自然とあわい

先日、通ってるゼミで発表された内容が「山岳信仰」
だった。

山伏は、苦行を経て「入我我入」を目指す。
「入我我入」とは、
大日如来が、我に入り、
我が大日如来に入った状態を示すらしい。

日本、もしかしたら東アジア的感性は、
「目に見えるものも自分の一部であり、私も目に見えるものの一部である」
という所に特異性があるのかもしれない。

日本の歌(和歌)なんかは、よく木や山や花々と自分を重ね合わせる。

自然農法、と呼ばれる農法について語っていたら、
ある人から怒られた。

「自然」とは、「自ずから然らしめる」
と書く。草木をそのように「ひとりでにに生まれて、育って死んで行く」というような感性は日本にはなかった。
これは、「nature」という言葉の対訳を探した際に、仏教用語から引っ張って来たものであって、我々の言葉では無い。

だから「自然」という言葉はすっかり定着してしまったが、
その定着は、多分、我々の草木や山や野生動物や海や魚や、、というものを全て含めて「自然」と呼ぶ行為は、それらの事物に対する感性をある方向に集約させてしまうような気がする。

だから「自然栽培」という言葉をあまり使わないようにしようと思う。

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