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コネヒトとの8年間の旅

いつもお世話になっている皆さんも、初めましての皆さまもこんにちは。
ママリを運営するコネヒト株式会社のおおゆです。

まとめるとですね

本日、会社からもプレスリリースが出ておりますが、2019年6月7日をもちまして創業から7年間、準備期間から数えると8年弱携わってきたコネヒト社の代表取締役をバトンパスし、顧問となりました。
今まで社内外から支えてくれた皆さまに、改めて感謝を申し上げます。本当に有難うございました!

またもう一つ大きな変化として、今までコネヒト社はKDDIの孫会社だったのですが、3月29日付でKDDIの直接子会社となりました。
これ自体は弊社がKDDI本体とより連携を深めることを目的にしたもので、私の進退には直接関係はしてないのですが、まさか3年間で二度もM&Aをするとは思っていなかったので貴重な経験になりました(!)

冒頭だけ形式的に書きましたが、まとめると、コネヒトがまた一歩大きなチャレンジを迎えることになります。本日はそれについて僕の思いをまとめたいな、と思い筆を執りました。

先日アートを嗜む友人と話していて「8年かけて育ててきた“作品”に、最後に名入れをするようなものですね」と言われて急に寂しさと実感が湧きました。
なので、ところどころポエムになったり、エモ散らかすこと不可避なのですが、よかったら8年の集大成お付き合い下さいませ。

〜ここからは、文体を変えて、いきます〜


まずは 「感謝」 について

正直このセクションは入れるか悩んだんだけど、まずは感謝について書きたい。(迷った理由は支えてくれた人々を網羅できる気がしないから。書ききれなかった人には個別に感謝を伝えさせてください!!)

僕の少年時代、両親の次に影響を与えた人が誰かと言われれば、恐らくそれは高校受験時代の恩師Hさんになると思う。
彼は当時高校生のアルバイト塾講師で、鼻水垂れてる中学生の僕らに対し「なんのために勉強するのか?」ということを問うてくる変わった先生だった。そして、彼のそれに対する答えは「感謝だ」と教えてくれた。

曰く、日々不自由なく暮らしながら高い塾代を払ってもらって思いっきり勉学に励めるのも、家族含めた周りの人が支えてくれる上に成り立っているよね。その人々への感謝を示すために頑張るんだ、ということが趣旨だったと記憶している。

今思えば、17, 18歳で「人のために努力をする」ことを説けるなんてのは、彼は相当人間のできた先生だったわけだが、多感な青春時代にこの人からがんがん影響を受けたお陰なのか、今に真っ先に思い浮かぶ言葉は「感謝」という二文字だったりする。

お見苦しくて申し訳ないのですが、塾の合宿にてその先生から頂いたメッセージ。その塾では夏冬に合宿があり、その時はみんなが異次元エモ空間となる。
この言葉に少しでも近づけただろうか。

そもそも冷静に立ち返ると、僕は目立ちたいという気持ちが強い方ではなかったりする。
できることなら土日は誰とも会わずに、部屋に籠って本を読んでいたいし、アニメとゲームを消費して生きていけたら一定の幸福度を保てるダメそうな人間だ。

では、何故こんな大仰なタイトルで文章を書き始めたのかというと、素直に感謝を表現したいなという気持ちがそれを上回ったからだと思う。

8年間、多くの人と関わり、本当に沢山のことを学ばせて頂いた。

多くの刺激をいただいた方々に感謝をしつつ、それらの片鱗をシェアしていくのが、僕が抱えている責任の一片なのではないかと勝手に思ったのだ。

何が自分を起業に導いたのか

振り返れば、そもそも自分は“起業”とは縁遠い人生をおくっていたと思う。

高校は恩師と同じ志木の森の中にある付属高校に入学、エスカレーター式で大学に進学した。仕事に関しては、順当に就職活動を終えて戦略コンサルから内定をもらって満足していた。一定は起業家のいそうな大学だったが、自分の生活圏内にはそれらはあまり生息していなかった。

結果としては、ひょんなきっかけで会社設立に至るわけだが、そこら辺の経緯は過去にしていただいた素敵な取材に譲ろうと思う。

しいて今のキャリアに繋がる要素を挙げるとしたら、物心ついたときからインターネットは心の底から大好きだったというのは鮮烈に覚えている。

10歳前後で初めてWindows95?が、自宅に届いた。色々いじってネット開通、接続時のピーガラガラ音は今でも目覚ましにするくらい思い出深いサウンドだ。
必然的にまずはゲームにハマって、15歳頃には弟が見つけてきたMMO RPGのリネージュにどハマりしていた。中学生ながら毎月1,400円も課金して、夜な夜な狩りに勤しんでいた。

その後、高校入学する頃にはニコニコ動画が全盛期。ニコニコ動画は俺の嫁。好きなタグは「#才能の無駄遣い」。今でも僕のインターネット観を根底を支えているのは、2chとニコニコ動画な気がしている。

加えて、高校はいきすぎる程に自由な校風だったので、授業中にマンガやネットも放任で当然のように授業内容も自由だった。いい歳した中年の大人が子供のように目をキラキラさせながら、好きな内容を楽しそうに授業にしてた。

それをみて子供心ながらに「自由な大人って楽しそうだな」と思っていたのは、もしかしたら起業に踏み切った際の潜在意識にあったかもしれない。

そんな土台があってか、内定後に思い立った一年の交換留学後、CTOの島田と共に「インターネットでサービスを作るぞ!」と意気込んだことがコネヒトにおける旅のはじまりだった。

僕にとっての起業は、本当に行きずりの偶然達の掛け算によって生まれている。

失敗続きだった3年間

だが人生そんなに上手くいくことはなくて、準備期間を含めた最初の3年は、正直にいえば失敗続きだったと思う。

自分では「失敗」という二文字は当時含めあまり考えたことがなかったのだけど、客観的に見れば中々ヘビーな敗残者っぷりだったと思う。
元々取り組んでいたのは「Creatty (クリエッティ)」という、創作活動をする人がアプリひとつで世界中に作品を発信できるというサービスだった。簡単に言えば、クリエイター向けのInstagramみたいなアプリだ。

当時23歳、まだ登記すらしていなかった中、孫泰蔵さんが「日本にYコンビネーターのようなプログラムを持ち込もう」というコンセプトのもとで始まったMOVIDA Japan、そこで出会ったイトケンさんが若い僕らの背中を押してくれた。

なんとかプログラム参加と500万の出資を勝ち取ったものの、半年ほどたった後のDemo Dayではプロダクト開発は間に合わず、Keynoteのスライドだけでプレゼンをした。
当然結果は良いものではなく、「今回はCreattyとnanaがドベ1,2だねw」と懇親会で笑われたのを、今でもはっきりと覚えている。
7年経ってこの2社が未だにしっかりと戦っているのは、中々神様も捨てたもんじゃないなと思うよね。苦笑

当時作っていたCreatty (完成後):Thanks to takayaohta.com

生存者バイアスな部分もあるが、このときに会社を潰していたら今はなかったので、本当に歯を食いしばってよかったと思っている。シンプルに負けるのが嫌いな性格で、自分の会社がドベだということに我慢ならず、悔しさのあまり頑張れたのが良かったんだろう。

ちなみにこの頃は、「同僚になる予定だったコンサルの友達はもっと働いてるはずだ」と、1日に2回くらいは自分に言い聞かせて深夜まで働いていた。笑

このときにサービスを支えてくれたCTOの島田、新取締役になる田村はもちろん、今でこそ道は分かれたが各方面で活躍するタカヤオオタ、緒方、長谷部といった創業期メンバーには密かに今でも頭が上がらない。

思えばこのときから、自分の原動力は「応援してくれる人へ絶対恩返ししたい」というものだった気がする。文字にしてみると高尚っぽい響きだが、その実「負けることへの圧倒的な抵抗感と恥ずかしさ」という方が正しい表現な気もする。とにかく、応援してくれた人を嘘つきにしたくないという思いが強烈だった。

初の自社オフィス。渋谷徒歩5分、水道込で坪7,000円。狂気の直射4面採光。笑

その後会社としてはCreattyからママリへと事業を転換していくわけだが、その途上ではANRIのアンリさん、有安さんという最高に心強い株主に巡り会えた。経営者としての僕の言葉には、彼らから影響を受けたものは本当に少なくない。
その一年後には、B Dash Ventures渡辺さん、そしてPrimal Capital佐々木さんから出資を受けさらに最強の布陣(!)となり、ママリは右肩上がりで成長していった。

詳細はこちらも素敵な取材記事があるので割愛するが、今ではママリは新しくお子さんをもつ方のなんと3人に1人が使ってくれる規模になった。
ママリは、そのミッションに素直にやりがいを感じられる、自分にとって人生最大のプロジェクトだった。

なぜ今、経営をバトンパスするのか

そこまでして育て上げてきたものを、なぜ今バトンパスするのか。この意思決定についてはかなり葛藤しながら考えた結果、このタイミングしかないと思って決めた。

まず大前提の素直な気持ちとして、ママリに続く2つ目, 3つ目の人生を賭けたチャレンジを、新しい分野でやってみたいという想い大きくなってきたのがある。その想いと、一つのことにコミットするのが必然となる環境との乖離が存在し、これが今後大きくなる予感があったのは理由のひとつだ。

同時に僕は、ママリが本当にインフラになり得るサービスだと信じていて、そのためには20年, 30年と進化し続けていくべきだと真顔で思っている。その未来を妄想したとき、30年後に自分が60歳になって社長をはっているのではなく、コンシューマーサービスを司る会社として新しく血が入れ替わる日がくるのかなと考えたことがあった。
そんなことを1年くらい前からおぼろげに考え始め「20年, 30年続くとしたら、どこかで創業者フェーズを脱してバトンを渡さないといけないんだろうな」とも思っていた。

しかしそうは言ってもそのタイミングが難しいわけで、自分なりには以下の3つが揃っている、というのがバトンパスを決める大きなきっかけになった。

(1) 次を任せられる経営チームが揃っている
(2) 業績が右肩上がりで伸びている
(3) 会社の位置づけが代わり役割の変化がある

僕がどこまで上手くできたかはわからないが、会社を経営することはすごく難易度が高く総合格闘技のようなものだと思う。しかも、それを創業者から引き継ぐというのは、めちゃくちゃ気が重いはずだ。

そういった意味で、Next経営チームと事業の状態に光明があることは自分の中では絶対条件だった。加えて求められる会社の役割が変わるタイミングだったこと。これらが奇跡的に揃っているのが今で、この状態は5年に一度とかだろうなという直感があった。その結果、自ずと新しいチャレンジを考えるなら今しかないと思ったのが素直な胸中だったりする。

ちなみに、次の社長は、アフロだ。

その北吉(きたよし)とは、コネヒト社がM&AでKDDIグループ入りする際のDD担当として出会って、そこから3年来の付き合いだったりする。
思えば、「これってママリらしくないんじゃないですか!?」と、初めて社外から僕に対して「ママリらしさ」を問いかけてくれた人物で、その踏み込み具合に嬉しい驚きを感じたのを覚えている。
僕は彼ほどいいアフロに生まれてこの方出会ったことがないので、きっと会社は大丈夫だと思う。

初めて会ったときは「KDDI社員なのにアフロなんだ」と思った。彼との馴れ初めはこちら(今日同時公開!)

僕の関わり方が変わっても、ママリは今後より一層大きなチャレンジをKDDIと共にしていくことになるだろう。創業、拡大とM&A、それを経てこれからのコネヒトは第三章。
採用もバンバン進んでいるし、いま水面下で準備している企画も含めて、まだ見ぬ価値とサービスをたくさん作り出していくと思う。これからも楽しみな気持ちでいっぱいだ!

ママリを生み出せてよかったこと

振り返ってみると、ママリ及びコネヒトという会社は僕にとって人生のエネルギーを注ぎ込んだ最大のプロジェクトとなった。

サービスを開始した当初は、とにかく必死に画面の向こう側にいるユーザーの疑問や不安を解消することだけを考えていた。
毎日、Q&Aの内容を一つ一つ眺めてはマッチングアルゴリズムを考えたり、出産報告の投稿をみてほっこりしたり。自分の生み出したアプリ上で、人が泣いたり笑ったりしているのを見ることは、とにかく幸せなことでプロデューサー冥利に尽きるなと、今でも昨日のことのように思い出せる。

サービスを誰かの手のひらに届けること、生活になくてはならないものをつくり出していくことの楽しさを実感するという意味で、僕はママリを通じて多くのことを学ぶことができた。

コネヒトのコーポレートミッションです。

また、これは後天的に得たものなのだが、事業が成長するにつれて経営者としての目線が上がるなと思うシーンが何度もあった。

ママリが、新しくお子さんをもつ方の5人に1人ほどに登録してもらえるようになったのが2年半ほど前。その頃からはより一層、大きな未来を考える機会が増えた。
それは僕らの運営次第で新しい家族の不安がより減り、それこそ最後には「人口を増やす」ことに寄与できるのではないか、というビジョンが見えはじめたことなどがそうだ。

弊社には女性の従業員も多いのだが、他方で20代前半・家族彼女なし・男性!という属性も一定以上在籍していた(!)
そういった人間がママリの仕事を自分ゴトとしながら頑張れたのは、ひとえに僕らのやっている事業がどの角度から見ても、人の生活を支えるものだったこと。つまり、自分の書いたコードの一行、デプロイした改善の一つが、人口を増やすという大義の一部を担うかもしれない、という物語があったからなのかなと思っている。

起業から一年ちょっとは給与はほぼ無く、月曜から日曜日までみんなで毎日松屋に2回通いながらサービスを作っていた。それはそれで楽しかったけど、事業が大きくなって経営者としての目線が上がるのを感じてから、どんどん会社に来るのが楽しくなった。
それが自分の体の中で芽生えるのを体感できたのは、本当に何にも変えがたい成長への分岐点となった。

現実、組織が大きくなるにつれて毎日のように問題が起こるし、嬉しいこと楽しいことばかりではなかった。しかし、日夜新しい人間が生まれる喜びや悲しみがママリのコミュニティ上で共有されていること、それを支えることに使命感をもつメンバーに囲まれて仕事ができたのは、人生最大の資産になったと思っている。

これらは今後の自分が生きていく中、また今後のチャレンジにおいて何かを考える時にはきっと大きく影響するに違いない。

M&Aの当事者になって学んだこと

8年間もそうだが、M&A後の約3年間はまた違った角度から多くを学ばせていただいた。
KDDIグループという経済圏において、自分たちがどのようなリターンを、どのような時間軸で期待されているのかということは、年を経るごとにこれらを意識する機会が増していったように思う。

数万人を擁する公器たる組織がどのような力学で優先順位を考え、意思決定をし、投資をするのか。上手くいかなかったことや、実際に中に入ってみなければわからないことも一杯あった。これを教えてくれた、森岡さんを始めとするSupershipの経営陣、KDDIの経営陣には今更ながら大きな感謝の念を抱いている。

そして、一瞬でしたが一緒にお仕事をした際にけんすうさんが、実はめちゃくちゃハイスピードで緻密なパワポを作ることに度肝を抜かれたのを、今でもはっきり覚えています。笑

共同創業者、島田について

そして、最後に触れないわけにはいかないのが、共同創業者でCTOの島田について。

コネヒトという僕の人生最大のプロジェクトを支えた相棒で、彼無くしては今日のコネヒトは絶対に存在しなかったと言い切れる。
今まで出会った人間の中で、最も信頼でき、こんなにツッコミが丁寧な人はそうはいない。どこかで揃ってお会いになる機会がある人には、ぜひ披露したい。

社内では、大体いつもイジられてます。

彼はロジカルで建設的なのだが、一方で知られざる野心的な一面も持ち合わせている。加えて機械学習とエンジニアのマネジメントまでやるんだから驚きだ。
彼が存在することにより、僕自身がもっと高い目線で頑張らなくてはいけないと思ったことが、何度あっただろうか。
僕が会社を率いていく原動力の一つに、彼にとっても誇れる人でありたいという思いがあったのは疑いようのない事実である。

島田とはこれからの新しい戦いでも一緒に挑戦していくつもりなので、是非皆さんには二人の次回作を見守っていて欲しい。

これからの進退について

進退については、正直に申し上げて何一つ決まっていない。

ここ半年ほど、暦の休みを利用して海外に足を伸ばす機会を作ってはいたもののコネヒトが生活の中心にあったので、何を見ても「この会社にどう活かせるか」ばかりを考えていた。
それができる対象がある幸せを感じつつ、これからはコネヒト以外のことも考える時間をとりたいと思っている。その途上で出会ったモノや人からの刺激を受け、自ずと次の10年, 20年のテーマが決まるのかなと思う。

より桁の大きな数の人を支えられるような、自分らしいチャレンジをしていきたい。

僕が今立っていられるのは、インターネットの雰囲気と、それを通じて触れ合った人からの刺激があってそこだと思う。
実はコミュ障な僕ができる最大の恩返しは、記憶に残るサービスを作ってハッピーになっている人を増やすことだと思っているので、一息ついたらこれからも変わらずをそれを追求し続ける人生をおくっていきたい。

しばらくは色々な人と、色々な場所で、大好きなインターネットの可能性をもっともっと語り尽くしたいと思っています。
新しい日々の発見はSNSで雑にアプデして参りますので、是非気軽に絡んでくださいね。

8年間、本当に有難うございました!


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