笠木は雨が降ると思い出す

笠木には雨が降ると思い出す光景がある。もう十年も昔の話だ。
よく晴れた夏の日に、雨が降りはじめた。
見上げると雨が矢のように降っている。
アスファルトの湿ったにおいが立ち上がる。生温かい空気が肌にまとわりつく。

子供の頃はこういう雨がよく降った。山間の小さな街で育った笠木は、晴れた日に降る雨が好きだった。
罪の意識が無いのだ、と笠木は言った。
曇り空の雨はそれはそれでいいものだが、やっぱり重い。重いし暗い。
晴れた日だと暑い。明るさと暑さに嫌気がさしてくる。
でも晴れた日の雨はちがう。雨がいろいろなものを洗い流してくれる。それも明るい空の下で、堂々と衆目監視のもとの断罪だ。あるいは膿を出す作業。しかし裁かれる人はいない。皆が許される瞬間とでもいった感情を、笠木はこの晴れた日の雨に感じていた。

笠木はある女性と会うことになった。
予備校で知り合った友人の彼女で、その日は三人で待ち合わせしていたのが、友人が遅れることになって、その女性と二人で先に会うことになった。
彼女はモデルの仕事をしていて、あまり喋らないと聞いていたから、二人で会って何をすればいいのか、笠木には検討がつかなかった。そして実際に会ってみると、まったく友人の言っていたとおりで彼女はほとんど喋らない。喋らないどころか、攻撃的に無口だ。そしてもちろんモデルを仕事にしている人がどういう生態をしているのか、笠木には想像することもできない。
会ってから、雨が降るまでにその女性が「うん」と「いいよ」以外で発した言葉は最初に会ったときの「笠木くんよね」だけだ。
会ってからものの数秒で笠木は困った。どこに行けばいいのかわからない。
笠木が「さて。どうしよっか」と言うと女性は「うん」とだけ言って、それだけだ。その後につづく言葉はない。
沈黙が繰り返される。
勇気を出した笠木が「あそこでコーヒーでも飲んで時間つぶそうか」と誘うと「いいね」と言って、彼女は先にお店に入っていった。
都会の女性ってこえーな、と当時の笠木は地方出の青年らしく素直に感心した。

雨が降ってきた。
二人とも傘を持っていなかったから、雨をしのごうとして、足早に歩いていると女性が定食屋を見つけて駆け出した。笠木も後を追うように入っていった。
古ぼけた昔ながらの定食屋で、客は中年の男性しかいない。
彼女は店に入るなりシャツを脱ぐと、乾かしたいからといって店からハンガーを借りた。
キャミソール一枚になった彼女は髪を書き上げて後ろで結ぶと、さすがに人に見られる仕事しているだけあって、堂々としている。店内は笠木もふくめて、女性のすらりと長い手足に圧倒された。
二人は席につくと、メニューにさっと目を通して、簡単な食事を注文した。入り口の少し上に赤色のブラウン管のテレビが置いてあって、野球かなにかをやっていた。

食事をすませると二人は店を出て、友人が到着するまで歩くことにした。
笠木はこのままこの店で待っていてもいいかと思ったが、めずらしく女性のほうから外に出ようと言ってきたのだ。
雨は止んで、もとの青空がひろがっている。道の両側に小さな水の流れができている。肌がべとつく。空気中の水分が増えて、生温かい空気が瀰漫している。しかし不思議と気分は健やかだ。雨が洗い流してくれたのだろう。

歩いていると笠木の携帯に友人から電話がかかってきて、今日はいろいろと立て込んでいるから行けなくなったと知らせてきた。そんなこと急に言われても困るとかなんとか苦情を伝えたところで友人の予定が変わることがないのは笠木にもわかっている。そして自分が動揺していることにも気づいていた。
さて。どうしたものか。
笠木は電話を切ると、友人が来れなくなったことを女性に伝えた。
彼女は「知ってるよ。彼から聞いてる」と言った。「あの人そういうことよくあってさ。時間の見積もりがいつもあまいのよ。少な過ぎるか多過ぎるか。いい頃合いってことがまずないの。だから外で会うことなんてめったにないわ。ま、そういう約束を守れない人だから、こっちは気楽でいいんだけど」
と、よく喋ったので、笠木は驚いた。それから彼が来ないことがわかっていたなら、いったい何をしにここまで来たのか、と不思議に思った。
「大変じゃない? 会う約束ができないなんて」
「そんなことないわ。てか私も約束守れないから気にならないし、別にあの人のこと好きじゃないから会わなくてもいいのよ」と、彼女は言った。
きわどいことをよくすらすらと言えるものだなと笠木は感心した。
好きでもない人と付きあうのってどういう感じなのだろうか、と笠木は考えてみた。
よくわからない。でもそういうことをしていると、感情が正確に機能しなくなるだろうなと思った。そして自分自信を失ってしまうのではないか?

雨はとっくにやんでいた。女性が歩きやめる気配はまだない。いったいどこまでの歩いていくのだろう。

笠木が覚えているのはここまでだ。あれからたしか二つか三つの駅を歩いて過ぎたところで別れたはずだ。
あの女性はその間ずっと話していた。彼女の友達が出産したとか。モデルの仕事は小さい頃から憧れていたけど、実際はじめてみると体力仕事で、最近はジムに通いはじめたとか。
付きあっていた友人の話はでてこなかった。おそらくあれから少しして別れたのだろう。


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Shun Mimura

米国駐在中です。音楽と映画と野球ゲームが好きです。Twitter https://twitter.com/Shun_Mimura
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