萩原 修 はぎわら しゅう

つくし文具店 店主

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マガジン

  • スミレアオイハウス

    • 7本

    1999年に建てられた9坪の小さな家「スミレアオイハウス」が一棟貸の宿に生まれ変わりました。 この家で育ったスミレとアオイが運営しています。 https://www.sahouse.net

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      • 7本

最近の記事

【ものづくりとデザインは、どこに向かって行くのか】

ここ数日、そのことについて、いろいろと頭を巡らしているのだけれど、よくわからなくて、書き出せない。 家具とか器とか、暮らしに寄り添う日用品のデザインについて、ずっと考えてきて、それらを産み出す産地のつくり手をみてきて、これから、どうなったらいいのか。どうしていきたいのか。 産業革命、近代化、工業化、そして、都市化。日本の場合は、明治維新以降の西欧化の波。そうしたものに、流されるように、ものづくりは、変化してきた。  戦後の高度成長期は、たくさんのものを輸出して、外貨を稼

    • 【デザインとアート】

      美大でデザインを学んだ。なんで、美術の中に、デザインが含まれているのか不思議だった。学生時代は、仲間とデザインとアートの違いについて、良く話あった。何より、身近にアートを学んでいる学生がたくさんいた。そこから刺激をうけることも多かった。 大学を卒業してからは、デザイナーにはならずに、デザイナーといっしょに仕事をするようになって、身近にアートがある環境ではなくなった。アートは、美術館やギャラリーで見るものになって、作品をつくっている現場は、遠くなった。 美大でアートを学んで

      • 【シュウヘンカ7年の振り返り】

        2021年4月4日、あと8日で、株式会社シュウヘンカ7周年。いったいこの7年間何をしてきたのか、8回にわけて、振り返ってみたいと思います。 ●01 設立 まずは、設立の経緯。 2004年6月末でサラリーマンを辞めて42歳で、独立した萩原修。 個人でできることを、頼まれたら断らないスタンスで、なんとか10年間やってきて、そろそろ次の展開を考えていました。 そのタイミングで、話があったのが、明星大学デザイン学部の教員のお誘い。地域の連携や、企画からデザインを考える構想に惹

        • 【俺の家の話08 コドモが育つ家】

          俺の家は、アネキ、俺、オトート、3人のコドモが育った家だった。 住まいづくりの情報センターで働いていた俺は、核家族で家をつくろうとする人たちは、たいてい小さなコドモがいることを目の当たりにした。もちろん、コドモがいない夫婦や、一人暮らしだって、家を建てるかもしれないけど、タイミング的には、コドモが小学校にあがる前後が家の建て時になりそう。 俺の家は、アネキが2歳の時に建てた家で、オヤジは32歳だった。家が建つ時に俺が生まれ、その2年後に、オトートが産まれた。そして、衝撃の

        【ものづくりとデザインは、どこに向かって行くのか】

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          Aoi Hagiwara 他

        記事

          【俺の家の話07 農地にできた家】

          俺の家は、農地が宅地化されて、できた家だ。 歴史のことは、よくわからねえけど、江戸時代の8代将軍徳川吉宗の時代の経済政策としての新田開発で開拓された土地だったらしい。 1772年に日本橋に立て札がでて、新田開発の希望者には、土地を払い下げるということになった。武蔵野あたりもその対象地だった。 その昔の農民のモチベーションは、想像できねえが、国分寺あたりには、今のあきる野市やら東大和市、国立市あたりから人が来て、土地を開拓したという。 今でも、本多さんとか、内藤さんとか

          【俺の家の話07 農地にできた家】

          【俺の家の話06 人が出入りする家】

          俺の家は、核家族にしては、家族以外の人が出入りする家だった。 家の片隅で商売をしてたから、当然そこには、毎日のように人が来た。でも、それだけじゃなかった。なんと、一時期、下宿をしていた。普通の一軒家なのに。2階の6畳ふた部屋に、大学生が下宿していたのだ。マジで? 記憶では、一橋の男子学生が2人の時と、津田塾の女子学生が2人の時があった。俺が何歳だったかは覚えてねえけど、小学校にあがる前だった。 よほど住宅ローンの返済が苦しかったのか、それとも、地方から貧乏学生の住宅不足

          【俺の家の話06 人が出入りする家】

          【俺の家の話05 高度成長期の家】

          俺の家は、60年前に郊外住宅地に建てられた木造二階建ての家で、増減改築を繰り返した。 特に、変化したのは、北側にある水回りと設備だった。今ではにわかに信じられねえだろうけど、最初は、薪をくべてお風呂を沸かしてた。台所の片隅の勝手口の横の小さな土間から風呂釜に薪をくべた。俺も手伝った記憶がある。 東京ガス関連の会社で働いていたことがあるせいか、お風呂の歴史は、なんとなく知ってる。今のように、ほとんどの家にお風呂のある暮らしは、戦後になって実現した。日本人のお風呂文化は独特で

          【俺の家の話05 高度成長期の家】

          【俺の家の話04 核家族の家】

          俺の家は、家族5人の家だった。オヤジ、オフクロ、そして、アネキ、俺、オトートの3人兄弟の典型的な核家族。 地方から職を求めて東京にやってきた田舎者が、東京の郊外住宅地に建てた核家族の家だ。オヤジは、群馬県草津町出身で、軍人だった父親の出兵先の会津で次男坊として生まれた。男4人女ひとりの5人兄弟。オフクロは、埼玉県児玉町の出で、造り酒屋で町長の家で生まれた。男2人女4人の6人兄弟。どちらも大家族だ。産めよ増やせよの富国強兵の時代だった。 俺がコドモの頃には、毎年正月には、オ

          【俺の家の話04 核家族の家】

          【俺の家の話03 郊外に建てられた家】

          俺の家は、JR中央線の国立駅北口から歩いて20分くらいの郊外住宅地にある。 住所は、国分寺市なのに、「国立団地」という名前の東京都住宅普及協会による宅地分譲だった。1961年に、68の宅地が売りにだされ、俺のオヤジたちは、そのうちの北のはずれの土地が抽選であたり、家を建てた。 占有面積は、68,29坪+共有地持分15,82坪、分譲価格は、1,202,480円だった。住所は、北多摩郡国分寺町中藤新田はけ南23番地外。 オヤジは、築地市場に勤め、勝鬨橋近くの団地に住みながらそ

          【俺の家の話03 郊外に建てられた家】

          【俺の家の話02  変化する60歳の家】

          2021年9月28日に、還暦をむかえる俺。そして、俺が生まれた時にできた同じ60歳の家。 オヤジの頃のサラリーマンだったら、定年を迎え、赤ちゃんにもどり赤いちゃんちゃんこを着て、第二の人生の旅立ちを祝う。孫が生まれ、すっかりおじいちゃんらしくなっていくような歳。 プロレスラーは、なぜか選手寿命が長く、還暦記念試合もあるらしい。どうやら、職業によって、いつまで現役なのかが違ってきそうだな。 デザイナーは、若いうちが花で、歳をとってくると、流行や感性についていけずに、一線か

          【俺の家の話02  変化する60歳の家】

          【俺の家の話01 店のある実家】

          俺が20年間のサラリーマン生活に終止符をうって、実家に戻ってきたのは、42歳の時だった。早すぎるリタイア。遅すぎる独立。すべてが中途半端だった。 もし、この時、罪を犯していたら、新聞には確実に、(無職)と出ていただろう。30年以上の住宅ローンを抱え、これからお金のかかる高校生と中学生の2人の娘がいた。貯金はゼロだったのに、無謀にも職を失った。そうするしかなかった。 石橋を叩いても渡らない臆病な性格が災いして、20年間もしがないサラリーマンを続け、オヤジ譲りの血の気の多さが

          【俺の家の話01 店のある実家】

          【予告編 俺の家の話】

          俺のオヤジは、地方公務員だった。  今日、オフクロに、オヤジの退職金の金額をはじめて聞いた。その退職金のおかげで、俺は、結婚式ができて、新婚旅行にも行けたらしい。すっかり忘れてた。  俺も含めて、できの悪いコドモ3人。なぜか、今日、3人の中学、高校の成績表がでてきた。みんなひでえ成績。本当に申し訳ねえ。  そして、オフクロがつけていた家計簿。その支出欄に、3人のコドモ欄があって、結構な金額が書き込まれていた。苦労かけたね。  オヤジもオフクロも、コドモの将来に、口をだ

          【予告編 俺の家の話】

          世界の中心は、自分。

          最近、家から自転車ででかけて、電車にもバスにも乗らずに帰ってくることが増えた。 コロナ禍がなければ、自分の家と、最寄りの駅を、いったりきたりして、電車に縛られていた暮らしが続いていたと思う。 コロナが気にならなくなって、また、もとの暮らしに戻ると思うと、なんだか、気がめいってくる。どうやったら、この暮らしを続けられるのだろう。 人に会ったり、お酒をのんだり、イベントにでかけたりすることも楽しいけれど、日常のいつもの暮らしをもっと、充実させていくには、どうしたらいいのだろ

          世界の中心は、自分。

          ものづくりとデザインは、どこに向かうか

          ここ数日、そのことについて、いろいろと頭を巡らしているのだけれど、よくわからなくて、書き出せない。 家具とか器とか、暮らしに寄り添う日用品のデザインについて、ずっと考えてきて、それらを産み出す産地のつくり手をみてきて、これから、どうなったらいいのか。どうしていきたいのか。 産業革命、近代化、工業化、そして、都市化。日本の場合は、明治維新以降の西欧化の波。そうしたものに、流されるように、ものづくりは、変化してきた。  戦後の高度成長期は、たくさんのものを輸出して、外貨を稼い

          ものづくりとデザインは、どこに向かうか

          デザイン とアートと

          美大でデザインを学んだ。当時は、なんで美術の中に、デザインが含まれているのか不思議だった。学生時代は、仲間とデザインとアートの違いについて、良く話あった。何より、身近にアートを学んでいる学生がたくさんいた。そこから刺激をうけることも多かった。 大学を卒業してからは、デザイナーにはならずに、デザイナーといっしょに仕事をするようになって、身近にアートがある環境ではなくなった。アートは、美術館やギャラリーで見るものになって、作品をつくっている現場は、遠くなった。 美大でアートを

          デザイン とアートと

          デザインと文化

          最近、「文化」という言葉が気になっている。どうやって文化はつくられるのか。文化と文明はどう違うのか。そして、文化をデザインすることは可能なのか。などなど。 辞書には、「文化は、民族・地域・社会の伝統・習慣・思考・価値観など人類が築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される