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引越★観劇記★『霧深きエルベのほとり』&『ON THE TOWN』で感じた“ヅカと恋と菊田先生”

当noteはしばらくアタイの旧住所からの転送記事を更新していくよ!

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また日が空いてしまった……

ふた昔前はブログといえばPCで書くもので、ひと昔前に「ケータイ」から更新するスタイルになったと思っていましたが(ちなみにわたしはその時代の残党)、各種SNSの台頭でまたブログはPCのものになったように思います。

何が言いたいかっていうと、仕事のないときPC開くのめんどくせえなって(やめちまえ)

自分の鍛錬・蓄積のため、誰かのヒマつぶしのため、思いつくままに書かせてもらっていますので、広い心で読んでいただければ幸いです。

 

今日は、続けて行ってきた観劇記をつれづれと。

 

私の観劇記ルールは「劇評を書かない」こと

まずはじめに、ここから先の観劇記のスタンスを誓っておきます。

それは、20代前半、学生の頃は結構そのスタンスでモノを書いてしまっていた自戒の意味も込めて。まさに先の「ケータイブログ時代」、ちょっと知恵がついてきたころに手軽に言葉が発信できるようになってしまって、ちょうど日本演劇学だとかジェンダー論だとか、映画史だとかを学んでいたこともあり、劇評にハマってしまっていた時期がありました。改めてその記事を読んでみて、個人的にはまあ今見てもなかなかいいロジックを展開していると思うんだけど(まさかの自画自賛)、ブンヒツを生業にし始めて思うのは、正しいことを改めて掲げる無粋さについてです。

私は編集・ライターの仕事に誇りを持っており、言葉の持つ力や美しさに今なお魅了される人間の1人ですが、その他方で【言葉はウソをつくための唯一の技術】である自覚を常にしています。どんな技術も「練習はウソをつかない」といいますが(美容業もそうなんです)、言葉は練習を重ねるごとにウソもうまくなっていく。信念を曲げてお金や権力に迎合した記事を書くこと。少し流麗な物言いをしてことを大げさに魅せること。悪意のあるなしに関わらず、ウソはウソです。

特に、読み手に対して【いかにも正しいことを言っているように見せる】という新ジャンルのウソも存在します。それは、このブログもそうですが、まずは一定量以上の文量の記事を書けば第一段階クリアでしょう。よく読むと前後の論理が崩壊していたり思想の裏付けがあいまいだったりするのに、現代のSNS慣れした多くの読者は長文が読めません。そこで、めまぐるしい情報の渦の中で一定時間そこに立ち止まっているうち、納得してしまう。また、一定時間立ち止まることは記事のSEO評価にもつながりますから、どんどん拡散されます。これがケータイブログ時代からPCブログへ回帰して一番の弊害のように感じています。

そんな恐ろしい時代で私が最も怖いのは、暗喩でも過大表現なんでもなく、言葉で人を殺すことです。仮に発した本人にその意図がないとしても、言葉は使い手の手を離れると人格を持つように一人歩きし、人を刺すことがあります。たとえそれが「正しいこと」だったとしても、人ひとりの尊厳を奪っていい「正しい」はないと考えます。

だから私は、いかなる演出家・スタッフのみなさんや生徒さんを自分のモノサシで断じるような【劇評】はしません。私にはその専門性がなく、仮に私の言葉が誰かを刺してしまったら責任が取れないからです。

 日々、専門分野で「刺される覚悟」をもって書いている私なりの、覚悟と誠意です。

 

星組大劇場公演『霧深きエルベのほとり』と月組東京特別公演『ON THE TOWN』へ

そんなわけで、今回感じたことをつらつらと… 劇評じゃないならなんなのよ、というところですが、私はヅカ・演劇に限らず物語を享受したらいろんなことをつなげて考えたくなるたちでして、 その現象(作品)の周辺領域を整理する感じでいきたいと思います! また気が変わるかもしれないけれど、その方向でいきます。よろしくです◎

 

1月はわたしのホーム★星組とサブホーム☾月組が両方公演をするので大忙しです! 今日までにムラとフォーラム、どちらも見てきました。

星組大劇場公演『霧深きエルベのほとり/ESTRELLAS ~星たち』

kageki.hankyu.co.jp

エルベ河に隣接する港町を舞台に、ビア祭りの日に出逢った恋人達……情に厚く人間的魅力に溢れながらもどこか哀しみを湛えた船乗りカールと、父親との確執ゆえ家出した名家の令嬢マルギットの切ない恋を描いた『霧深きエルベのほとり』。日本を代表する劇作家であり、演劇界に多大な功績を遺した菊田一夫氏が宝塚歌劇の為に書き下ろしたこの作品は、1963年の初演以来、幾度となく再演され多くの観客の心を捉えてきました。
(公演トップページより一部抜粋)

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月組東京特別公演『ON THE TOWN』
kageki.hankyu.co.jp

24時間の上陸許可を得た海軍水兵のゲイビーは、仲間のチップ、オジーと共にニューヨークの波止場に降り立つ。初めての大都会に胸をときめかせるゲイビーは、地下鉄の中で“ミス・サブウェイ”のポスターに写る美女・アイヴィ・スミスに一目惚れしてしまう。必ず彼女を探し出しデートをすると意気込む彼に、チップとオジーも協力を約束。ニューヨーク観光をしながらアイヴィを探すうちに、チップはタクシー運転手のヒルディに迫られ、オジーは人類学者のクレアと出会い、たちまち大都会に恋の花が咲く。しかし肝心のアイヴィがなかなか見つからない。残り少ない時間の中で焦りを募らせるゲイビー。果たして彼らの恋の行方は……。朝には戦地へと旅立つ水兵達が繰り広げる束の間の恋と冒険を描く、若さと躍動感溢れるミュージカル・コメディーにご期待下さい。(公演トップページより一部抜粋)

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これ、どちらも見た方はおわかりになると思うんですけど、このタイミングで続けて上演することに何か意図があるのか!? と思ってしまうような、対比的でありながらつながりを感じる両作品でした。そのあたりを、ちょっと味わっていきたいと思います。

近い時代、近いシーンに咲く遠い趣の恋模様

月組公演千穐楽の波止場のシーンでわたし、突然こんなことを思ったのです。

「ゲイビー、いつかどこかの港でカールに会ったら、あなたの陽気な恋の話でカールを励ましてやるんやで」と。

 そのとき初めて気づいたんですけど、これ物語の前段設定が似すぎてませんか?というね。

・ 水夫(水兵)が港に降り立って物語が始まる

・ かりそめの港、限られた時間で恋をする

・ また船に乗り旅立っていく

『ON THE TOWN』に関しては、私の解釈ですが、ゲイビーは結局アイヴィを置いて船に乗ったのかなと思ってるんです(映画のラストが記憶にない。違ったら教えてください)。カールにしてもゲイビーにしても、またこの地を訪れたとき、その面影を思い出すのかな、と。

かたや宝塚向けに書き下ろした切ない泡沫の恋、かたや束の間の恋と冒険を描く、若さと躍動感溢れるミュージカル・コメディー。あんまりにもテンションが違いすぎて、最後の最後になるまで気づかなかった共通点。わたしは、その「近い設定で描かれる遠い恋模様」を見比べることに、劇団側の意図がないまったくの偶然だったとしても、演劇を見る意義や希望を覚えました。


『霧深きエルベのほとり』の方は、初演が1963年。今回の上演にあたって心象表現を鑑みて1930年くらいに設定し直したそうですが、本来の設定としては1960年代のドイツ・ハンブルグが舞台とあります。

そして、ヒロインをとりまく旧弊な社会の様子からは本来の作品の舞台となっている1960年代よりも前の印象を受けるので、私の頭の中ではもう少しさかのぼった1930年くらいに、時代を設定し直しています。(『霧深きエルベのほとり』の魅力 | 星組公演 『霧深きエルベのほとり』『ESTRELLAS(エストレージャス) ~星たち~』 | 宝塚歌劇公式ホームページ 上田久美子さんインタビュー記事より一部抜粋)

一方『ON THE TOWN』の初演は1944年。恐らく戦中の話で、当時の現代劇でしょう。ですので、1950年代に向かうアメリカ合衆国・NYC。

 【限られた時間の恋】という主題を、たった10年くらいの時差で、違う物語舞台・違う制作国がつくって、こうも真逆になるものか…!と思うのです。おもしろくない?おもしろくないですか??

言葉で言い分けるなら、前者『霧深き~』の方は「泡沫の恋」と表現しているのに対し、後者『OTT』は「束の間の恋」。【泡沫の】とは、直接的な意味としては【あぶく、あわ】といった意味で、暗喩で儚く消えやすいものを形容します。確か「消ゆ・浮き/憂き」とかの枕詞です。なんかもう悲恋の香り満載。【束の間の】とは、読んで字のとおりちょっとの間、とかそういった意味で、もっと主体性を感じる表現です。その場限り臭もプンプンします。

今回、私の友人・知人周りでは、星組さんのファンが多いこともあって『霧深きエルベのほとり』の評判が天井知らずでして、その分『ON THE TOWN』は物語そのものに共感・感動したという人には会いませんでした。実際にわたしも、大変楽しみはしたけれども、率直に個人的には好みとは違う演目でした。この感想はわたしが最近極度の“ミュージカル食あたり”であることも手伝っていますし、比較して優劣を問いたいわけではありません。意味を問うのは諦空に任せておきます(突然のサンファン)。

『ON THE TOWN』を拝見して、私が一番思ったのは「これくらい気軽に恋できるって理想的」ということ、そして「気軽な恋、奔放な性へのおおらかさは国力(政治的な意味でなく経済・科学的な意味です)にも影響するのかも」ということでした。そして今生きる、正しく変わりゆく世界へのやわらかな息苦しさを自覚したのです。

『OTT』1作だけではこう思わなかったかもしれません。『霧深き~』を見て、その痛いまでに純粋すぎる愛にからだじゅうの穴から涙が出るのではと思うほど泣いて(汚い)、その上で観たからこそ「あーわたしたち、もっと肩の力抜いて生きた方がいいんじゃないの、ゲイビーうらやましいわたしも逆ナンでもすっかな」と思えた。

美しいところだけ濃縮還元の理想の恋も、欲と邪念と粒だらけのリアルな恋も。どちらもよくて、どちらも人生を豊かにすると思いました。また、紅さんと綺咲さん率いる絵画のような星組は美しすぎる理想の恋を、珠城さんと美園さん率いる健康的で安定感のある月組はおおらかで楽しい恋を、どちらもこれ以上なくよく表現できた要因だったと付け加えます。どちらも最高ですマジ演劇ぱねえ。

 

菊田一夫さんとはもはや、大きな哲学

最後に、さらにおもしろいことに気づいたのでもう少しだけ聞いてください。

今回の『霧深き~』は日本演劇界を語るに外せない、レジェンド中のレジェンド菊田一夫さんの宝塚書き下ろしです。紹介にもそうありました。

演劇界の草分け的存在であり、日本で初めてブロードウェイ・ミュージカルを上演したことでも知られる劇作家・菊田一夫氏。多方面で活躍した菊田氏のキャリアの中には、宝塚歌劇に提供した作品も数多く含まれています。そのひとつ、『霧深きエルベのほとり』は、菊田氏が宝塚歌劇のために書き下ろしたオリジナル作品です。(『霧深きエルベのほとり』の魅力 | 星組公演 『霧深きエルベのほとり』『ESTRELLAS(エストレージャス) ~星たち~』 | 宝塚歌劇公式ホームページ より一部抜粋)

この紹介文。1行目見てもらえます?

学生時代習ったことって忘れるものですね…そうだった。菊田一夫さんは『マイ・フェア・レディ』の日本での上演権を獲得したその人なのだった。

 上演したのは東宝(だったと思う。高島パパが出ていらっしゃったらしいので) ですが、その後ほどなくして宝塚でもブロードウェイミュージカルを上演するようになります(確かオクラホマで、菊田さんは直接関係なし。古い本で読んだ記憶なんで違ったらすいません調べるの面倒)。

 

何が言いたいかっていうと、日本演劇をここまで極められた菊田さんとは、当然ながらさまざまな演劇を世に出され、自らの《型》に固執することなく、ブロードウェイの開拓精神・おおらかな物語世界も手掛けられるほど、おひとりの心の中に多様性を持った人だったということです。『OTT』も『霧深き~』も、結局その源流は菊田演劇なわけです。いやもう土下座してひれふしたい。

 

この方の多様性を前にすると、いかに「宝塚とは歌劇団であるからして」とか「本格ミュージカルがどうだ」というのを真剣に論じることのアホら…もとい、論じる自分の矮小さを痛感してなりません。わたし自身はこの道の求道者ではないし門外漢ですが、自分の素直な感想は押し殺さずともいち観客・市民として心に多様性を持っていたいですし、自分の求める道に関しては【自分の中の正義】に固執せず、さまざまな可能性や変化に苦しみぬき味わい、深めていきたいなと感じた次第でした。

 

長なったな

ご静聴ありがとうございました。

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