見出し画像

交差点



 ある舞台作品に役者としてかかわっていた時の話です。

 その作品の演出が本番直前の稽古の間に体調を崩しました。これは大変なことです。演出というのは大変重要な役職です。映画で言えば監督です。監督がいなくては撮影できないように、演出がいないと稽古ができないのです。

 とりあえず意識はあるので、その日は家に帰って休んでもらって、様子を見ようということになりました。

 タクシーで帰ってもらうことにしたのですが、心配なので誰かひとり付き添うことになりました。私が引き受けることになりました。

 演出と二人でタクシーに乗り込みました。演出はすでに意識がもうろうとしています。私は演出の家を知りません。演出は運転手に、とぎれとぎれ、道を指示しています。ある交差点に差し掛かり、演出は弱々しい声で言いました。

「その交差点を上手(かみて)に曲がってください」

 上手(かみて)とは劇場用語で、客席に座って舞台を見た時、右側の事を言います。左側は下手(しもて)です。劇場以外ではあまり使わない言葉です。タクシーの運転手さんが知るはずがないのです。演出は意識がもうろうとしていて、舞台用語が混じったことに気づかなかったのです。問題なのは私です。演出の体調不良でパニックになっていて、運転手さんが「かみて」が分からないことが、分からないのです。交差点は容赦なく迫ってきます。たまりかねて運転手さんが叫びました。

「上手(かみて)ってどっちですか?!」

 右の事です。

無事、交差点を曲がれました。私も演出を自宅まで送り届け、無事任務を終えました。

幸運なことに、演出は翌日には回復し、私たちは公演を行うことが出来ました。

 劇場に限らず、それぞれの業界には、それぞれの専門用語がありますね。何が専門用語で、何が一般に通じる言葉なのかは、忘れてはいけませんね。

イラスト by リナヅカ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?