着金確認がとれしだい、拓海の部下という設定でハリソン山中から連絡がくることになっている。それでほとんど片がつく。通常は一時間もせず完了するだろうか。銀行の混雑状況によってはそれ以上かかることもないではない。
 密室に欺く者と欺かれる者が顔を突き合わせ、なにもせず、じっと待つよりほかないこの時間がいとわしかった。後藤も、プロジェクトの成功を目前にして柄にもなく緊張しているのか、黙って卓上のスマートフォンに眼を落としている。
 おもむろに社長がササキの方に微笑をむけたかと思うと、
「あの、今日はわざわざこちらまでお越しくださって、ありがとうございました」
 と、口をひらいた。
「老人ホームの住み心地はいかがですか」
 着金確認前とはいえ、社運をかけた取引を一応はまとめあげて気をよくしているのか。上気した社長の顔には、不安と紙一重の、無理やりこしらえたような興奮がひろがっている。
 売主が個人の場合、不本意な理由で売却を迫られているケースもありうる。とりわけ今回のように希少な物件の場合、買主側は、些細なことで売主が機嫌をそこね、気が変わらぬよう、会話は時候の挨拶程度にとどめ、求められれば口を開くという態度をとることが多い。マイクホームの社長が積極的にササキへ話しかけるのは、拓海たちにとって意外だった。
「……ええ。そうですね……まあ」
 役目を終えて気を抜いていたらしいササキが、ふいの問いかけに狼狽していた。
 島崎健一が現在入居している老人ホームについては、入居一時金に億を超す金が必要なこと以外は、ホームの名称と所在地ぐらいしか事前情報をササキに伝えていない。それ以外のことをたずねられても答えられるはずがなく、下手に答えればあっさりと化けの皮がはがれてしまう。
「社長さん、そらそうですわ。島崎さんがいてはるホームはえらい上等なとこやから、下手なホテルなんかよりよっぽど快適です」
 スマートフォンを注視していた後藤がいつもの調子で強引に回答を引き取る。相変わらず馴れ馴れしいその声に、わずかながら焦燥の響きがふくまれている。
「そうですよね。あそこはラグジュアリー度でいったら都内でも指折りですもんね。メディアでもよく取り上げられてますし、レストランの中にお鮨屋さんが入ってたりなんかして」
「ああ……そうそう。鮨屋な。ええよな、鮨」
 魚嫌いの後藤がササキに代わって苦し紛れに言葉を返している。島崎健一が住む老人ホームに関する情報については、後藤も拓海もほとんど知らないも同然だった。
 にわかに状況が切迫してくるのを感じた拓海は、マイクホーム側に気づかれないようテーブルの下でスマートフォンを操作した。ほどなく、すぐ隣で携帯電話が鳴った。
 ササキはポケットから携帯電話を取り出すと、事前の取り決めにしたがって、無言の相手にむかって応対するふりをしている。
「ホームからで……」
 ササキが送話口を手で押さえながら、大事な話をしなければならないのだと言いたそうな眼でこちらを見ている。相手に気づかれる恐れがあるときの緊急避難だった。喫茶店で繰り返した練習よりも、自然な振る舞いだった。
「それでは、いったん外しましょう」
 拓海は皆に聞こえるように言い、ササキを連れて部屋の外へ出た。
 弁護士事務所の外でササキを落ち着かせている間、拓海はスマートフォンを内ポケットから取り出し、老人ホームとは別の話題に変えるよう後藤にメッセージを送った。
 五分ほどしてから、ササキとともにもどると、応接室はにぎやかな笑声に満ちていた。拓海の指示どおり、後藤がうまくやってくれたらしい。駅の立ち食いそば屋に見る関西と関東の出汁の違いについて、誇張しながら比較文化論まがいの持論を述べ、いつもの調子で皆の笑いをとっている。
 無事に危機が去り、席についた拓海はくつろいだ心もちで後藤の雄弁な語りに耳をかたむけた。
「思い出した」
 ふいの声だった。
 それまでずっと黙っていた新人と思しきマイクホームの若い女性社員が後藤の話を断ち切り、ササキに顔をむけている。つけまつ毛に縁取られた目を嬉しそうに見開きながら、なにか重大なことをひらめいたと言わんばかりに、スーツの上からでもわかる豊満な胸の前で合掌している。
「さっきの老人ホームって、もしかして、いずみ鮨さんの二番手さんが握りに来てくれるところじゃないですか。そうですよね。アタシ、知ってます。昔からいずみ鮨さんよく行ってるんです。親が大将のファンで」
 よほどその鮨屋に思い入れがあるのか、女性社員は、苦笑いをうかべながらやんわりとたしなめる社長の制止にもとりあわず、いかにも我慢できないといった感じで話している。
 思わぬ伏兵の出現に、後藤が脂汗をうかべながらどうにか話をそらそうとした。かえって彼女を勢いづかせるだけだった。
「あそこの鮨は本当に美味しいんですよね。お店で使ってるグラスもぜんぶ江戸切子で素敵だし。島崎さんも、いずみ鮨さんよく利用されるんですか」
 後藤の努力もむなしく、女性社員がササキにたずねる。
「……ええ……まあ」
 戸惑いを顔にうかべたササキがささやくような声で答えた。
「あんなに美味しいお鮨がご自宅で毎週食べられるなんて本当に羨ましいです。大将のお鮨も美味しいですけど、私は二番手さんの握るお鮨も大好き。赤酢のシャリで、あのなんとも言えない空気の入り方が絶妙で。あそこって、週に一度かな、二番手さんがいらっしゃると思うんですけど、何曜日でしたっけ」
 ササキが口をつぐんだ。うつむいて適当にごまかすこともできず、なかば放心したように、立てつづけに質問してきた正面の女性社員を凝視している。
 妙な沈黙につつまれた。
 隣を見れば、後藤も発言の機を逃したらしい。ササキの方を傍観したまま固まっている。拓海はにわかに頭部が熱をおびてくるのを意識した。外に避難する手をもう一度使いたかったがどうしてか体は動いてくれない。なんとかしてこの場をとりつくろわなければならないというのに、唇はこわばり、くすぶった焦りだけが胸底にわだかまっていく。
 マイクホーム側の面々に怪訝そうな色があらわれはじめたとき、とっさに拓海は口をひらいた。
「火曜……だったかな。いや、水曜日だったっけな」
 腕組みをし、余裕のない表情のまま天井を思案げにあおぐ。皆の視線が自分の方にむけられたのに気づくと、その顔にぎこちない笑みを貼りつけ、言い訳がましくつづけた。
「あ、すいません。じつは先日、私もお鮨行ったんですよ。別にそんな高級なところじゃなくて、くるくる回るやつなんですが、イクラを頼むと皿にこぼれるぐらい山盛りにしてくれたりして、ついたくさん食べ過ぎちゃって、二十皿以上はいったかな。あれ、何曜日だったかななんて急に思い出してしまいまして。すみません……なんか」
 なんら脈絡のない、雑音同然の空言だった。それでも、ササキにむけられていた注意がうやむやになっていくのがわかる。
「ちゃうで、あれ水曜やで。そのあとお姉ちゃんとこ行って、ほら、なんやっけ、あのミキちゃんって横についてくれた大学生の女の子。授業のない水曜しか出勤してへんて言うてたもん」
 後藤が我に返ったようにすぐさま話を合わせてくる。もはやその声に焦燥の響きは感じられない。
「そうでしたっけ。酔っ払いすぎて、忘れてしまいました。たしかに、水曜でしたね」
 拓海もいつもの平静さを取り戻すと、これ以上会話の主導権をマイクホーム側ににぎられぬよう、社長に水をむけた。
「社長はふだん、どのあたりで吞まれるんですか」
 難が去ったその後も、ササキに質問がおよばぬようとりとめもない世間話で時間をかせいでいると、拓海のスマートフォンが鳴った。ハリソン山中からだった。無事に着金確認がとれたという。拓海は端末を握りしめたまま、後藤にむかって得意げにうなずいてみせた。
 端で傍観者を気取っていた弁護士があくびを嚙み殺す。気づけば室内の緊張はほぐれ、なごやかな空気がただよっている。
 手数料の振り込みや銀行の記帳などが済み、領収書や取引完了確認書の写しを手にした司法書士が、法務局へ所有権移転の手続きにむかう。それを見届けてから、拓海は出席者全員に聞こえるように声を張った。
「以上で、すべての取引が完了いたしました。お疲れ様でした」

(つづく)

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