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久しぶりに囲碁の大会に出た感想「静止衛星は静止していない」

こんにちは。しゅぎもんです。

私は5歳の頃に囲碁を始めてからというもの、のらりくらりと囲碁を続けてきました。

高校の頃は他の競技に熱中していたので、かなり怪しかったですが、囲碁が頭の片隅から落ちることは今まで全くありませんでした。

社会人になってからは、学生の時の活動でだいたい燃え尽きた感じがしていたのと、やるからには勝ちたいけど勝つための準備ができないという言い訳から、囲碁から離れていました。

人に誘われたり、なにか機会があれば囲碁は打っていましたが、勉強らしい勉強は2年以上せず、真剣勝負も全くしていませんでした。

そんな中で、お話があり、急遽、各県代表クラスの人が集まる大会に出場が決まりました。出場が決まったのが直前だったこともあり、特別な準備もせずそのまま大会を迎えました。

団体戦だったのですが、結果は0勝4敗と不甲斐ない結果に。これが大学のときなら、顧問から「一回も勝たないとそれはダメだなあ。だってその結果じゃあ人形でも置物でもいいんだからなあ」と激を飛ばされているところです。厳しい言葉ですが、それは至極当然で、大会の意義の上で、勝てない人はいなくていいに等しいのです。

ここからは対局の感想をつらつらと書いていこうと思いますが、まず、いい意味でも悪い意味でも没個性的な棋風になっていた気がします。それは、悪い意味では

①感覚的な部分が無くなっているため、思考に時間がかかる

②自分の読みに全く自信がないため、無難な図を目指し勝負を長くしようとする

③形成判断ができないので勝っているか負けているか判断を間違えやすい

このうち②が本当に致命的で、これのために強い人には絶対に勝てないわけです。いくらアマチュア強豪とはいえ、さすがに1つや2つ読み落としている図があったり、微妙な手を打ったり、判断を間違えることがある訳です。自分より強い人に勝つためには、相手の隙を逃さずに、徹底的につけ込むことが絶対に必須で、これができないときは大体、先に自分がミスをして負けるか、いいとこなく緩やかな死を迎えます。

逆にいいことも一つだけあって、一生懸命囲碁をやっていた時代の大きな敗因の「やりすぎ」はなくなっていた気がします。そりゃあそうです。読めないルートには怖くて乗れないので、自然と、ある程度の制御をせざるを得ないという仕組みです。

総評として、囲碁をやっていなくても囲碁を打つことはできるけれど、大会で勝つ状態には程遠いことがわかりました。

これは、棋力の話ですが、そのとき思ったのは、維持するためにも努力が必要だろうということです。そして頭に浮かんだのが静止衛星です。

静止衛星は地上から見ると(肉眼では見えることは条件が揃わないとないですが)止まっているように見えます。しかし地球は公転しているので、静止衛星自体が止まっている訳ではありません。しかも、重力と遠心力が釣り合うゾーンに留まるために、常に微調整をしています。少しでも速度が速ければ外側の軌道や宇宙の彼方へと飛ばされ、少しでも遅ければ地上に落ちてきます。(高校物理の薄っぺらい知識ですが)

調べてみれば、静止衛星は高度35,786kmの地点を3.07km/秒で進んでいるそうで、ここまで繊細な調整を行って、ようやっと止まっていられる訳です。

何かものごとの努力をするときには、「能力を伸ばすこと」が主な目的となっていることが多くて、そればかりを努力と捉えがちです。しかしながら、何かを「維持すること」も立派な取り組みであり、労力が必要だということがわかりました。

維持するのにかかる労力は、忘却曲線の逆関数的に増加しそうなので、やはり普段からたゆまぬ「維持する努力」をすることで、状態を保っておくことは大切なのだと感じました。




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