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僕とヘルメットと板谷君と


恋愛と性とを物理的に忘れてしまうとき、
さらには肉体もまた物理的に失われてしまったとき、
それでもそこに遺るものとしての「親切」とか「やさしさ」とか、
そしてそこから伸びる「連帯」の意志のことを、
私は中学や高校のあの頃からずっと
「友情」と呼んできたのかもしれないなと思うのです。
     ―――『愛と差別と友情とLGBTQ+』北丸雄二 416頁


▼▼▼岡山県立倉敷南中学校▼▼▼


ヘルメットについて、
もうひとつ僕には思い出がある。
僕が通っていた岡山県立倉敷南中学校は、
通学時にヘルメットをかぶるルールになっていた。
たしか、高校からはヘルメットの着用義務がなくなったと記憶している。
だから同じ学ランに自転車でも、
ヘルメットかぶってると「中坊」で、
かぶっていないと「高校生」と、
遠くからでも分かるかっこうになっていたのだ。

今となると意味が分からない。
高校生だと自転車で事故しても安全、
とかないからね。

でも、まさに「ルールはルール」
みたいな感じで、
中学校における自転車登校時のヘルメット着用は、
徹底されていた。
僕が中学生だった1990年前後というのは、
日本にはまだ法律がなかったから笑、
中学校は荒れに荒れ果てていた。

卒業式には札付きの不良が先生に「挨拶回り」に来て、
去年は厳しい体育教師が金属バットで足を折られたとか、
車のフロントガラスを割られたとか噂されていた。
教師も教師で、半分ヤクザみたいな人が学年に1人か2人いた。
札付きのワルを治めるには、
教師も武力行使を余儀なくされていたのだ。
僕の中一のときの担任、
岸田先生こと今は亡き「きっさん」は、
クラスで生徒を張り倒した上に腹を何発も蹴り、
そのうえからぞうきんを絞って水浸しにしていた。
普段は優しいのだけど、
年に3、4回、きっさんによる「暴力指導」が入る。
今ならば刑事事件→連日ワイドショーだろう。
あの光景は今でも目に焼き付いている。

話は一切盛っていない。
実話だ。
僕の同級生に聞いてみると良い。

だから言ったでしょ。
当時の日本に法律はまだなかったのだ。
多分。

これを聞いて、
「分かる分かる!」
って人と、
ドン引きしている人で、
同じ世代でも別れると思うのですよね。
これは地域差が相当あるはずなので。

岡山県というのは、
「そういう県」だったのだ。


▼▼▼グレた僕▼▼▼


そんな岡山県立倉敷南中学校の、
3年生ぐらい、
つまり15歳ぐらいになったとき、
僕はグレた。
尾崎豊だ。
盗んだバイクで走り出したのだ。
(バイクは盗んでいないし、
 夜の校舎窓ガラス壊してまわってもないし、
 きしむベッドに優しさを持ち寄ってもいない)

ボンタンを履き、
短ランを着、
ボタンをガラスボタンに替え、
髪の毛に父のビールとか塗りつけて脱色し、
髪型をサイドバックにしてジェルで固め、
クラスメイトと一緒にタバコを吸い、
授業中にガムを噛んだ。

でも、テストの成績はクラスで1番で、
学級委員もやるという、
意味の分からないバランスだった。

あれは何だったのだろう、
と今は思う。
THE BLUE HEARTSを聞きすぎたのか、
尾崎豊を聞きすぎたのか、
なぜか常にこの下らねぇ世の中に、
中指立てて唾ぶっかけてやりたい気持ちが充満していた。

、、、

、、、

あ、違う。
そんな気持ちなかったわ。

中二病だわ。

今分かったけど。

特に反抗心があったわけでもない。
タバコだって美味いと思ったことなど一度もない。
でも、不良の友だちの家で、
タバコを吸って改造学生服を着ている自分でいたかったのだ。
それが幸せだったのだ。

「過剰同化」でもある。
ジュディス・リッチ・ハリスという人が言ってるけど、
子どもって集団で社会化するから、
同じような学齢の子どもをひとところに集めると、
その子どもは遺伝子よりも家庭環境よりも、
何よりもそのピア(同年齢集団)から影響を受ける。
軍団になったバッタは集団でハネの色が変わるというが、
まさにそういうことなのだ。

それに、もしあのとき僕がグレていなければ、
実は僕は虐められていた可能性も高い。
ただでさえ転校生だったし、
ただでさえ勉強ができたし。
勉強ができる転校生というのは異分子なので排除されがちだ。
じっさい、超ウルトラ優等生の僕の姉は、
岡山でひどい虐めに遭った。
あれは姉の人生を変えたのではないかと思う。

僕は過剰同化することで生き延びた。
カメレオンだ。
あるいは有名な、
産業革命後に羽の色が変わったロンドンの蛾だ。
羽の色を変えられなければ煙突に止まっているのが目立つから、
しこたま鳥に食われて絶滅していた。

僕は羽の色を変えて生き延びようとしたのだ。
それがリーゼント、短ラン、タバコ、ガム、
尾崎豊だったのだ。
親も先生も「非常に遺憾」な顔をしていたが、
今も昔も「うるせー」と思う。
そうやって生き延びるしか、
僕たちにはなかったのだ。


▼▼▼板谷君の納屋▼▼▼


かくして不良になった僕は、
内面はまったく不良ではなかった。
羽の色が変わっても蛾は蛾なのだ。

不良になったついでに、
カマキリハンドルという、
通学には禁止されている自転車で登校するようになり、
かねてから面倒くせーと思っていたヘルメットもかぶらなくなった。

中学校はヘルメット着用を義務づけているから、
それが先生に2回見つかると、
自転車登校の権利を剥奪された。
最初は登校時は校門から100メートル時点でかぶり、
下校時は校門から100メートル地点で脱ぐ、
というやり方ですり抜けていたのだが、
200メートル地点で先生が待ち伏せしている、
ということが時々あった。
警察の「ねずみ取り」のように。

かくして僕こと短ランネズミは、
先生に2度確保され、
自転車登校する権利を剥奪された。

水島臨海鉄道の高架下にある、
学校の駐輪場に駐めて良いよ、
という「シール」を没収されるのだ。

困ったことになった。

まぁ、家から学校まで歩いても15分~20分なので、
歩いて登校すれば良いだけの話なのだが、
カマキリ自転車に僕は乗りたかった。

さて。

僕には板谷くんという友だちがいた。
中一のころからの友だちで、
中三になると身長が170センチぐらいになった僕とは対照的に、
板谷くんは150センチ台を確実にキープしていた。
中三になるとリーゼント&短ラン&ボンタンになった僕とは対照的に、
板谷君は標準学生服をキープしていた。
彼は真面目だったのだ。
僕と板谷君が並ぶと、
中三と中一が並んでいるような感じになった。

そんな板谷君、虐められてはいなかった。
根が素直で優しくて良いヤツだったし、
何より地元民だったのも大きいだろう。
荒れた中学校というジャングルを生き抜く上で、
親同士の古くからの付き合いがあるかないか、
みたいな要素も重要なのだ。
子どもからは見えていないが、
実はそういうのって微妙に影響する。
そういう意味で「よそ者」は苦労する。
だから不良になって生き延びる。

板谷君と僕は、
中一のとき同じクラス&卓球部ということで、
ずっと仲が良かった。

良く板谷君の家にも遊びに行った。

岡山というのは日本でも豊かな地域だ。
大きな自然災害がなく天候に恵まれており、
政治的にも長らく安定してきたから、
「豪農」が多い。
信じられないほど大きなお屋敷の農家がたくさんあった。
板谷君の家はそんな大きな農家のひとつだった。
東京の豪邸というのとも違うのだけど、
広ーい日本家屋に、
おばあちゃん、おじいちゃんと二世帯で住んでいる。
おじいちゃんは高級そうな盆栽を庭で育てている。
こんなサザエさんみたいな家族を見るのは、
転勤族で社宅にしか住んだことのない僕には初めてだった。

板谷君の家に行くと、
いつもおばあちゃんが冷たい麦茶やカルピスを出してくれて、
おまけにアイスやスイカやメロンが出ることもあった。
最新のゲーム機をいくらでもプレイすることができた。
核家族しかおらず、おしなべて躾が厳しく、
みんな塾に行っており、
子ども同士がゲームで遊んでいるのを、
全母親が快く思っていない企業団地の友だちとは大違いだった。

板谷君の家に僕は入り浸るようになった。
板谷君の家には大きな「納屋」みたいなものがあった。
普段は田植え用のコンバインだとか、
農作業の道具を入れておくのだが、
かなり広いスペースがそこにはあった。
板谷君は本格的な卓球台ももっていて、
その納屋に置いてあった。
雨の日でも卓球ができる。
納屋だから風の影響も少ない。

板谷君と部活に行き、
帰りに板谷君の家でもうちょっと卓球をし、
それからゲームをしてスイカを食べて、
それから暗くなったら帰る、
みたいな日も中一、中二のころは多かった。
他の友人がそれに加わることもあった。


▼▼▼俺だけの駐輪場▼▼▼


中三になり板谷君は小さいままで標準学生服、
僕は20センチ身長が伸びてボンタン短ランになった後も、
板谷君とは友人だった。
こういうケースでは友人関係がギクシャクすることも多いのだが、
僕と板谷君はまったく変わらず友人だった。

ノーヘルを摘発されて自転車通学権を剥奪されたある日、
僕は良いことを思いついた。
板谷君の家は学校からすこぶる近い。
200メートルもなかったんじゃないかな。
だから当然彼は徒歩通学だ。
そして、僕の家とは少しだけ反対方向に当たる場所にある。

そうだ。

俺のカマキリ自転車を、
板谷君の家において、
それから一緒に徒歩で通学すれば良いじゃん!

板谷君に聞いてみた。
「ケイショウ(当時の彼のあだ名)、
 ちょっと相談があるんだけど」
「何、陣内?」
「いや自転車通学取り消されちゃってさ。
 ケイショウの家に駐めて良いかな?」
「別に良いよ」

あまりにもあっさり承諾された。
彼は良いヤツなのだ。
かくして僕は、
家から板谷君の家まで、
カマキリ自転車&ノーヘルで10分かけて行き、
板谷君がちょうど家から出るところだったら、
一緒に歩いて通学するようになった。
板谷君がいなくても、
納屋を僕だけの駐輪場として使った。
クラスも違うので帰りは別々のことも多かったが、
納屋に行くと板谷君がいることもあり、
適当に卓球をして、
カマキリ自転車ノーヘルで僕は帰宅した。

おばあちゃんとだけ顔を合わせることも多かったが、
おばあちゃんは「孫の友だち」ということで、
僕に「いつも仲良くしてくれて本当にありがとう」と、
喜色満面の笑みで僕を送り出してくれた。

僕と板谷君の密約におばあちゃんは気付いていたのだろうか。

気付かないわけはないだろう。
それでも何にせよ、孫に友だちがいることが、
おばあちゃんには嬉しかったようだ。
あと、なぜかおばあちゃんは僕のことを、
「危ない不良」とは認識しておらず、
とても好意的に見てくれていた。
僕がクラスで成績が一番だったことも大きいかもしれない。
中学生の子どもや孫を持つ保護者は、
子どもが成績優秀な生徒と付き合うことに、
基本的に反対はしない。
カルピス飲みながら、
よく一緒にテスト勉強もしていたし。

板谷君、元気かなぁ。

あいつ、良いヤツだったなぁ。

マックス・ヴェーバーは、
「法の檻」という概念を言っている。
我々が仲間(友人)を作るには、
法の檻から出なければならない。
法の奴隷でいるかぎり、
私たちは人と連帯することができないのだ。

僕と板谷君の友情は法の檻の外でつくられた。
中三のときの僕の親友、
父子家庭の坪井君との友情も、
一緒にタバコを吸い、
一緒に授業をサボるという法の檻の外で築かれた。

風紀員タイプの優等生に本当の友だちができない理由を、
マックス・ウェーバーはもうすでに言っていたのだ。
宮台真司さんが良く言う「法の檻の外で仲間と生きろ」
とはこれのことだ。

現代は誰もが「法の奴隷」になり、
「言葉の自動機械」「損得マシーン」になってるから、
友人を作るのが本当に難しい。
それでも僕には仲間がいる。
それは中学時代、板谷君たちに、
仲間の作り方を教えてもらったからに他ならない。

ケイショウ、元気かなぁ。

元気でいると良いなぁ。

今もあの家に住んでるのかなぁ。

豪農になってるのかなぁ。

ケイショウの息子があの納屋で卓球してたら、
俺、泣いちゃうかもしれないなぁ。

終わり

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参考文献および資料
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・『愛と差別と友情とLGBTQ+』北丸雄二
・『子育ての大誤解』ジュディス・リッチ・ハリス
・ビデオニュース・com


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