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最近感動した言葉「私はただ、死ぬまで回転木馬に乗っていたいだけなのに。。。。」

我只想在旋转木马上坐到死。。。。

これは同い年の同僚が、ふとwechatのコメントに残した言葉。

言葉ヤクザはここにも反応した。

この回転木馬の感覚は日本のそれと同じだろうか。

回転木馬を比喩として用いた場合、その解釈は詩文の世界ではある程度までは共通の認識が作られている。回転木馬(メリーゴーランド)は遊園地のアトラクションのひとつだ。馬や馬車の形をしたオブジェクトに人が乗り込んで、回転をして楽しむもので、観覧車とジェットコースターと共に遊園地の代名詞的存在である。
遊園地のアトラクションには必ず「始まり」と「終わり」がある。
メリーゴーランドも回っている間は音楽が必ず流れ、音楽と共に止まる。(音楽を流すのはおそらく軋む音を消すため)

だから「一時的な楽しさ」「ファンシー」のイメージを最初に想起させる。

次に、回転木馬の構造に言及すると、馬という草原を駆けるべく生まれた生物が、アトラクションに括りつけられて同じところを延々と走っているのである。

人間から見れば回転木馬は楽しいものだとして認識されているが、木馬からみれば果たしてその役目は幸せなのだろうか、というようなニュアンスを含むことが多いイメージがある。

小説においても、回転木馬の木馬をラストシーンで空に飛ばせてみたり、富豪が庭に回転木馬を昔作って、さびれさせたりと、
「惰性」「抑圧」のイメージのモチーフになりがちである。

ここまでが大体、回転木馬が想起させるイメージだろう。

さて最初の部分に戻ろう。
コメントを和訳すると
「私はただ、死ぬまで回転木馬に乗っていたいだけなのに」
となる。

日本語的な解釈をすると、

この人の人生は、回転木馬のようであるあることを肯定している。

この人はファンシーの世界にずっと浸っていたいのかもしれないし、
この惰性に満ちた心地よい生活から抜け出したくないのかもしれない。

しかし間違いなくこの人は、今まであった平穏を奪われようとしているのである。そのマイナスなニュアンスは最後の「。。。。」も物語っている。

この人の身に一体何が起こったのだろうか、、、
気になるけど込み入ったことを気さくに聞ける間柄の人ではなかったので、真相はその人の中から出てきていない。

だから、せめてどんな意味かを探るため、中国人の友人にメリーゴーランドという言葉を聞いたときのイメージを聞いてみた。

しかし、周りの人は理系の人が多い(※)からか、「楽しい」のイメージしか出てこない、または、「何も思い浮かばない」という回答が多く寄せられて、あまり自分の期待通りの結果は得られなかった。

真相はどうだったんだろう。

注釈

(※)中国と日本の学力上位層の文系理系について
(これはあくまで1人の人間の体感)

自分の中国人の友人の多くは、有名大学を出ている。学力でいえば半分くらいが上位1〜7,8%くらいに分類されると思う。

詳しくは別の機会があればそこで書こうと思うが、中国の理系学生は日本の理系学生より、理系に特化している。逆にいえば、日本の理系学生は中国の理系学生より文系的感覚・知識が育っていると思われる。

大学の入試制度の違いもあって、
高等教育の時点で教育内容は文系と理系で大きく異なり、理系学生は興味がなければ文系科目をかなり少なく済ませることができるようだ。

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