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鳩の会社員


わたしは鳩の会社員である。

毎日決まった時間に出社して、決まった時間に家に帰る。ときどき、残業をしたりして、調子のいい日があったり、全然ダメな日があったりする。

雨の日なんかはたいへんだ。人間がいる場所がわたしたちの仕事場だ。天気が悪いと、いつもの公園や波止場は誰もいなくなる。かといって、人間がいる場所に向かうこともできない。ショッピングモールや、喫茶店などに、ずけずけと入っていくことなんてできないのだ。

わたしはたべものをもらうために働いている。

人間が食べているものを、いかにしてもらうかが、仕事で求められるスキルだ。美人、いや、美鳥の鳩は、マジックショーなんかに出たり、ロート製薬のCMに出たりすることで生活をしている。しかし、わたしのような普通の鳩は、ごく普通にたべものを集めてまわるしかない。

飛んで、飛んで、飛んで、飛んで、飛んで、飛んで、飛んで、まわる。公園から公園へ。波止場から波止場へ。いろんな場所をまわっている。

このあいだ、とある情報通の鳩から、大阪のUSJとかいう騒がしい街には、たくさんのポップコーンが落ちていると聞いた。今度行ってみようと思う。東京のディズニーランドという街にも、たくさん落ちているらしいがあそこは、USJに比べてスピード勝負らしい。人間が落とした瞬間に取りにいかないと、お掃除スタッフの仕事が早く、すぐに掃除されてしまうそうだ。

まったく、優秀な人間は嫌いだ。

その点、ちょっとだめな人間がわたしは好きだ。こんなこと言ったらあれだが、わたしたち鳩の仕事には、カモになる人間がいる。・・・いまのは、鳥ジョークなのだ。笑ってくれたら、うれしい。

観光客はすばらしいカモだ。テンションが上がっている。景色の良い場所で、人間はお菓子やらを食べたがる。どこにでもいるわたしたち鳩でも、近寄っていったら、特に何も芸を見せなくてもたべものを与えてくれる。カモメの会社員は、うまくそれを利用して仕事をしている。遊覧船の人間と手を組んで、かっぱえびせんをもらい続けてきた。観光に来て、テンションのあがった人間たちが、お金をはらって、わたしたち鳥のためにたべものを買っているのだ。持ちつ持たれつで、うまくやっているなぁとわたしは思う。

だが、わたしにはスタイルがある。落ちているたべものを拾うよりも、無意味にばら撒かれるかっぱえびせんをつまむよりも、人間がわたしを見つめて、「お前にあげるよ」と愛情をこめて渡してくれるパンこそ、最高の報酬だと思っている。だから、わたしは鳩の安売りはしない。かんたんに、「豆がほしいかそらやるぞ」と言ってくる人間には寄っていきたくない。

人間のサラリーマンとのやり取りに、わたしは全力を注いでいる。彼らはいつも、決まった時間に、決まった公園のベンチに座り込む。その手には、缶コーヒーと菓子パン。ベンチの数だけ、サラリーマンがいるのではないかと思うぐらい、平日の昼間、彼らは休んでいる。

ほとんどのサラリーマンは疲れている。疲れているからこそ、ひとりになりたくて、ちょっと休憩したくてベンチへやってくる。海辺のベンチに座ったやつなどは、遠い目をして風を感じている。一瞬だけ、苦しさを忘れようとしているのだ。

わたしは知っている、ベンチに座って、いくらため息をついても、なんの解決にもならないことを。だからこそ、彼らは毎日、同じ顔をして座っているのだ。たまに、スマホをみて、ニヤニヤしているものもいる。たぶん、恋でもしているのだろう。そういう時は、そっとしておくのがわたしの仕事の流儀だ。

では、具体的にわたしが、サラリーマンを相手にどんな仕事をしているのかお教えしよう。それは、“ただそこにいる”である。ボーっと立っているわけではない。ただただ、そこにいるのだ。彼らが見つめる景色のなかに、一羽の鳩として存在し続けるのだ。

すると、わたしのことを眺める人間が出てくる。そこでようやく、近寄っていくのだ。目をあわせて、彼らの苦しみや、悩み、葛藤といったモヤモヤしたことを、すこしでも分かろうと努力をする。人間の言葉は話せないが、アイコンタクトで「がんばれ、苦しいかもしれないが、がんばるんだ」とエールを送る。すると、彼ら人間は、じぶんの手に持っているパンを、すこしだけわたしに分けてくれるのだ。

人間は鳩の言葉を話せない。しかし、わたしたちは人間の言葉がわかる。ときどき、腹をわって、鳩であるわたしに悩みを打ち明けてくれる人間がいる。そんなとき、わたしは、周りに別の人間がいないか観察する。

気をつけてあげないと、鳩に話しかける人間は、人間から見たら病的に思われるみたいだ。だから、近所のおばちゃんなどがやってきたときは、あえてそっちへ飛んでいく。これは、鳩なりのやさしさなのだ。決して、悩んでいる人間を見捨てたわけではない。現に、明日もわたしは同じ場所で彼とまた顔をあわせるのだ。

鳩の株式会社は、あまり転勤がない。人間の株式会社とはちがって、ほとんどおなじ街で定年までを過ごす。さっき出てきたUSJ出張なんぞは、レアケースだ。常連だったサラリーマンが、ある日とつぜん来なくなる、ということがよくある。それは、転勤もしくは退職という、人生のイベントが彼らに訪れたのだ。細く長く、地域密着で仕事をしているわたしにとって、これは結構つらい。新しいサラリーマンと心を通じ合わすまで、なかなか時間がかかるのだ。

今年の4月のことだ、いつも海辺のベンチで座っていたサラリーマンが、まったく来なくなった。毎日、決まった時間に、景色のいいこの場所へやってきて、わたしをボーっと見つめる。ため息をつきスマホを触り、天気がいい日は居眠りをする。目が覚めると、かばんからパンを取り出し、わたしにひとかけ分けてくれる。そんな彼がいなくなった。

突発的にかかってくる電話の内容に耳をすますと、彼の仕事は銀行員だったようだ。お金の話は興味がない。鳩の世界には、年金がどうとか、株式がどうとか、そんなややこしい概念は存在しない。あるのは、生きるという行為そのものだけだ。だから、あんまり理解をしてあげることはできなかったけど、彼が仕事に悩んでいることだけは、ため息の数でわかっていた。

1日、1週間、1か月、彼がこない日が続いて答えを出した。たぶん、転勤になったんだ。鳩の業界でも知られていることだが、人間の銀行員という職業は3年に1度ぐらいの周期で転勤が訪れるらしい。彼と出会って、2年たつ。もうそろそろ、そうなってもおかしくはない。立つ鳥跡を濁さず、彼はこの街を去っていった。

それから数か月、新しいサラリーマンを相手にわたしは仕事していた。11月末、ある晴れた日の昼下がり、わたしは彼と再会をする。彼は、スーツを着ていなかった。平日の昼間に、はじめてみる私服で、そこに座っていた。その顔は、とても青白い。缶コーヒーと菓子パンを持って、すこし泣きそうな顔をしながら海を眺めていた。

わたしは、鳩の会社員だ。どんな状況でも、仕事をまっとうして生きていく。焦る気持ちをおさえて、彼の目線にはいるように、いつものように首をふって歩く。ちなみに、分かりやすく伝えるために、首をふってあるくと表現したが、実は首自体はまったく動いていないので覚えておいてほしい。

目が合う。彼の目は、いつも以上に死んでいる。平日の昼間に、とつぜん私服で現れたところをみると、たぶん仕事を辞めたのだろう。悩みやすい性格だったし、職場で苦しいことがあったに違いない。言葉は話せない。でも、そっと近寄り、なんども行ったり来たりした。変にすりよったりはしない。それが鳩だ。

しばらくわたしを見つめると、ハッとした表情をして、彼はパンをわたしに投げてくれた。いつもとおなじ、ファミリーマートのチョコレートの菓子パンだった。

それからしばらく、彼はそこにいた。ベンチに座っていた時間は、いつもより長かった。そのぶん、ため息の数も多かったが。その日、彼は日が沈むのを待っていた。ここの夕焼けは最高だ。それを見たくて、人生をすこしだけサボって、ここへ戻ってきたと察した。

日が沈むのを見届けて、彼は帰っていった。何か答えは出たのだろうか。いつも通り、悩んだままだったのかもしれない。

もし、わたしが何か一言だけ人間の言葉を話せたら、彼にこう言っただろう。

「また帰っておいで、わたしはいつでもここにいる」

感傷的になったわけではない。わたしは鳩だ。
鳩の会社員なのだ。



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