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美しくなってしまった徳川園(高校時代への小さな旅 【1/4】)

先週のとてつもなく暑い日、高校時代の通学ルートをたどり、その時代の想い出の場所を歩く、「過去への小さな旅」に出ました。
しかし、猛暑の中、「長袖+カーディガン or チョッキ」という制服姿をかたくなに守ってぶっ倒れそうな高校生に衝撃を受け(というほどでもないけれど)、その話だけを記事にしてしまいました。

同じ系統のバスに乗って窓外の景色が当時とどう変わったか ── たとえば、場末の歓楽街だった地域がすっかり様変わりして健全になったけれど1軒だけトルコからソープランドに名を変え健気に生き残っている ── のを見たりしながら少し手前で降り、名古屋市東区徳川町の《徳川園》まで歩きました。

ここは尾張徳川家の2代藩主・徳川光友の隠居所(大曾根屋敷)に造られた、池泉廻遊式の大名庭園です。

池泉廻遊式の大名庭園は、江戸時代の藩主は競うかのように造ったらしく、私自身昨年12月に香川県に旅した際に、丸亀藩主・京極高豊が海浜に造らせた中津万象園なかづばんしょうえんや、

高松藩主・松平氏が紫雲山の東麓に造った栗林りつりん公園を訪ねた。

旅先では「ここは必見!」と足を運ぶが、気軽に行けるご近所の名勝からは、意外と遠ざかっていたりする。

徳川園・徳川美術館正門

高校時代の個人的想い出は、
➀ ワンゲル部のトレーニングで徳川園までランニングして腕立て伏せや腹筋屈折などをしたこと。
➁ 授業をサボって徳川園の中を散歩したこと。
➂ ビールを持って英語教師(近所に住んでいた)の家に押し掛けたが(今から思えば当然!)酒の受領を拒否され、仕方なく徳川園内で飲んだこと。

全国各地の「池泉廻遊式大名庭園」(水戸偕楽園や岡山後楽園、金沢兼六園など、その際たるもの)をご存じの方々は、
「え、高校生の遊び場なの?」
と不思議に思われることでしょう。

当時の徳川園は、とてつもなく荒れ果てていたのです。
もちろん立入は自由で、池や築山などはありましたが、観光客が訪れるような場所ではありません。
中のほんの一部だけが、「牡丹園」などとして手入れされていました。

徳川園は1931年に尾張徳川家から名古屋市に寄贈されますが、1945年春の名古屋大空襲で破壊されます。
名古屋は軍需産業が盛んだったので、徹底的に破壊されました。名古屋城も焼失しました。
東区には三菱の工場があったため、爆撃もひどく、大幸町にあった祖父母の家であり父の生家も焼失しました。

日本庭園として再び造営されたのは2005年のことです。この時から入場は有料になりました。

「虎の尾」(渓流)を見下ろす「虎仙橋」を渡り園内に

不良高校生が園内で瓶ビールの栓を抜いてがぶ飲みしていても誰もとがめないような野蛮な公園時代を知っている人にとっては見違えるような庭園です。
ただし、江戸時代の大名庭園がそのまま残っているわけではなく、名古屋城と同様、「再建」された名勝であり、観光客人気はイマイチかもしれません。

「龍仙湖」の周りでは結婚式の前撮り風景も見られます
池越しに見えるのは尾州織田有楽斎流の茶室「瑞龍亭」
ちょうど母子が鯉に餌をやっていました
その向こうはレストラン「観仙楼」
睡蓮の花が咲いています
小高い丘の上、木々に囲まれた「四睡庵」
四睡とは、豊干、寒山、拾得の三人が虎と寄り合って眠っている情景、なんだって
「四睡庵」の裏手にあるのが……
水をこぼすと金属的な音色が美しい「水琴窟」

特に人工の「大曾根の滝」が素晴らしい。
日本語でいう「滝」は、英語では「Fall」と「Cascade」に大別されますが、この滝は上部が「Fall」、下部が「Cascade」と両方を鑑賞できる。

上が「Fall」、下が「Cascade」の「大曾根の滝」
「龍仙湖」水面に映る園内の木々

「美しくなってしまった」と表題に書いたけれども、もちろん、美しくなったのはいいことだ。有料化も当然で、それでも無料時代よりはるかに賑わっている。

徳川園、徳川美術館に隣接する「蓬左文庫」
尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵する公開文庫で、蔵書数約12万点
尾張徳川家に伝えられた2千枚をこえる絵図を所蔵している

ただ、野蛮だった旧・徳川園を懐かしくも想う気持ちも止められない。
── そして唐突に、その頃の1シーンを想い出した:

授業をサボり、今日は徳川園に行こうぜと、同級生(♀)と歩いていたら、通りがかりの大型トラックから運転手が身を乗り出して、
「こら! お前ら、10年早いぞ!」
と怒鳴った。
臆病者の私はビビったが、一緒にいた同級生(♀)は腕を組み、
「アタシャ、そうは思わない」
と言い返した。
(お、すげえな、こいつ)
思わずその横顔を見た。

この続きは……

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