「寂しさ」と「家」と『舞妓さんちのまかないさん』と演劇(※漫画のネタバレがあります)

※漫画『舞妓さんちのまかないさん』のネタバレを含みますのでご注意ください。

「寂しさ」というものについて考えてみます。僕は今、寂しさを感じることはあまりないとも言えるし、いつも感じているとも言えます。それは妻と結婚したからです。

 妻がいるので寂しくないというのは本当です。家に帰れば彼女と過ごせますし、休日も一緒に映画や演劇を見に行ったりします。ふたりとも予定がないときは、家で過ごします。誰かを誘わずとも誰かと一緒に居られるこの状況は、寂しさとは遠いところに居られるように思います。

 それは物理的な寂しさだけでなく、精神的な寂しさも遠くに追いやってくれます。「寂しさとは感情なのだから、明らかに精神的なものだろう」とお思いかもしれませんが、精神的な寂しさとは、何かこう、

「パートナーがいない」
「パートナーを探さなくてはいけない」
「パートナーと別れてしまったらどうしよう」

という、恋愛的な焦りのようなものです。結婚をしたあとは、恋愛をしなくてよくなり、精神的にラクになった、と思ったことがないといえば嘘になります。僕は何か強迫観念めいたもので、恋愛をしなければ、と思っていたフシがあります。厳密にいえば、今も妻と別れる可能性はゼロではないのですが、恋人同士であったときと比べれば、その可能性は低くなったと言えるでしょう。

 と同時に、寂しさが増えたようにも思います。妻と一緒に居られる時間が長いほど、またその可能性が高いほど、一緒に居られないときは寂しく感じてしまいます。
 それは一人で映画を見に行ったときであったり。
 それは仕事をしているときであったり。
 それは残業で遅くなったときであったり。
 家に居て、一緒に居るのがデフォルトになった今では、離れているときは異常事態と言えるわけで、寂しさを感じます。

 寂しさとは「本当はこの状態・状況ではないのに、もっといい状態・状況に居られるはずなのに、それが叶わない」ときに感じるものなのでしょう。

『舞妓さんちのまかないさん』という漫画があります。妻が買ってきた漫画で、僕も一緒に読んでいます。舞妓を目指して幼馴染のすーちゃんと一緒に京都にやってきた主人公キヨが、舞妓の宿舎(舞妓置屋)の炊事係になった後の日常を描いたお話です。舞妓としてめきめきと頭角を現していくすーちゃんは、「百はな」という名前で舞妓の世界で生きて行きますが、キヨだけは、ずっと「すーちゃん」と呼び続けます。故郷の青森を離れて京都で暮らす二人ですが、お互いの存在が、寂しさ・心細さを埋めてくれているような気がします。二人が暮らす置屋は、二人にとって京都の「家」と言えるでしょう。

 寂しさを打ち消し、連帯感を与えてくれる「家」は、僕にとっては紛れもなく妻と暮らすこの家です。実家も僕の家に違いはありませんが、今となっては妻と過ごしている方が、本当の自分を出せているように思います。親に対しても猫をかぶってしまうのですが、妻に対しては、取り繕うことなく接することができます。ちょっとやそっとでは関係が崩れない、安心感があるのです。

 演劇は「家」になり得るか、と考えますが、少なくとも今の僕にとって、演劇が「非日常」です。生活基盤が会社生活や家族との時間にある以上、それとは異なった演劇の時間――稽古であったり本番であったり――は、心安らぐ居場所の「家」ではなく、心躍る、まさに「舞台」なのです。

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