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7つの沼❼劇場版コナンの進化〜浅薄な少年哲学から社会への入門

今夜2021年2月5日、劇場版1作目の『時計仕掛けの摩天楼』が放送されるようです。ノーカットだって!うれ。

1年延びた『緋色の弾丸』も公開間近…、ただ特別総集編の『緋色の不在証明』は延長された緊急事態宣言に片足腿まで浸かってしまっているという状況で。余談を許さない状況ではありますが、非常に楽しみです。

私は現在34歳で同作品はアニメが世代ジャストと言ったところで、しばらく離れていたのですが、ここ数年で元気に舞い戻ってきました。

というのも、こんな世相になる前はGW前後にハワイ滞在をするのがここ10年弱の定番だったのね。そのフライト中、運が良ければ特別公開中の過去の劇場版が見れたりしてたわけ。それがGWの1つの楽しみに含まれていました。

一度GWを外して行った際は、復路で稀代の大ハズレを引いてしまい、楽しかったバケーションにケチをつけられてしまったような気分になったこともあった。往路のThe Postは素晴らしかったのに、やっちまった。

話はそれましたが、そんな恐怖体験からの執着もあって、この年になってもちっちゃいメガネの坊主のスペクタクルに心躍らされています。

それで、これはこじつけではなく振り返ってみると、沼の1つ「宝塚歌劇」と似た構造や特性に対して、意味や希望を感じている部分もあるなと思った。ので、長年のオタクの方に無礼かとも思ったが、7つ目の沼は出戻り沼とさせてください。

3つの「不完全」から広がるミステリーマンガ

宝塚歌劇に投影するからには、自分が宝塚歌劇に関して書かせてもらっている連載の初回↓に倣って、コナン読者(視聴者。以下視聴者も含む)の嗜好する対象を3つの型に分けてみたい。

❶ 不完全なフィロソフィーに胸を熱くさせる人

❷ 不完全なハードボイルドを味わいたい人

❸ 不完全に崩した謎解きに熱中する人

この3つかなと思う。まず、私個人が一切興味がない❸から先にやっつけておく。これは一言でいうと俳優の佐藤健さんのようなコナンファンのこと。佐藤健さんは自身のYouTubeコンテンツのほとんどが謎解き関連という謎解きマニアで、自身の公式LINEでの気まぐれなYouTubeの更新通知も謎解きコンテンツの時のみ送りつけてくるというだいぶ頭のおかしい習性を持つ。個人的「変態そうすぎて関わりたくはないので知人に友達になってもらい色々聞いてみたい人ランキング」2位に入れてしまいたくなるくらい、変態レベルの謎解きオタクの方であられる。

(ちなみに同ランキング3位はかまいたち山内健司さんで、1位は宝塚歌劇団作家の生田大和さんである。余談ですけど)

なぜここまで“世界のリア彼“の呼び声高い佐藤さんを変態呼ばわりしているかというと、コナンの謎解きは同じミステリー漫画の中でもだいぶ読み解きにくいと思うことの証明だ。トリックやギミックが難解というわけではないのだが、長編や本格的な事件でない短編やほっこり少年探偵団系ですら、なかなか読みづらい。謎に熱狂する人たちにとってはおいしいおかずというわけだ。これは、おそらく青山さんと編集部が一度完全に組み立てたロジックを、あえてわかりづらく日常に溶かしているような作りになっている。

具体的には話法。特にセリフ回しはかなり口語的で、絵的なヒントも極めて少ない。というかセリフが口語的ということはギチギチなので、コマが小さくどんどんメリハリが効かなくなっている。初期はごくたまに『青の古城』的な例外もあるが……。

これは少し時期を早くして始まった推理漫画の草分け『金田一少年の事件簿』(天樹征丸・金成陽三郎・さとうふみや)に比べても顕著だし、最近のミステリー系マンガに関してはより「解かせること」にフォーカスしたコマ割りや内言が多いように感じる。最近読んだ『親愛なる僕へ殺意をこめて』(井龍一・伊藤翔太)は面白かったなあ。あれですら、結構解かせる方のミスリードやリアルな話法の省略が多用されていた感触を持った。

コナンは中長期スパンの謎(ベルモット、バーボン、ラム問題など)があるので考察記事が非常に多く、その人たちや佐藤さんがやっているのが❸的な読み方になると思う。この読み方は私は全く響かないが、20年以上の長寿連載になって読者が大人化して入る今、一番のボリュームゾーンだと思う。上記↑自分の連載でいう宝塚受容でいうと「バレエ・オペラ型」と同質な人たち。

なぜ私がここに興味がないかを一応添えておくと、その考察のどれも非常に興味深いが、あれらの多くは「考察」や「推理」というより「観察・検証」だなあと思うのだ。論理関係や内的・外的(ドイル作品や他の同時代文学の作品へのオマージュなど)伏線を体系的に結びつけた読解というより、1コマ1コマ間違い探しの答え合わせでも読んでいるような気分になるというか。一度過ぎた時を戻すことの罪みたいなものが主題となってくるような雰囲気なのに、考察記事の観察や検証は時を戻して止めまくっているというのも皮肉な話で。

というかさ、最近ドラマでも何でも、ひどい場合は賞レースの結果に関する感想や分析のことを「考察」って呼ぶ記事や動画あるじゃないですか。アレ、むかつきます。考察って論理や調査・証拠提示が伴うもんだってじっちゃんに聞いたんだけど。そういう意味ではコナン考察はまだマシか。

なので私にとっては『金田一少年の事件簿』の一種不自然なほどに崩し・ハズシのない展開の方が推理モノ読んでるなという感じがする。それだから慣れてくると割と解けるし、大雑把にいって矛盾が少ない。だから『犯人たちの事件簿』(船津紳平)みたいなことが可能なんだと思う。隙がない。はじめちゃんが犯人を追及していく話法はマジでプレゼンの参考になるから、全社会人もっかい読んだ方がいいよと思っている人だ。そのくらい鮮やか。

ただ、実際の事件の際に見えないものやコト、耳や目が滑って見逃してしまうことがあるという面では、コナンの方が物語描写としてはリアルなんだろうと思う。そういうリアルさを表現すべく、青山さんやスタッフがあえて推理するには“不完全な“材料としてストーリーに溶かしていること。謎解きとしては不完全なものを楽しんで熱狂している人がいること。それを❸不完全な謎解きと表現した。

ただ、完全な謎解きを追及しなかったことがアニメの大ヒット、長寿連載化の布石となっているとも思う。推理モノとしての読みやすさやわかりやすさを捨ててまでも自然な口調でのセリフに拘ったことで、アニメ版での脚本が割と原作ママで進行できているように感じるからだ。アニメから入った層はマンガを読む際に声優の声で脳内再生される。最近読んだ『2.5次元文化論』(須川亜紀子/青弓社)によると、こういう声優によるキャラクターへの質的介入のことを元々“2.5次元“と呼んでいたのだって。へぇ〜!

少年・少女のための哲学・正義は不完全である

コナンに限らず、もっというとマンガに限らず「少年/青年」向けのコンテンツの境はここにあると思っている。少女漫画とレディコミの境もそう。

少女向けの例でいえば、私が唯一蕁麻疹を出さずに読める少女マンガ『ご近所物語』とその派生。少女向けの同作主人公・実果子は衝突や挫折を繰り返しながらも、最終的に夢も友情も恋も“ハッピーマインド“を武器に手に入れた。後日譚ではメジャーブランドを立ち上げ、初恋のツトムとの間に娘もおり、仲間との縁も大切に育んでいる様子が描かれる。実際絵に描かれてるとはいえ、絵に描いたような大団円である。

一方その“娘世代(妹)”の世界線を描く『Paradise Kiss』はZipper掲載のレディスコミック。面倒だから端折るけれども、時間軸的には上記とほぼ同じ1年間程度の描写ながら、何も変わらない人、失う人、少しだけ道筋が変わる人などといった描写で対照的な結末だなと子供心に唸った記憶があった。

これで何が言いたいかというと、コナンに比較対象のそれがあるというわけではなく、少年向けの哲学って乱暴でご都合主義だということがまず言いたいのだ。前項で言ったように「会話や描写は徹底してリアル」でありながら、彼らが持つ正義や美徳はめちゃくちゃ大雑把。

ディスではくて、これがいい。今でもちゃんと少年向けだな!って感じがするポイントはここ。どんなに成人オタク向けの要素が増えようと、ずっと変わらないでほしい“らしさ“である。

たとえば、江戸川が信条にしている「推理で犯人を追い詰めて死なせるような奴は殺人者と一緒」というアレ。どこかで大の大人たちに「深い」などと取り上げられていて白目を剥いたが、仮に黒の組織という目的到達のために事件と関わっているとはいえ、幼児化という一種の“カルマ“まで背負っていながら未だ事件と聞くとワクワクするような不謹慎な存在なのだから、そんなの当たり前の責務である。取り立てて正義のように風呂敷を広げるのは、リアルだとマジでやばいやつだとは思わないか。

さらに気になっているのは、江戸川が最終的に工藤に戻るというゴールも不穏である。工藤目線でいえば早く元の生活に戻りたいんだろうが、少年探偵団の3人目線で言うとどうか。7歳の子供にとって親友が2人も幻の存在だったと言う体験、ハムレットも見舞いにくるレベルの悲劇でしかない。そんな子供向け作品、今まであっただろうか。20年の時を経て大人になって改めて、この設定の無垢な残酷さに身震いがする思いだ。

ただ繰り返すが、結局これでいい。少年・少女向けコンテンツの正義や美徳みたいなものは、哲学や人生の入門であるべきだと思っているからだ。

だいぶ回り道をしたが、この「子供向けの扉」であるところが宝塚とよく似ているなと思う。

そこから哲学や文学を広げていくかどうかは、読者次第ということ。

私と同世代以上でいまだこの哲学に心酔している人は、拙連載でいうところの「タニマチ・パトロン型」だろうか。これもまた基幹となる層。ロイヤルカスタマーであるし、そこに立ち止まっている人たちの無垢さに狂気も感じるという点では宝塚ファンと似ているなあと眺めている。

ハードボイルド路線の継承と進化

これまで❸と❷を外から眺めたような物言いで書いてきたが、じゃあ❶なんですかと言われるとそうであってそうじゃない。推しキャラが赤井秀一である時点で否定もできないんだけど、これもまた私の宝塚観と近いところがあるからまあ聞いてほしい。

そのために、一旦このデータをお見せしたい。

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冠している通り「劇場版コナンの制作スタッフとターゲット推移の分析」であって、過去作品の興行・動員の推移と連載および興行開始当時からの劇場版主要客層の変動(※小学校1〜6年を想定して幅を持たせてある)をまとめたものだ。

暇なんですか?という声が聞こえてきそうだが、これは実際に外出自粛中のクソ暇なときに作ったので、マジで暇だったんだと思う。今はそれなりに忙しくさせていただいているしちゃんと働いてます。

これはどういうふうに見るかというと、まず注目したのが2003〜2008年にかけての低迷期である。劇場版コナンに関しては江戸川ら登場人物が人外の活躍を見せることを「劇場版補正」というくらい、ベースとしてはファンタジー&スペクタクル要素が強いモノだった。長尺・大スクリーンのハラハラ・ドキドキ・大立ち回りに少年少女が目を輝かせるというのが本来の目的なので、主旨として十分である。それが『ベイカー街の亡霊』を最後に6年間低迷する。この低迷期を脱したのが、過去最高を更新した『漆黒の追跡者』だった。黒の組織とのバトルという原作の大命題を絡めた、より現実的でシビアな路線にシフトチェンジして低迷を乗り切った。

多分これが、劇場版制作陣の「これからはこっちだ」のきっかけだと個人的に読んでいる。

ここで出てくるのが主要客層の変動なのだが、シリーズ開始当初小学入学したばかりだった層でも19歳になる。多分この層の多くは低迷期の6年間に「コナン(アニメ)離れ」をしていたはずで、その層が懐かしくなって出戻ってきたとき、彼らにも十分見応えのある路線であったことが興行の理由ではないかと読んでいる。大方3時間の中で問題を解決しなければならない劇場版において、江戸川にとって自分を守った黒の組織の構成員が自分を庇いながら頭を撃たれるという結末は、過去作にない読後感を残した。コルンとキャンティが原作も含めて唯一この回だけまともに仕事をしているというオマケ付き。それくらい“マジで黒の組織回”だった。

そしてしばらくまたキッドや少年探偵団系のスペクタクル路線が連なり、その間また前年を超えられない年が続く。

翌年迎え入れられたのが櫻井武晴氏だ。『相棒』他ミステリードラマの脚本を多く手がける櫻井氏は海上自衛隊のイージス護衛艦を舞台にした、おおよそ子供向けとは言い難いプロットで興行。本格ミステリー系への転換を果たした。

その後櫻井氏が手がけた『業火の向日葵』もキッドものながら実際のゴッホの逸話をうまく織り交ぜたウィット溢れる作品であり、劇場版の“大人路線“を決定的にしたのが『純黒の悪夢』の爆発的興行。ここで出戻りや古参含め成人オタの財布を掴んだ劇場版コナンは、毎年バカみたいに過去最高を叩き出す怪物シリーズとなった。

説明が長くなったのだが、私はハードボイルド路線が好きというより、この「ハードボイルド路線をつかんでいくヒストリーが好き」という変態さんである。着目してほしいのは以下の2つだ。

まず1つは、先ほどから繰り返している櫻井氏の手腕。彼はドラマ脚本家のキャリアとしては『相棒』シリーズを通して貧困ジャーナリズム賞を受賞するなど、社会問題への鋭い切り込みが得意のようだが、一貫してミステリーばかり担当されているところが興味深い。私の両親や生前の祖父母がそうなので失礼を承知であえていうのだが、ミステリードラマの視聴者って、ドラマ性や主題の質よりも単に「犯人誰だろう」が楽しい層が多数派だと思うので、そういう着眼や手腕を発揮するのには制約も多いはずなのだ。多分、よりわかりやすく単純に平易に…が求められる世界。

多分それが、コナンの客層に合った。

❸の謎に関心がある層はご自身のハタケだろうし、あとは❶の少年少女性さえ押さえればいい。『純黒の悪夢』はキュラソーというその能力にファンタジー性も備えたほぼチートキャラを登場させ、それを大胆なやり方でぶっ殺すという悲劇的なスペクタクルで観客の心を掴んだ。少年少女がワクワクするような世界観と、叩き潰し方、その塩梅が見事の一言である。

その後『ゼロの執行人』で安室透を、公開予定の『緋色の弾丸』で赤井秀一をと、成人オタの2大人気キャラを中心に書くことを元々のアニメスタッフでない彼が許されているのはすごいことだと思う。

ここで劇場版コナンの良心というか、一応ハードボイルド路線に興味がない純度の高い原作ファン向けに、ちゃんと『から紅の恋歌』や『紺青の拳』と言ったトンチキ色恋スペクタクルを挟んでくるところが粋である。

最後に、もう1つ着目してほしいのは、その櫻井作品の興行の間に挟まれた『異次元の狙撃手』だ。

この『異次元〜』は世良真澄と江戸川がハンターを追う追跡物で、大立ち回りに劇場版補正が見られるものの、かなりスピード感のあるリアリティ路線のミステリーに仕上がっていた。原作の伏線となるような描写も時折登場し、成人読者にとっても見応えのあるモノだったと思われる。

個人的に一番グッときているのが、これを書いたのが劇場版1作目から、いやアニメシリーズ第1回目から長きにわたり脚本を担当してきた古内一成氏だという点である。先述の、低迷期を乗り越えた『漆黒の追跡者』も彼が脚本だがその前後も関わり続けているのであって、上表から読み取れるのは、まさにその低迷期から復興の渦中に居続けた彼の挑戦の軌跡だなと思う。劇場版コナンシリーズが客層とともに進化を続けてきたのは、原作者の青山さんのクリエイティビティはもちろんだが、古内さんのようなクリエイターの試行錯誤の積み重ねの賜物だと思う。

櫻井さんの本格ミステリー路線に、メインキャラクターの描き方という正確なパスを回したのは多分この『漆黒の追跡者』『異次元の狙撃手』の2作だと勝手ながら思っている。

宝塚歌劇の座付についてもこんなこと↓を書いたことがあるが

50にも60にもなって、今までの常識や定石を覆して挑戦を続ける人には頭が下がる思いだ。だから私は、劇場版名探偵コナンの「ハードボイルド路線転換のヒストリー」が好きなのである。それは、赤い客席を埋めようとベルばらをやったりエリザをやったり古典回帰したりしていた宝塚のそれと似ている。どちらも小手先の配役遊びでなく、基本的には作品の質的な挑戦を続けていることが異常なまでに息の長いカルチャーになっていったポイントなのかも。

劇場版コナンと宝塚歌劇という、一見全く交わりそうにない遠い世界に、文化の進化と承継を思う。じゃあ、その客層がおおざっぱで希望に満ちた「入門」を経て、ともに深化をしているかと聞かれたら疑問なところも酷似している。作り手としてはかなり難しいマーケットだろうなあと慮るばかりだ。

ただ、連載アニメ映画を長くすべきなのかどうかの議論はさておき、人の人生を売り物にしたり、客寄せ配役だけで興行しようとしたりするようなカンパニーや組織には大いに参考になる成長のあり方だ。

うまく言っているように見えて、多分今だけだよ、というね。本職の業界でも一緒かも。


なお、古内さんは『異次元の狙撃手』公開の2年後他界された。

数年ハードボイルド路線を続けたのちの『から紅の恋歌』に関わる予定だったのか、エンドロールに彼の名前を見たときは涙が出てきてしまった。本編は嫌いすぎて、鉄仮面のような顔で見ていたのだけど。同作はコナンの主題の1つであるラブコメが主題なので、ご存命ならばここでまた彼の新しい挑戦が見られたのかなと思うと口惜しい。

さて、そんな古内さんが脚本を手がけた劇場版1作目が今夜放送ということで。

編集なんぞがものづくりを語る資格はないかもしれないが、クリエイターにとって誰しも新人の頃の傑作は最大のライバルだと思っている。

ここまで読んでくれた方がいるのかわからないけれど、そういう目で1作目を見るのも、また今までと違った世界が見えるかもしません。

めちゃ宣伝ぽく見えるけど勝手に書いてるやつなんで、念のため……笑

ご清聴ありがとうございました。

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