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カマタマーレ讃岐編

今回はカマタマーレ讃岐編です。2016年末にJ2のファジアーノから契約満了という名の戦力外通告を通達されました。トライアウトを経て、同カテゴリーのカマタマーレ讃岐に入団させてもらう事になりました。
プレー期間は2017年の1年間だけでしたが、この1年間が無ければ、多分今頃Jリーガーではなかったと思います。
その時の濃密な1年間の事について、今回は書きたいと思います。


2016年末のトライアウトが終わり、3週間ほど経ったクリスマスの頃、J2のカマタマーレ讃岐から獲得の打診があった。それまでの3週間はJクラブからオファーが無く、JFLのクラブか地域リーグのクラブに行く事になりそうだった。
でもありがたい事に、当時の岡山の長澤監督をはじめとするチームスタッフ陣、ネクスファジで共に戦った西原さんをはじめとする強化部の方のお陰で、カマタマーレ讃岐からオファーを貰う事が出来た。
JFLまでしか実績の無かった選手を、J2のクラブで移籍先を見つけてくれた方々には、感謝してもしきれない。本当にありがとうございます。

カマタマーレ讃岐は香川県のチーム。岡山県と瀬戸大橋を挟んだ隣県で、テレビ局も岡山県と香川県は同じ。なので岡山に住んでる頃から、カマタマーレ讃岐の事はよくスポーツニュースで見ていた。
でも当時は、ファジアーノの方がJ2リーグの先輩だったのもあるし、サポーターの数やスポンサーの数も圧倒的に多かった。クラブの規模もファジアーノ岡山の方が大きかったと思う。
スポーツニュースもファジアーノが9割、カマタマーレが1割くらいだったんじゃないかと思う。それくらい、両クラブには圧倒的な差があったと思う。ファジアーノは昇格プレーオフ争い、カマタマーレは残留争いが中心で、順位もファジアーノの方が上だった。

がしかし、2014年のJ2から始まった戦い

『瀬戸大橋ダービー』

は、両クラブの規模や順位関係なく、メディアも沢山取り上げてくれて、最高の盛り上がりだった。普段ファジアーノのホームゲームが平均7〜8000人の動員数だったが、ダービーは注目度も高く、カマタマーレのサポーターも大量に来る事もあり、1万人以上が入る。
逆にカマタマーレのホームゲームでも平均3〜4000人だったのが、瀬戸大橋ダービーになると、倍近い6〜7000人の動員数だったと思う。
ホームアウェイ共に、スタンドがエンジ色と水色のチームカラーで染まっていた。

カマタマーレは瀬戸大橋ダービーに強かった。奇策をしてくるし、ファジアーノをとことん苦しめてきた。失礼は承知の上だが、北野監督や木島兄弟をはじめとするヒール軍団は、一癖も二癖も三癖ある大クセチームで、めちゃくちゃ強かった。

そんな印象があるから、カマタマーレ讃岐に入団が決まった時は、正直ビビっていた。あのヒール軍団に入るのか、やっていけるのかな?いじめられたりしないかな?と不安な気持ちで合流したことを覚えてる。
もちろんプロレス好きな俺は、ファジアーノ岡山というみんな黒髪で、真面目で、爽やかで愚直なチームに所属していたので、イメージとしては、新日本プロレスの棚橋弘至選手を中心とした、すなわち
『新日本本隊』みたいなユニットから、2016-17年当時、リーダーだったケニーオメガ選手を中心とする
『BULLET CLUB』や
内藤哲也選手を中心とする
『Los Ingobernables de Japón』の様なヒールユニットに入るイメージでカマタマーレ讃岐の練習に合流した。
でも本当は、矢野通選手と中邑真輔選手が結成したヒールユニット
『CHAOS』の方が似合うかなと、自分の中で考えていた。
この話は、わかる人だけわかってくれればいい。
今度じっくり新日本プロレスについて、書いてやろうと思う。笑
まぁその話は置いといて。このチームの全体の選手の年齢は平均30歳オーバー。主力の大半はベテランの方々。この年に25歳になる俺は完全に、若手扱いだった。

ちなみにファジアーノ時代に岡山市に住んでいた俺は、移籍に伴い、香川県の高松市に引っ越す事になった。車で1時間足らずで、高松市の家に着いたので、あんまり引っ越した感覚がなかった。近いので、たまにうどんを食べに香川にも遊びに来ていたし、新しい場所に来たーって感じもしなかった。

カマタマーレ若手体幹部。
みんな20代半ばや30歳くらいの人も居たので、普通のチームなら若手ではない。
現岐阜の岡村選手と。サポーターを集める為に駅でのビラ配りは毎ホームゲームの2、3日前に選手が交代制で行なっていた。
キックオフイベントにて。おっさんまみれ。
2017年カマタマーレ讃岐メンバー
大クセ集団
ヒール軍団

2017年当時は専用練習場も無く、クラブハウスもない。香川県内のサッカー場や、大学のグラウンドなどを転々としながら練習をしていた。
土日は特にサッカー場が一般利用の為に空いてなくて、フットサル場や土のグラウンドで練習する事も何度かあった。本当に厳しい環境だった。
ファジアーノの最初の2年でも経験したけれど、久々にこの環境で練習するのは中々しんどかった。近々三豊市に専用のクラブハウスとグラウンドが出来ると聞いて、嬉しくなったと同時に、俺の所属時にもっと早く話が進んでくれたらなーと思っている。なにわともあれ、環境が良くなるのは素晴らしい事。これから強くなっていってほしい。

チームの目標も、予算規模だったり環境的にもJ2残留がまずノルマ。J2参入4年目という事もあり、中位に入っていく事が目標だった。Jリーグでの経験が豊富なベテラン勢がチームの主軸だったが、そこに俺ら世代の若手がドンドン突き上げていったら中位に入っていく事も難しくないんじゃないかと思っていた。

高知、沖縄でのキャンプでの2回のキャンプが終わり、2月下旬にJ2リーグ戦が開幕。カマタマーレは、序盤から厳しい戦いが多く、中々勝てない時期が続いた。
俺はというと、清水選手、瀬口選手の壁の前に3番手キーパーとしてベンチにも入れずに過ごす時期が続いた。

その風向きが変わったのは、第18節のホームでのツエーゲン金沢戦。
清水選手の怪我や、チームが不調で中々勝てなかったので、とうとうプロ7年目の俺に、Jリーグ初スタメンの機会が訪れた。
試合の3日前くらいにスタメン組で紅白戦をさせてもらい、デビュー出来ると思った嬉しさの反面、そこから試合までの3日間、不安で不安でしょうがなく、ずっと緊張しっぱなしだった。

そんな訳で試合前に、初スタメンなるかという事でメディアの皆さんに取り上げてもらい、記事を見たファジアーノの選手や色んな仲間や先輩達から連絡をいただいた。

勿論家族や親戚、岡山でお世話になった方々にも沢山連絡をして、多くの方に現地やDAZNで、初スタメンの試合を見てもらう事が出来た。

試合当日、緊張でガチガチだったけれど、カマタマーレのサポーターのチャントや、松原コール。スタンドを見れば、岡山や全国から駆けつけてくれた仲間やサポーター、ファン、よくご飯や飲みに連れてってもらったオジサン達が居て、緊張が徐々に解けていった。
チームメイトやスタッフの方々にも沢山言葉を掛けてもらい、肩の力が抜けて、試合に挑む事が出来た。


結果は1-0で完封勝利。そんなにGKとして仕事は無かったものの、試合終了のホイッスルが鳴った瞬間は、張り詰めていた緊張やプレッシャーから解放されて、膝から崩れそうだった。
カマタマーレの勝利のラインダンス、金毘羅船々をスタンドの皆さんと踊り、久々の勝利を皆さんと分かち合った。
チームのみんなのサポートのお陰で2度と来ないJリーグデビュー戦を、無事に勝利で終える事が出来た。
祝勝会とデビューおめでとうの会をするために、その日の夜、同い歳の現鹿島アントラーズ所属の仲間隼斗選手と仲間選手の奥さんと3人で、高松市内の焼肉屋に向かった。そこで食べた肉と、ビールの味は一生忘れないと思う。

その後、スタメンが続けばよかったが、自分の実力不足もありスタメン定着ならず、リーグ戦1試合、天皇杯1試合しか出場出来なかった。多分メンタル面にまだ未熟な所があったんだと思う。良かった試合の次の週の練習や、ミスが多かった試合や練習の次の練習が1番大事って事に気付かされた。そりゃあ全ての練習や試合が大事だし、真面目にやってるけどね。でもめっちゃいいプレーをして勝った試合や、大きなミスをして負けてしまった試合。大抵の監督や、強化部の方はその後の取り組みを見ている。プレーが上手くいくか、どうかとかではない。サッカーに対する姿勢、プレーに対する責任、発言や言動。メンタル面を特に見ているんだと感じた。その点、金沢戦の翌週の練習は良くなかった。自分では普段通りのつもりなのに、ミスがいつもより目立つ分、1回勝っただけで調子に乗ってるとか思われたみたいだし。試合後のオフに髪を切って染め直したんだけど、そのタイミングが悪いとかね。周りから見たら理解できない事かもしれないけど、そういう甘かったり、調子に乗ってもおかしく無いんじゃないかという言動をとれば、見てる人は見てる。
その点北野監督は、すごく内面まで見てる監督だったので、俺の未熟さを見透かしてスタメン定着をさせてくれなかったんだと思う。
木島良輔選手(木島兄弟の兄)に、言われた事がある。
『お前は、色々タイミングが悪い。別に変な事してるわけではないけれど、髪染めたりするのも良いけど、初めて勝った試合後にやる必要はない。練習中に、アクシデントっちゃアクシデントだけど、ポストに頭ぶつけて血まみれになったのも、お前が焦ってプレーしようとして、バタバタした時だろ。そういう時はいつも以上に集中して、しっかりした行動やプレーをしろ。北野監督はそういう部分めちゃくちゃ見てるから。』と。
そこで色々と気付かされたし、普段真面目な話は、木島の兄貴とはそんなにしないけど、定期的にこういう事だったりを伝えてくれる。今では俺の言葉かの様に、人に言う事もある。勿論、自分自身に対しても常に言い聞かせてる。まだまだだけどね…

それでも、岡山時代にはほぼ経験出来なかった、試合のメンバー入りを、金沢戦をキッカケに、シーズンの3分の2程度果たすことが出来た。これも俺からすると新しい景色で、J2リーグという大きい舞台を間近に感じた。2、3年前まで地域リーグや、JFL。ここ2年はJリーグのベンチにすら入れず過ごしていた俺は、このシーズンを通してJリーガーとして一歩も二歩も前進する事が出来たと思っている。スタンドから見るJリーグと、ピッチレベルで体感するJリーグは全然違ったからね。ホームやアウェイの雰囲気を味わえたのも良い経験となったし。より一層試合に出たいという思いにもなった。

それからチームはというと、J2残留争いが激しく厳しい戦いの中でも、持ち前の粘り強さと、徹底した相手の分析からなる戦術で、勝点をコツコツ積み重ねた。リーグ戦順位は19位。7月中旬までは降格圏内やそこに近い勝ち点差だったけど、夏の5連勝を機に、降格圏のチームと勝点差を広げ、最低限の目標のJ2残留を果たす事が出来た。課題は沢山あっただろうけど、ピッチに立っていないので、言える立場にもないし、言える程実力が無いと思ってた。とにかく自分自身の事で精一杯だったってのもある。

まぁ話は変わり、ここからはピッチ外の部分。この1年のプライベートやチームメイトとの思い出は、とても濃かった。いや、濃すぎた。言えないエピソードが山ほどある。笑
最初は怖かった北野監督も、人間味のある優しいおっちゃんだったし、今までの監督の中で、1番サッカーに関係ない事を沢山話したと思う。プロレス談義に、顔デカいイジリ。俺らって筋トレして鍛えても、綺麗な細マッチョじゃなくて、ドスンとしたプロレスラーみたいな体型になっちゃうよな!って言われた事もある。
選手先輩方も、見た目は金髪やロン毛、チンピラみたいな人達ばかりだったけど、よくご飯にも連れていってもらったし、お世話になった。試合当日の集合場所のホテルに、原一樹選手を車に乗せて向かうのがルーティン。試合後にはコンビニで大量の品を奢ってもらっていた。また、同い歳の森川選手や仲間選手や、歳の近い若手や中堅の選手ともよくご飯に行ったり、船で鯛釣りなどにも出掛けた。プライベートでも充実していた。誕生日には大量のビールと、小顔矯正ベルトが送られた。笑

朝の4時起きで鯛釣りをした時
川でバーベキューをした時
讃岐のマスコット、さぬぴーのモノマネをした時
リアルさぬぴー
勝利のラインダンス 
金毘羅船々


厳しい環境に置かれながらも、なにクソ根性もあったし、気持ちは一つになってたと思う。スタッフや選手共に仲良くて、ファミリー感のあるクラブだった。
冷房の効きが悪い小さいバスで新幹線に乗るために、岡山駅に向かっていた時、高速道路上で爆発音が鳴った。バスの後ろのタイヤがパンクしてしまった。幸い、瀬戸大橋を渡る前だったので、すぐに高速道路から降りて、坂出駅からマリンライナーという普通電車に乗り、岡山駅に向かった事もあった。
カマタマーレの良い所は、こういうハプニングが起こっても、文句はブーブー言いながら普通に受け入れてしまう選手達。グラウンドが土だろうが、フットサル場でセットプレーの練習をしようが、選手スタッフ誰も言い訳せずに試合で全力でぶつかる部分。おっさん達や若手が小さいクラブでも大きいクラブに立ち向かっていく所は、カッコよかったと思っている。

昨年まではファジアーノ岡山という素晴らしい環境や、クラブを取り巻く雰囲気の中で、試合にも出れなかったのに、少し甘えていた俺。
カマタマーレ讃岐に来た事で、もう一度ハングリー精神を思い出す事が出来た。その後に所属したザスパやベルマーレ、サンガやコンサドーレでのプレーや立ち振る舞い、メンタルの部分に大きく影響していると思う。

ちなみにこの年の瀬戸大橋ダービーは、ホームでは1-1の引き分け、アウェイシティライトスタジアムでの試合は、原選手の終了間際のゴールで1-0の勝利。アウェイの大歓声の中で、岡山に来てくれた讃岐サポーターと踊った金毘羅船々は、最高に気持ちがよかった。ちなみに、この試合前に受けた岡山メディアからのインタビューで、多分ヒール発言していると思う。根っからプロレス好きと、カマタマーレという根っからのヒール軍団に染まってしまったがために、そんな発言をしたのであろう。笑

人生で初めて髪を明るくしたのも、この時代。ファジアーノは黒髪限定だったので、6年間黒髪で過ごしていたけど、カマタマーレに入団して1ヶ月後には茶髪にし、そこから徐々に金髪に近い色にしていった。
調子に乗ってるみたいだけど、6年間担当してくれた美容師の方を岡山時代から変えたくなくて、わざわざ毎月岡山に行き、カットとカラーをしてもらっていた。
ファジアーノの選手達やスタッフ、フロントスタッフ、サポーターに会った時、
『調子こいてんな』『似合ってない』『讃岐に染まりやがって』
と、冷たい言葉を沢山かけられた笑
サポーターの中には、似合ってるよって言ってくれた方も居たけど、ファジアーノサポーターは俺のキャラを分かってくれてるのか、はたまた本気で思ってるのか分からないが、いじってくる人が多かった笑

茶髪にしていた時期
瀬戸大橋ダービーでファジアーノサポーターに挨拶


あっという間に1年が終わり、翌シーズンもカマタマーレでプレーする気持ちになっていた。スタメンには、絶対的守護神の清水健太選手が定着していたけど、来年こそはスタメンをとって、カマタマーレをもっと強くする!と思っていた…

が、契約更改に向かう直前、とある番号から電話がかかってきた…

『布啓一郎』

ここからまた、新しい道が始まった。

ザスパクサツ群馬へ完全移籍。


ここからはまた次回以降となります。ザスパクサツ群馬編は2度所属したので、2回に分けようかなと思っています。湘南ベルマーレを経験した事によって、色々変わった部分もありましたし、コロナ期間もあって、3年間いたので内容も濃いと思うので。

書き出すと止まらないですね…思い出が沢山出てくるので、順序だったり、時系列はめちゃくちゃだったりしますけど、その辺はプロの作家でもなんでもないし、書きたい事をバーっと記事にしてるだけなので、ご了承下さい。

来年のシーズンが始まったらこんなペースでは更新出来ないと思いますが、サッカー選手は意外に時間がありますし、テーマを変えたり、質問を受け付けたりして、ずっと楽しんでもらえるように頑張っていきたいと思います。

それではまた!

以上あざっしたー!

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