トロッコ問題

トロッコ問題。

うーん。トロッコ問題。いわゆる「思考実験」ってやつですが。

でもトロッコ問題って、実際に直面するのって合理的思考の帰結や論理的一貫性などではないのですよね。考えれば考えるほど、そこで向き合わないといけなくなるのは「当事者となってしまった人間」の苦しみだし、その結果としてもたらされるであろう罪責感だし、その罪責感と向き合わないといけない己の人生ということになるわけですね。

どちらを選択しようが人が死ぬ。その事実と重み、そして間違いなくそこにある「罪」と向き合わなければならない。

もちろん「そんな罪責感なんて感じないよー」とあっけらかんと答える人もいるでしょう。でもそうであるならなおのこと、このトロッコ問題で向き合うことになるのは己の論理的一貫性や合理的思考などでは全くなく、その人の「価値観」や「世界観」そのものだということになるわけです。

これ、フィクションの世界なら前提を覆して全てを救うことも可能なわけです。実際、ネットでは前提をひっくり返した形でのトロッコ問題との向き合い方で溢れている。でもそれって結局、前述の「当事者としての苦しみ」と向き合いたくないって気持ちの裏返しでもあるよなって思うわけです。

そしてトロッコ問題って、実際には形を変えて常に僕らも当事者だったりするわけですね。たとえば「先進国」でのテロを防ぐという名目で中央アジアや中東で何万、何十万と人が殺されていたりする。でも僕らはそれを無自覚に支持していたりする。

現実は思考実験よりも大規模で残酷で、そして酷薄です。

さて。

なんで唐突にこんなことを書きはじめたのかというと、上で「フィクションの世界なら前提を覆して全てを救うことも可能」と書きましたが、そういったフィクションの持つファンタジー性は捨てないままに、同時にしっかりとトロッコ問題に向き合う。

そういう姿勢で、いつかこの問題をきっちりパルプに昇華させてみてーなぁと思ったからなのでした。

あとなんかこれを読んで触発された。

うし、頑張るぞ。

【おしまい】

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