映画「たまこラブストーリー」を観て(中・映画本編について)

 アニメ「たまこまーけっと」は前半の文章で書いたように、どことなく焦点がボヤけた、そして不吉ですらある印象をまとったまま12話の本編に幕を閉じた。

 「まーけっと」とほぼ同じスタッフ陣によって、「まーけっと」と同じように「日常系」と銘打って制作された「けいおん!」が「音楽」という、いかにも「青春」とか「学生時代」に親和的な要素をストーリーに掛け合わせていたのに対し、本作のストーリーに掛け合わされたのは「人間の言葉を話す鳥」と「南国の王族」という、主人公が過ごす日常とは正反対の要素であった。

 そして視聴者に「何がしたいのかようわからん」といった違和感や、不吉ささえ覚えさせる根源的な要因は、ストーリーに挿入された不自然な要素そのものではない。それらに対する主人公・たまこの異常なまでのブレなさ、そのブレなさの根底にたまこの母・ひなこの死が影を落としていることである。

 そして、2014年に映画「たまこラブストーリー」が公開される。あらすじは以下の通りである。(Amazonより引用)

 春。高校3年生に進級しても北白川たまこの頭の中は相変わらずおもちのことばかり。春の夕暮れ、学校の帰り道。たまこやみどりたち仲良し4人組は進路の話をしていた。みんな不安を抱えながらも将来のことをちゃんと考えている様子。たまこも、何気なく将来は家業を継ぐと答える。同じ頃、たまことお向かいの家でずっと一緒に過ごしてきたもち蔵も、ある決心をしていた。周りの色んなことが変わっていって、少しずつ、少しずつ、たまこの心は揺れ始める...

  公式のあらすじで「相変わらず」おもちのことばかり、と言及されているとおり、映画前半における主人公・たまこは(部活のバトン部のことも少しは考えているが)相変わらずお餅と商店街のことしか頭にない。

 ところが、向かいの家に住む生まれた時からの幼馴染・もち蔵の行動によって、たまこの「日常」に対する認識は一気に転換を迎えることとなる。

①鴨川デルタでの告白

 いきなりネタバレになるが、割と序盤でもち蔵はたまこに対して自分の想いを伝える。で、京アニがそのシーンの舞台に選んだのは鴨川デルタ。

スクリーンショット (61)

 ここで鴨川デルタを選ぶ辺り、直球しか投げられんのかこのアニメ会社は、と思いたくなるものの、そこはさすがの京アニ、このシーンをただの直球では終わらせない演出を仕掛けている。

 もち蔵がたまこに話を始めると、たまこは相変わらず商店街とお餅の話を始める。そしてお餅に対する自分の想いを語り始める。

 たまこがお餅に対する想い(温かい・柔らかい・白い・いい匂いがする)を語り始めるのと同時に、たまこの母・ひなこの回想シーンが始まる。

 この演出は、どんなトボけた観客に対しても、たまこにとって「お餅=亡き母」であることを明確に理解させるものである。もち蔵もそのことを理解しているような表情を浮かべる。そして後に続く言葉からたまこが亡き母・ひなこについて「手が届かない、自分が到底及ばない存在」として受容していることが読み取れる。

 そして川から石を拾い、もち蔵に対して「大福みたい」だと見せた直後、バランスを崩し、飛び石から川に転落しかける。

 川に転落しかけるたまこの腕を掴むもち蔵、そして石(=お餅)を川に落とすたまこ。それを見たもち蔵は何かを決心したように自分の想いを告げる。

 もち蔵の想いを聞いたたまこは、自分が言われた言葉を理解できずパニックになり、結局鴨川へと転落する。

 以上が本シーンの大体の顛末である。上に述べたように、本シーンは映画の割と序盤に来ており、そして言うまでもなくこのシーンをきっかけにストーリーもたまこの内面も様々な意味で転回していくこととなる。

 鴨川デルタが本シーンの舞台として選ばれた理由としては、単にここがこの街で一番のリア充スポットであることに限らず、「転回」のきっかけをもたらす演出を色々やりやすいからであろう。

 鴨川というロケーションでなければ、石(=お餅)を落とすということもできない。そして鴨川は大昔からいつも変わらずそこにあり、人々が心を休められる場であるかのようでいて、実際その水は絶えず流れ続けている。そこに主人公・たまこを転落させることで、否が応でもそのことを主人公と観客に実感させ、ある種の「禊」を強要する。

 このシーンをきっかけに、明らかにたまこの中では「お餅=亡き母」から「お餅=もち蔵」へと認識の転回が起きている。そしてそのことによって、母・ひなこの死に対する受容のあり方も少しずつ変化していくこととなる。

②みどりちゃん

スクリーンショット (60)

 本作でもち蔵と並んでもう一人のキーパーソンとなるのが、たまこの小学生からの幼馴染・みどりである。たまこが所属するバトン部の部長を務め、幼少期にはもち蔵とともにひなこの葬儀にも参列している。たまこにとって「お餅=亡き母」であることを知るもう一人の人物である。

 で、本作では終始浮かない表情をしており、アップのシーンの背景もどこか暗いものが続く。

 彼女が何を考えているのか想像してみるかそうでないかで本作の楽しみは何倍も違ってくるのだが、劇中の彼女は①たまこへの思慕②たまこへの思慕が屈折してもち蔵に投影されたもの③もち蔵への思慕④もち蔵への思慕が屈折してたまこに投影されたもの⑤たまこやかんなや史織、そしてもち蔵といった同級生仲間の中で実は自分が一番将来のビジョンが明確でないことへの焦燥感、という少なくとも5つの感情によって駆動されているようである。(そら自己嫌悪にもなるわ)

 片思いを続けるもち蔵に対し、「大路(=もち蔵)って、めーーーーーーーーっちゃ見てるよね、たまこのこと」という言葉を投げるが、そんなみどりもたまこのことをめーーーーーーーーっちゃ見てるもち蔵のことをめーーーーーーーーっちゃ見ている。

 その直後のカットで、もち蔵に対して今日その日にたまこへの想いを告白するよう半ば強要する。しかしながら、いざ本当にもち蔵がたまこに想いを伝え、たまこがそれをきっかけに少しずつ変化していくようになってからは、終始浮かない表情でただ傍観するだけになる。

 かなり話を端折るが(これは本編をぜひ見てほしい、というか今更だけどこの文章は本編をぜひ見てほしいという気持ちで書いている)、物語の終盤でかんなや史織と共にたまこの家に集まった際、かなり悪趣味なイタズラをたまこに仕掛ける。このタイミングでそれは人としてどーなの、というレベルのイタズラである。そしてそれはたまこがもち蔵の告白を受け入れ、それに応えることをほぼ心に誓ったことに対する、最後の悪あがきのように見える。

 ラストシーン直前、たまこがもち蔵の告白に応える後押しをするため、みどりはある嘘をつくことになる。その一部始終を目撃した友人・かんなからは「いいカオをしている」と言葉をかけられ、かんなとともに吹っ切れた笑顔で誰もいない校庭へと走り出し、木に登るカットで彼女の出番は終わる。

 ここまでみどりのことを書いてきたけど、なんというか全体的に(大変失礼ながら)「なんか...ぼくみたいだ...」と思ってしまうキャラである。

 ここでたまこ・かんな・史織・もち蔵・みどりの将来について考えてみる。たまこは実家の餅屋を継ぐ。もち蔵は東京の大学に進むものも、なんやかんやあって商店街に戻り、二人は多分、結婚する。かんなは建築学科へ、史織は英文学科へ、それぞれ強く希望する進路へと進む。

 それに対してみどりはというと、たまこたち友人仲間と進路についての話になった際、「とりあえず進学、とりあえず地元、とりあえず実家のおもちゃ屋は継がない」と、かなりフワッとしている。ラストシーンこそ吹っ切れた表情をするものの、結局はなんとなくで選んだ進路に進み、そんな自分を遅かれ早かれ少しずつ受け入れていかねばならない...ような将来が待っている予感がする。

 おそらく世の中の多くの人は、たまこともち蔵のように、半ば運命の人のように結ばれるわけではないし、かんなや史織のように実際の行動を伴う形で強い意志をもって進路を選んではいない。

 みどりに共感する勤め人や大学生はかなり多いのではないかと思う。「なんとなく」で選んだ道の上を歩いていて、そんな自分を少しずつ受け入れる努力をしていて、それでも「あの頃」に何か大切なものをたくさん置き忘れた感触に時折苦しめられる...

 そう考えると、彼女は本作のもう一人の主人公ともいえる。たまこやもち蔵が青春の「陽」であることに対して、みどりは青春の「陰」として明らかに対比されて描かれている。

 あらすじだけ見ると平板なラブストーリー(実際この辺りに注意して観ないと平板にも程があるストーリーである)を、単にそれだけでは終わらせない京アニらしさ。それが一番色濃く出ているキャラクターではないかと感じた。



(映画一本の感想ぐらい一日で書けるだろうと思ったら、なんと書ききれなかった、続きはまた来週以降)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?