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不登校の原因が分からなくて苦しい時、「現象学」が世界の見え方を変えてくれるかも知れない

先日、次男のPTAの集まりで、スクールカウンセラーさんの講義を聞きました。最近の子どもたちや親御さんのお悩みに関する動向などについて聞いていると、不登校や人間関係に関する悩みに加えて、発達障害、HSC・HSP、LGBTQなどの話題が増えている、とのこと。

印象的だったのが、相談するにしても、自分がどんなことで悩んでいるのか分からない、例えばLGBTQの悩みでも、自分がどの枠に当てはまるのか、自分でもはっきりしない、どんなふうに伝えたら良いか分からないという子どもさんが多いということ。

原因がはっきりしない中で、わからないなりに話を聞いてもらうことや、わからないこと自体を受け止めてもらうこと、またしんどさや不安を解消するためにどうしたら良いかを一緒に考えることを行なうことで、少し楽になるんだとか。

不登校になった我が子もそういえば、
「何が原因かよくわからない」
「教室がうるさい」
「クラスの友達との関係でしんどかった」
といった程度でしか話を聞くことができなかったなぁ、と懐かしく思い出したりしました。

自分のしんどさや、不安の原因がわからないというのはよくあることなのかも知れませんが、それを親としてどうしてやったらいいのだろう?と悩まれている方も多いのではないかと思います。

今回は、哲学的な観点から、「わからなさ」をどう乗り越えるか?を考えることにチャレンジしてみることにしました。

現象学を下敷きにして考えるということ


私は哲学者・教育学者の苫野一徳さんのオンラインゼミに入っており、そこではハイデガーやフッサールといった哲学者による「現象学」という概念を根拠とした「本質観取」という営みを通じて、物事の本質を捉えようという活動があります。

そもそもなぜ現象学が物事の本質を掴む助けになるのか?そしてそれが不登校の原因のわからなさとどう関係するのか?
苫野一徳さんの師匠である竹田青嗣さんによる「現象学入門」を参考にしながら、お話ししてみようと思います。

私たちは普段自分の周りにある物や事柄を通じて、「世界」を見ています。

今あなたの目の前に机があって、その上にコップが置かれているとして、その存在を疑うということはあまりないと思います。

では、どこかから人がやってきて、「今あなたがみているものはすべて夢ではないですか?どうやってそこにコップがあることを証明できるのですか?」と言われた時、コップの存在を疑い得ないものとしてどうやって証明したら良いでしょうか?

フッサールは判断中止(エポケーと言います)をすることで、その原理にたどり着くことができる、と言います。

客観的に見て、当然そこにある、という前提を一旦括弧に入れて、世界をとらえてみましょう、というのです。

私たちが存在を「ある」と認識するのはコップを目にした時の形、質感、ガラスの光具合、中に入っている液体のゆらめきなどを「知覚して」「コップである」と判断していること、それ自体であると考えることができます。

主観による「知覚」と「判断」をもってして、疑い得ない、誰もが受け入れられる客観認識と呼べるものになるのだというのです。

そんなことわざわざ考えなくても、あるものはあるんだから、やっぱり哲学ってめんどくさくて、意味のないことばっかり考えてるんだなーと思った方もいるかも知れません(笑)

現象学を子どもの理解に役立てる

それでは私が、子どもたちのことを理解するために、どのように役立てているのか、言葉にしてみようと思います。

「学校に行きたくない」と言い出した時、最初の頃の私は直感的に、客観的な原因があるはずだ、と考えました。

客観的な原因というのは、例えば、学校にいてられないほど、嫌なことを言われた、とか、発達障害があって、勉強についていけない、とか、そういった、私たちが「それならしょうがないよね」と納得できるような、客観的な事実やデータに基づいた原因です。

でも実際は、先生に聞いてみても、いじめられたりしてないようだし、検査を受けてみても、正常範囲内だったり。

おかしい、原因はどこかにはずなのに!それを探し出して早く解決しなければ!

原因を探すのに躍起になり、親はパニック。子どもは子どもで、親がパニくってるからなんとかしなきゃと思うけど、自分でもよく分からないし、次から次へといろんな場所に連れて行かれて、ただでさえ学校に行けなくて苦しんでるのに、さらにしんどい。より元気がなくなっていく・・・
めっちゃ悪循環。ということ、結構あるんじゃないかなと思います。

ここで、現象学のエポケーを使ってみて、子どもが学校に行きたくない原因に、そもそも絶対的な真理はないんだ。子どもの主観による「知覚」と「判断」にこそ、その原因の存在を認識するための原理があるのだ、と考えてみるのです。

一旦親側で、「何か絶対的な理由があるに違いない」と考えたり、「なんで?」と問うことをグッとこらえ、「どんなことを感じる?」とか、「どういう時がしんどい?」と聞いてみます。すると、子ども、「教室の子どもたちの声がうるさいのがしんどいんだ・・・」と言うかもしれません。

ここで、親側に立ってみると、小学校の教室ってうるさいのが当たり前なので、それでしんどいというのがいまいちピンときません。

自分がそれでしんどかった経験もないし、他の子達が行けているし・・・それに家では大きな音でゲームしたりしてて、勝っても負けても大騒ぎしてるし、逆にこっちがうるさいって思うくらいなんだけど。。。
理解不能・・・

どうしましょう。

人間の存在、そして世界は「関心と欲求」によって認識される

さて、突然ですがハイデガーは、<主観>に立ち戻る方法こそ、「そもそも存在するということはどういうことか」ということを考える唯一の方法論である、と強調しています。

不登校になった原因の話をしてたのに、「存在」という漠然とした話が出てきて、急になんやねん、と思いましたか?もう少しお付き合いください。

ハイデガーは、人が、人間という存在、そして事物(人間が対象物と考える事柄や物事)という存在を、どうやって規定するのか、その原理について、「道具関連」と「気遣い」という二つのキーワードで説明しています。

ここでは、「気遣い」という言葉について、掘り下げていきます。

日本語的には少し分かりづらい訳になっていますが、誰かに気を使うとか、親切にすると言ったことではなくて、意味合いとしては「関心」あるいは「欲求」と言い換えることができます。

気遣い、と言うと少しピンと来づらいので、ここからは「関心や欲求」としますね。

「関心や欲求」というのは例えば、

生き続けたい(生命保存)/できるだけ快を求め、不快を避けたい(快楽原則)/いろいろなものを自分のものにしたい(所有欲、権力欲)/人から愛されたい、認められたい(自我確認欲求、自我拡張欲求)/美しい良きものをできるだけ味わいたい(超越欲求)

人間は、このようなレベルでの関心、欲求を持って生きていることは明らかで、人間の目的を作り出し、世界を対象として認識するための力になっている、と考えます。
人間が持つ関心や欲求によって、自分の身の回りにある事物(物事や事柄)の存在を規定し、また関心や欲求は、事物を通して、自らの存在を自己規定するというのです。

先ほどの例で言うと、「クラスの子どもたちの声がうるさい」と知覚する<主観>があり、その子にとって、「クラスはうるさいものである」と認識されていますが、そう認識するなんらかの欲求や関心があると考えるわけです。
具体的には、「クラスをうるさいと感じているということは、『静かに授業を受ける』いうことに快を感じており、それを望んでいるからかも知れない。」と自分の欲求に気づくヒントになるわけです。
そのためには、うるさいと感じることが、客観的に間違っているとか正しいと言った判断を中止すること(エポケー)が、必要になるというわけなのです。

自分の欲求に気づけば、自分がどのような存在であるか(どのような目的を持っているか)を認識することができ、その目的に応じて、静かに授業を受けられる環境を作ってもらえないか学校に相談してみることもできるし、難しければ、個別で学ぶ方法がないか考えるなど、より良い選択肢を探す助けになります。

我が子の場合は、毎日のように体調不良で学校を休みがちになり始めた頃、「どうしてほしい?」と聞いたら「学校休ませてほしい」とはっきり言ってくれたので、親として前向きに休ませる選択をすることができました。

親として最初に取り組んだのは「家を安心な場所」に整える」こと。(無意識でしたが、誰もが持つ「生命保存」の欲求を、まずは満たそうとしたのかもしれません)
その後は、手探りではありましたが、彼の主観を一つずつ確かめながら、どのような「関心・欲求」を持っているのかに目を向け、彼がどうありたいのか、本人も親も、その存在を捉え、生きる目的を知るために、対話をしながら試行錯誤していた日々だったように思います。

生きる目的、というと大袈裟ですが、「何が食べたいか、何時に食べたいか」とか、「外に出たいか、家にいたいか」、とか「1人で遊びたいか、一緒に遊びたいか」とかそんな小さなことひとつひとつを、本人と確かめて選んでいったように記憶しています。

私たちは月面探査船の集まり

ここまで、客観的な世界像や、絶対的な真理をエポケー(判断中止)し、主観による「知覚」と「判断」で世界を認識することを通して、自分の関心や欲求に気づくことができ、それが、人間存在(≒それぞれの持つ目的)へとつながっていく、というお話をしてきました。

これを、竹田青嗣さんの現象学入門では、次のように例えています。

<主観>を窓のない月面探査機に乗り込んだ宇宙飛行士だと考えてみましょう。
宇宙飛行士は、探査機の外に出て、世界を直接確かめることはできませんが、探査機には、アンテナやレーダー、ソナーなどが備えられており、船内に表示されるデータを読み取って外の様子を調べます。
しかし、客観的な月の様子がわかる訳ではなく、あくまで、探査機が持つ目的に応じて、アンテナの感度や調べる対象が変更され、データが送られてきて、それを読み取ることで宇宙飛行士は世界を認識していきます。

実際の私たちは、探査船として特定の目的をもたず、世界がどのように現れるかによって、自分の関心・欲望のありようを自己了解していきます。だからこそ、世界の意味づけは無限に開かれており、さまざまな疑いや確かめがなされることの根拠だと考えられています。

ということは、一人ひとりの世界の立ち現れ方に応じて、それぞれの関心・欲望に気付きながら、世界に意味づけをしていくことができれば、それぞれが生きる目的を持って、自分らしく生きていけるっていうことなんだ!

めでたしめでたし・・・

…と前向きに生きていける方もいるかも知れないし、いやいや、できればみんなと一緒がいいし、少数派で生きるのは辛いよ!と感じる方もいるかも知れません。

現象学入門の続きにはこう書かれています。

人間存在の特質は、この探査船が多く存在し、共同で何らかの目的を持つという点にある。この時、さまざまなデータの意味は交換され、共通了解として、つまりある<客観>像として思い描かれる必要が生じる。
むろんこの客観像は、実は多くの探査船の共通の目的(そのつどの)、あるいは目的の共通性一般性にとってだけ<意味>を持つものに過ぎない。
ところが、この客観像は世界の客観的実在それ自体と混同されるのだ。

竹田青嗣「現象学入門」

私なりに噛み砕くと、私たち人間は、複数で社会を形成し、共同の目的を持つという特徴があるため、一人一人が持っている世界の意味を交換し合うことで、共通了解として、客観像を思いえがかなくてはなりません。

例えば、義務教育の間は必ず学校に行かねばならない、とか。
それは世界の絶対的な真理ではないにも関わらず、まるでそうであるかのようにみなされているいうことです。

私たちが子どもの頃は、学校に行くのが当たり前でしたから、「行かない」という選択肢すら頭にありませんでした。行くことが絶対で、それ以外は間違いだと当然に思っていました。

だからこそ、子どもが学校に行かなくなった時、信じられないような、世界が音を立てて崩れていくような気持ちになったのかも知れません。

ただ、それで絶望する必要はないと思っています。

今は、「学校に行かねばならない」という客観像も変わっています。学校以外の学び場が認められ、学校に来れない理由も様々であると理解され、子ども達に応じた環境づくりも行われている。

さらにこう続きます。

<客観像>は<主観>の意味の共同性によって生じたものだから、原理として確定もできずまた変様していくものなのだ。
だからこそ、<主観>の意味は<客観像>から生じることも説明することもできないのである。

竹田青嗣「現象学入門」

一人ひとりの持つ主観と、それによって作り上げられていく世界の意味を大切にすることが、一人一人にとって「良い」方向に世界が変わっていく可能性につながる。
だからこそ、すでにある<客観像>と自分の持つ<主観>が異なっていたとしても、諦めずに、対話を通して互いの主観を交換し合い、新しい共通了解を作りあっていきたいと、私は考えています。

それは大それたことではなく、良くしていきたいと思うその世界は、半径5mからで良いんだよ、と、そう自分に言い聞かせながら、子どもたちと日々を送っています。

誰かが少しでも楽になって、前を向くヒントになったら嬉しいです。

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