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洗礼を受けた日


翻ってボクはどうだったかって?
ボク自身で言えば、認知症になったのはしようがない。
年をとったんだから。
長生きすれば誰でもなるのだから、それは当たり前のこと。
ショックじゃなかったと言えば嘘になるけれど、
なったものは仕方ない。これが正直な感想でした。
こう感じる気持ちの背景には、
キリスト教の信仰もあるのかもしれません。
ボクはキリスト教の信者で、若い頃に洗礼を受けています。
神様が信仰を与えてくださり、
守ってくださっているという感覚があるから、
割り切って、ありのままを受け入れるという感じになったのかもしれません。
  ――長谷川和夫(認知症の専門医)『ボクはやっと認知症のことがわかった』27頁


▼▼▼1996年8月18日▼▼▼


今から27年前の今日、
僕は帯広キリスト福音教会で洗礼を受けた。
大学1年生だった。

今も同じ教会で牧会なさっている、
武田彰さんという、
同じ大学の卒業生の方が洗礼を授けてくださった。
帯広キリスト福音教会はブラザレンといって、
牧師とは呼ばず「兄弟」と呼ぶ教派だったので、
僕は「武田さん」と呼んでいた。

洗礼のための学びを、
武田さんと一緒に教会の二階でしたのを覚えているし、
洗礼の日に記念品としてもらった、
『ハーレーの聖書ハンドブック』は、
その後15年間ぐらい、ボロボロになるまで読んで、
今は新しいバージョンのやつを買って使っている。
あと、洗礼を受けたときの写真は、
たぶんどこかにはあるが、
今僕が住んでいる家には存在しないので、
実家に置いてあるか、もしくはもうこの世に存在しない。

あまり「思い出の写真」とかを、
大事にとっておけないタイプだ。
獣医師免許の証書はさすがに実家に保管してもらってるけど、
2008年にTOEIC930点とったときの、
「認定書」みたいなやつはどこかにいっちゃった。
けっこう大切なものをなくすたちなので、
時々パスポートをなくした夢を見て脂汗かいて目を覚ます。
「モノを管理すること」が絶望的に苦手なのだ。

なので洗礼にまつわる「モノ」に関しては、
僕は今や手元に何も残ってないのだけど、
「8月18日に僕は洗礼を受けた」という事実だけは、
胸の中に見えない彫刻刀で刻んである。

それは僕の2つめの誕生日だからだ。


▼▼▼2つめの誕生日▼▼▼


僕の出生証明書がいまどこにあるか分からん。
でも、戸籍謄本とかには、
僕が昭和52年11月28日に生まれたと書いてある。
それは「日本国」に僕が生まれ落ちたことの証明となる。

でも、キリスト教徒は例外なく二重国籍で、
地上のどこかの国と、神の国の両方に国籍をもつ。
その「神の国の出生証明書」が、
洗礼を受けたという「証明」なのだ。
そういった証明がある教会もない教会もあると思うが、
僕は胸に「1996年8月18日生まれ」と刻んである。

別に霊的な誕生日パーティをするわけではない。

霊的なケーキに霊的なろうそくを27本灯し、
霊的なプレゼントを霊的な友だちからもらう。
霊的な友だちは霊的なサプライズをしてくれて、
霊的なクラッカーをならして僕を祝ってくれる。

端から見たら違法な薬物の影響下にある人になっちゃうので、
霊的な誕生会は開催していない。

でも、毎年8月18日には、
「うん、この日が僕の、
 『もういちど生まれた日だ』とは思う」
わりとそういうのは大事にするタイプなのだ。
証明書や写真のたぐいは紛失する名人なのに。

なので今日も、
「あぁ、今日が2つめの誕生日だなぁ」
と、心で思うわけだ。

神様、今日が僕の第二の誕生日です。
新しい命をありがとうございます。
この命をいただいて、
僕は本当に幸せです。
人生が変わり、世界は変わりました。
本当にありがとうございます。

そういうふうに心で祈るのだ。

有名な第一コリント5:17の、
「誰でもキリストのうちにあるなら新しく造られた者です。
 見よ、すべてが新しくなりました」
っていう有名なパウロの言葉は、
ギリシャ語の原語により忠実に直訳するならば、
「だから誰でもキリストのうちにあるなら、新しい創造です! 
 見よ、すべてのものが新しくなったのです」
となると神学者のリチャード・ボウカムは言っている。
ちなみに上記はボウカムの「英語による私訳」を、
山口希生先生が和訳したものだ。

僕が新しくなっただけではない。
世界が新しくなったのだ。
すべてのものが新しくなった。

本当にそうだと思う。


▼▼▼「いまだ」と「すでに」▼▼▼


福音主義神学(特にファンダメンタリズム)の、
思想的アキレス腱の一つは、
「個人の内面の新生」にのみ救済を還元する傾向にあり、
洗礼の意味が「その人ひとりが変えられたたこと」
に終始してしまうことだ。
酷い場合は「その人ひとりの、心の中が変えられたこと」
というところまで縮小してしまう。

そうではないのだ。

新生というのは、
その人の内面だけでなく、
全人格・全存在・身体にまで及び、
その人個人だけでなく、
その人をとりまく世界まで変えてしまう。

人が洗礼を受けたとき、
その人にとって「世界」は新しくなる。

マルチバースの比喩を使うなら、
洗礼を受けると、
その人は違う平行宇宙に放り込まれる。

「意味なき世界」から、
「意味ある世界」へ。

「希望なき世界」から、
「希望ある世界」へ。

「愛なき世界」から、
「愛ある世界」へ。

「神なき世界」から、
「神の世界」へ。

洗礼とは、
「新しい世界に我々が生を授かったこと」を、
象徴的に顕すキリスト教の秘跡なのだ。

僕はそういうわけで、
異なる平行宇宙に同時に生きていると言える。
神学者のクルマンとかモルトマンとかは、
「すでに」と「いまだ」の間を生きる、
とそのことを表現している。

「すでに」の世界、
つまり「意味ある世界」では、
僕たちは新天新地で完全にされた、
イエスにある命を先取りしている。

「いまだ」の世界、
つまり「意味なき世界」では、
僕たちは不完全なこの世の国(たとえば日本国)で、
不完全な仕事をし、不完全な自分の性格に失望し、
不完全な人々に囲まれ、
不完全な政治・経済・教育に辟易し、
不完全な地上的教会で、
分裂や不和を経験したりしている。

僕たちの地上での「生」とは、
この「すでに」と「いまだ」の間で、
ある意味で引き裂かれながら「うめいて」生きることだ。

「すでに」に埋没してはいけない。
つまりこの不完全な世界と関わりを持たず、
地上から1センチ、宙にに浮いた状態で、
「ハレルヤー、感謝ー、ハレルヤー」と、
年中夢見心地で歌ってることがキリスト者ではない。

「いまだ」に埋没してもいけない。
日曜に教会に行くなどの最低限のキリスト者のコードは守るが、
基本的にそれ以外の仕事・お金・家庭・友人関係・趣味は、
「キリスト教生活」とはパーテーションで区切られており、
信仰がそれらの部屋に侵入することをよしとせず、
自分をつくる構成要素の10%ぐらいの、
「キリスト教徒の自分」と、
「社会人・父親・消費者・学習者・生活者としての自分」は、
互いに干渉し合わないし、干渉して欲しくもないと思っている。
これもまたあるべきキリスト者の姿ではない。

キリスト者であるということは、
むしろ「すでに」と「いまだ」に橋をかけることなのだ、
と僕は理解している。

意味なき世界に、
意味ある世界が、
二重国籍の僕たちの生を通して侵入するのだ。

ふたつの平行宇宙の間に、
新生したキリスト者およびその共同体を通して、
「ワームホール」ができるのだ。

「伝道」とは、
ただ会話の中に「キリスト」という言葉をぶち込むことでも、
箇条書きにできる「いくつかの要素」についてレクチャーし、
「同意しますか? 信じますか?」と迫ることでもない。

「伝道」とは、
ふたつの世界に橋を架けることだ。
ふたつの平行宇宙にワームホールをつくることだ。

愛なき世界でキリスト者が、
愛に生きるときにその橋はすこし太くなる。
意味なき世界でキリスト者だけが、
神にある意味を見出しながら生きるときに、
「いまだ」の世界に「すでに」の世界が侵入し、
ふたつの宇宙の間のワームホールは少し太くなる。

ふたつの世界に橋を架けるのだ。
旧約ではそれを「やぶれに立つ人」と呼んだし、
新約ではそれを「キリストの使節」と呼んでいる。

僕の人生はこの「橋を架ける」ことに捧げられている。
30歳のときにインドで、
きわめて個人的なかたちで僕は神からの明確な召命をいただいた。
それは僕がキリスト教徒になって13年目、
ユダヤ教ならばバル・ミツワーという成人式の年だ。
事の性質上、親しい人になら話せるが、
ここに詳しく書くことはできない。
でも、「おまえに新しい命を与えた理由はこれだ」
とその日、神からきわめて明確に、
きわめて個人的なかたちで語られた。

その「理由」とは、
ひとことでいうと「橋をかけること」だ。
僕の人生は「見えない橋の建設」に捧げられている。
あれから15年、そのために命を砕いて頑張ってきたし、
必死でやってきた。

橋はまだかかっていない。

この橋はガウディにとってのサグラダ・ファミリアと同じで、
僕が生きて完成をみることはないだろう。
それでも、命尽きるその日まで、
僕はこの橋をつくることに自分のすべてを賭けていくのだろう。
そう思っている。

すべては1996年8月18日に始まった。

なぜか知らんけど、
神様が恵みによって、
僕をピックアップしてくださったのだ。
そして新しい命を与えてくださり、
「希望の平行宇宙」で生きることを許してくださったのだ。
この命を大切に、大切にしていきたい。
そしてこれからも橋をかけていきたい。
二つの平行宇宙にワームホールをつくっていきたい。
「いまだ」の世界に「すでに」が侵入する姿をもっと見たい。
そのためだけに僕の人生はあるのだ。
今日という日に、その決意を新たにする。

終わり。


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参考文献および資料
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・『ボクはやっと認知症のことがわかった』長谷川和夫
・舟の右側 vol.100
・「『神の王国』を求めて」山口希生


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