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昔の写真⑤2008年:京都2泊5日旅行など

昔の鉄道関連写真の整理シリーズ、その⑤です。

まめぐい(東京駅限定)

時期:2008年2月
この頃に東京駅グランスタのまめぐいで売っていた東京駅限定らしいシリーズの中から3枚買いました。今はもう廃版かなあ。車両のデザインはかなり単純化されてますが、カラーリングからすると、山手線、横須賀線、東海道線でしょうか。たしか他の色(京葉線とか)もあった気がします。大きさ、材質的にアイロンのあて布にするのに結構使えますw

一日太郎

時期:2008年4月・8月
東京メトロの一日乗車券に起用されていたキャラクター。よく見ると、小さい文字で「一日太郎」と名前が記されていました。この時期だけでフェードアウトしてしまったキャラクターのようです。

京都2泊5日旅行

時期:2008年8月
2泊3日ではないということは、すなわちムーンライトながらを利用しての旅行でした。この時は、当初は京都に着いたらまず奈良線に乗り行く計画だったのですが、京都に到達する前にとんでもないアクシデントがありました。

あと、この旅行に限っては、当時書いていたブログ(現在はクローズ済)に結構ちゃんとした記録をとっていて、そのログがあるので以下手を加えての再掲?です。

1-2日目:武蔵小杉~京都(所要時間:18時間)

京都に旅行に行ってきた。
木曜に夜行で出発して、金曜は奈良を観光、土・日は京都を回って、再び夜行で月曜の朝に東京に到着するというプラン。

22時すぎに武蔵小杉駅を出発。小田原駅まで小田急小田原線で向った。青春18きっぷでムーンライトながらを使用するので、ながらが日付が変わって最初に停車する小田原駅で乗車するという寸法。駅売店でパンと水を購入してからJR改札へ行くと、既に日付変更待ちの人たちが数十人ほど改札前に集まっていた。

小田原駅 0:16

日付が変わってホームに出ると、外はだんだんと土砂降りになって来ていた。不安。
ながらに乗車。うとうとしながら窓の外を見ていると、北西方面がかなりの頻度で雷によって白く光り、空には絵に描いたような稲妻が走っていた。
そして、午前3時半をすぎた頃。車内放送により、大雨により豊橋駅にて運行が打ち切られるとアナウンスされた。6時発の列車に乗換えろということなので、それまでは車両内にて待機。豊橋駅周辺はほとんど雨が降っていないが、名古屋方面がどうやらヤバい模様であった。5時半頃に駅のトイレに行こうとホームに出ると、朝日に白ばんだ空に大きな虹がかかっていた。ホームは大撮影会状態であった。

豊橋駅 5:38

6時発の列車に乗り込んで無事に席を確保。しかし、6時をすぎても一向に発車しない。やはり、この先で不通区間があるらしく新幹線への乗り換えを促すアナウンスが何度も繰り返された。しかし、お金を使いたくないので、とにかく待つことにした。結局、この6時発は運行中止。次の岐阜行き普通列車をひたすら待って、やっと豊橋を出たのが8時半。4時間半も足止めを食らってしまった。しかし、悪夢はここからであった。豊橋の次の西小坂井駅で再び停車信号によりストップ。通勤・観光客でいっぱいの車両に立ち続けること30分。この先の運行がほぼ見合わせ状態であるとアナウンスされた。うなだれる車内一同。ホームに出た乗客たちは、一様に携帯で勤め先などに状況報告の電話をかけていた。

西小坂井駅 9:03

さらに30分が経ち、次の愛知御津駅まで何とか進んだが、ここでも長時間の停車が余儀なくされた。ここまで来ると、ある程度の割合の乗客は豊橋まで上り列車で戻るのを選択したようであった。10時35分には、2つ先の三河三谷駅まで進行。放送によると、岡崎駅と西岡崎駅間で線路が水没しており、復旧にはかなりの時間を要するうえ、現在乗車中の列車も岡崎駅で運行を止めると言う。もうこの時点で奈良に行ってゆっくり観光したいという気分は完全に消失。ことの流れに身を任せることにした。ボーッとしているうちに、列車は蒲郡駅に停車していた。そして11時半頃になると、全線復旧の知らせが放送された。12時過ぎには、問題の岡崎駅に到着。点検のために数分間停車したが、間もなく「お待たせいたしましたっ!」という、晴れ晴れとした乗務員のアナウンスと共に運行が再開された。岡崎から名古屋にかけては、小さな川や水路が氾濫しているのが散見された。

その先は順調に進んで、ムーンライトながらの終着駅である大垣駅に着いたのは14時。予定では6時52分に着いているはずであった。米原で乗換えて、京都駅に着いたのはなんと16時。昨晩に地元の駅を出発してから、実に18時間が経過していた。

京都駅 16:21

さて、予定より7時間遅れで京都に着いたので、この日のプランはガタ崩れの白紙状態。しかも、豊橋駅で菓子パン1個食べたのを最後にお茶以外何も口にしておらず、空腹も眠気もピークを過ぎて無感覚ゾーンに突入していた。とりあえず駅前の郵便局で現金を下ろして、駅から歩いて行ける東本願寺に向った。

駅周辺は現代的な建物が立ち並んでいるが、そこから5分も歩くとこの風景というのが京都という街である。東本願寺は現在、2011年の親鸞聖人750回忌(!)に向けて御影堂が大修復工事中につき、建物全体が保護されていた。その大きさは、巨大体育館もしくはパビリオンという感じであった。

続いて、西本願寺へ。こちらも東とセットで修復工事が進んでいた。

京都駅に戻り、構内のオープンカフェでやっと休憩。改札前の雑踏を見下ろして、しばし放心。この京都駅の設計・デザインは賛否両論があるそうだが、私はかなり賛に近い。ことさら古都をアピールするでもなく、開放感のある空間とグレートーンに落ちついた色調がニュートラルな感じで良いと思う。

この後はカフェのミスドでポン・デ・リングと、伊勢丹の地下で夕飯を買ってさっさとホテルに直行。19時をすぎていた。お風呂に入ってから、お待ち兼ねのディナー。この日は六盛の、はも弁当(いつもの夕飯の4倍ほどのお値段)。メインの、はも飯と煮物が特にうまうまであった。

それにしても、この日は本来なら奈良公園を観光の予定であったのであった・・・。正直言ってしまうと、自分は 「はんなり」なテイストよりも、仏教の伝播や発展に努めた時代の狂気に近い本気が感じられる唐風の文化に惹かれるところがあるので、東大寺や奈良国立博物館が見れなかったのは残念だった。奈良は奈良でまたの機会だな・・・。あ、ほら 「斑鳩を旅するのなら 春よりも 秋がいい」ってあの人も歌ってるし(って、今は夏だけども)。

3日目:平安神宮/南禅寺/水路閣/蹴上インクライン/永観堂/東山慈照寺

旅行3日目。8時前に起床してドーナツの残りを食べつつ、出発の準備をする。10時に京都駅に到着。この日は東山方面を観光予定であったが、天気はあいにくの雨。先ずは、観光客で満席のバスにて平安神宮へ。中学校の修学旅行で行くはずだったものの、時間の関係で鳥居しか見れなかった場所である。この度めでたく、敷地内へ入ることが出来た。感想としては、とにかく広い。

そこから歩いて南禅寺へ向う。ここまで来ると、京都も端。山際の静かな土地であった。とりあえず、三門の上に行ってみることにした。超急傾斜の階段を上がると、噂通りの良い景色。裏側にまわって山方向を見ながら腰を下ろし、しばしの休憩をとった。

次は、寺の境内にある琵琶湖疏水の水路閣。レンガ造りの大きな橋の上を、琵琶湖からの水が流れている。近代建築好みの当方には、たまらない物件なので途端にテンションが上昇。写真を撮りまくってしまった。この付近は紅葉の名所として知られているそうだが、季節的にはそれはまだまだ。紅葉が青々と茂っていた。

水路閣のさらに奥に進むと、最勝院という小さなお寺があった。ここまで来ると、さすがに観光客の姿は見当たらなかった。

南禅寺境内を出て、道路沿いにあった近辺地図を見ると 「ねじりまんぽ」 という見慣れない文字を目撃。その方向に足を進めてみると、まず道の端に大きなレールと台車のようなものを発見した。

近くにあった説明の板書きを熟読。これは、以前に琵琶湖から船を運ぶために用いられていたインクラインとのこと。水はともかく、船まで琵琶湖から直に持ってこようという明治のアイディアにはびっくり。
道路の反対側には、先ほどの水路閣のようなレンガの建物が見えたのだが、これは水力発電所。疎水の水力を用いて、ここで発電がされていたらしい。インクラインの軌道は、飛び石が敷かれて歩道として整備されていた。

そして道を蹴上駅方面に進むと、ありましたありました。ねじりまんぽ。

インクライン下にあるトンネルのことであったのね。たしかに、よく見てみると中のレンガがねじった状態で組まれている。

で、「まんぽ」って・・・?後で調べてみたところ、これも疎水整備の際に作られたもので、「まんぽ」はこの土地でトンネルを意味する言葉だそう。ともかく、トンネルに行き着いた際にはまたもやツボな近代建築に出会って心が躍った。

ねじりまんぽをくぐって、真っ直ぐ進むと再び南禅寺へ向う道へ出てしまった。そろそろお腹も空いてきたので、近くの山縣有朋の別荘・無鄰庵の手前の「杉の子」に入店。よくある個人経営の小さな食堂で、軽めにざるそばを頂いた。

食後は、大きなお屋敷が静かに立ち並ぶ区域を歩いて永観堂へ。門をくぐってまず左側にあったのが「浴室」。中には木製の蒸し風呂、その反対側の壁には桶が積み重ねてあった。順路に従い、靴を脱いで建物へ上がる。ここからが凄かった。この永観堂は、小さな建物が廊下で繋がっていているのだが、この廊下・建物内・庭園の景色がそれぞれに、またその組み合わせが素晴らしいのだ。特に唸ったのが、山の斜面に建つ多宝塔へと向う階段と廊下である臥龍廊。写真ではわかりにくいが、カーブ状の木製の階段だ。階段の下には風流にも水琴窟が設置されていた。

この階段を上がると、山の岩肌に沿って廊下が続き、塔の上り口へと出る。急な石段を登って、多宝塔へ到着。ここは、市内を見下ろす絶好のビューポイントだった。塔の横の東屋で一息。

再び臥龍廊を通って、阿弥陀堂へ進む。ここでは、堂内の彩色の修復作業が行われていた。修復前と済んだ箇所を、見比べるとあまりの違いに驚愕。山の麓の慎ましやかに見える寺院の内部に、こうも鮮やかで華々しい装飾が施されていたのかと目を丸くした。さて、この阿弥陀堂にまつられているのが、ご本尊の「みかえり阿弥陀」。簡単に言うと、背中越しに横顔をこちらに向けている像である。見るだけでも不思議な阿弥陀さまだが、謂れを読んでさらにミステリー度アップ。このお堂は阿弥陀像の後ろを通って、お顔を正面から拝める建物のつくりになっていた(またこの建物奥の装飾画が豪華)。長い長い順路を戻って、外へ。今度は庭から阿弥陀堂前へ行くと、敷地の奥に人口の渓流を発見。観光客でもなかなか足を踏み入れ無さそうな場所だったが、ここにも像やら石碑やらが配置されていた。ちなみに、このすぐ隣はお寺の幼稚園だった。
広い池の前を通って、やっと境内を出た。実は、この旅行に先立って下調べをするまで全く永観堂を知らなかったのだが、景観といい歴史性といい圧倒的にこの日のハイライト。拝観料(600円)の元を取ったと実感することが出来るお寺であった。オススメ。それにしても、大修復工事をしているわ、車椅子リフトや綺麗なトイレとか新しい設備をガンガン投入しているわだったんで、相当儲かってるんだろうなあ、ここ。

永観堂を後にして、「南禅寺永観堂道」停留所に着くと雨が一気に強くなり、ひえーと悲鳴。通り雨だったようで、バスに乗るときには弱まった。白川通を北に直進して、「銀閣寺道」で下車。長い参道を通って、銀閣寺へと向った。高名なお寺とあって、南禅寺・永観堂よりずっと観光客の数(特に外国人)が多い。拝観料(500円)を払い中に入ると、なんとここも修復工事中。建物全体が足場で覆われていた。

ここまでの行程で、さすがに歩き疲れていたので山斜面にある展望台には向かわずに、ざっと売店を見てから寺を後にした。銀閣寺のすぐ前の道を横に見ると、奥に何やら鳥居が見えたので行ってみると八神社という神社であった。神社の建物本体は石段を上がった山の斜面にあるようだったが、天気が悪かったこともあり石段から先は薄暗くてやや進みにくい雰囲気が醸し出されていた。すると、どこからともなく一匹の猫が。撮影しようと、携帯カメラを構えていると両脚の間を通り抜けて行った。

とりあえず石段を上がり、お賽銭を投げてお参り。再び、来た道を戻った。
銀閣寺から南禅寺方面へと琵琶湖疏水分流に沿って敷かれているのが哲学の道。小さなカフェやらショップが点在するこの長い散歩道を、ひたすら南に進んで到着したのが、よーじやカフェ 銀閣寺店。あの、あぶらとり紙でおなじみのよーじやが展開しているカフェ。しかし、まず建物がとてもカフェとは思えないお屋敷さ。おそらく、以前からここにある古い日本家屋をカフェにしたものだと思われる。門をくぐって横の建物がカフェで、庭園を抜けたところにはよーじやの店舗があった。
カフェに入ると、ラストオーダー10分前ということもあり、お客さんは他に二組。広いお座敷に通されて、窓越しに庭園を見ながらメニューを選ぶ。なんなんですか、このカフェ感のないカフェは。ちなみに、おしぼりはよーじや商品の 「おしぼりこっとん」だった。ついでに、あぶらとり紙のサンプルも付いてきた。商売だねえ商売。

今回オーダーしたのは、京あいす其之壱。抹茶白玉・小豆・黒蜜と何だかサクサクしたやつが、濃い目のバニラアイス乗っかったもの。つぶあん・黒蜜好きの当方にはかなりドツボなお味で、 「美味い美味い」を連発しながらぺロリと平らげた。会計は、座布団に座ったまま。580円也。

白川通に出て、市バスの錦林車庫前の停留所からバスに乗車。四条へと向った。

四条大橋からは、まだまだ納涼床の風景を見ることが出来た。
橋を渡ったところには、歌舞伎のルーツになったとされる阿国さんの像が。向かいの地下道入口の電灯のお陰で夜でも、専用ライト要らず。

四条周辺で土産屋めぐり、夕食などを終えてバスで烏丸五条のホテルへ。部屋に着いたのが21時過ぎだった。

4日目:大覚寺/嵐山/嵐電/映画産業の旧跡めぐり

8時過ぎに起床。窓の外を見ると、前日とは打って変わっての晴天。9時前にはホテルを出て、地下鉄烏丸線五条駅で、市バス・地下鉄・京都バスに乗り放題の京都観光一日乗車券(1200円)を購入。それから、先ずは腹ごしらえということで近くのやよい軒にて定食をしっかりと頂いた。

地下鉄五条駅から、となりの四条駅へ移動。地下鉄の駅構内には、シルクハットを深く被って怪しい笑顔を浮かべた人間型の案内板がそこかしこに見かけられた。

四条駅から地上に出て、バス乗り場へ。市内の風景を車窓から眺め続けること約40分。大覚寺へ到着した。時代劇ロケのメッカということもあるのか、一歩敷地に足を踏み入れるなり、とてつもない既視感に襲われた。嵯峨野の山際という立地柄、近くに大きな建物が見えないので抜群のタイムスリップ感があった。

大覚寺は皇室所縁のお寺だけに、建物の設計や配置が御所っぽいのが特徴。前日に回ったお寺とは全く違った味わいがあった。

一通り建物を見たところで、外に出て大沢池へ。どこからか、お経を読む声がすると思ったところ、やはり居た。池の端に、お坊さんが5人。

池では、まだまだ蓮がたくさん花を咲かせていた。池を一回りでもしたいところだったが、何しろの日光の強さ。既に体力の消耗が激しかったこともあり、心経宝塔を見ながら腰を下ろして一休みした。
バス停に戻って、お次は嵐山方面へ。天竜寺前で下車した。

和な嵐山駅

日曜日ということもあってか、この界隈は今回の旅のなかで最も観光客の賑わいが激しかった。とりあえず嵐電嵐山駅内のお店を見て回ってから、嵯峨野といえばの竹林を目指した。
正確な位置は確認せずに向ったものの、駅から5分ほど歩くと人の出入りが多い小道を見つけたので、そこを進んでみると案の定その先には竹林が待ち構えていた。人力車の往来が多くて、ゆっくり出来ないのは仕方がないとして、竹のトンネル内は日光が遮られてとても涼しく居心地が良かった。たくさん写真を撮ってはみたが、携帯カメラの能力にも限界があり満足の行くものが撮れなかった。

竹林の順路の途中には、山陰本線の踏切りがあった。若干テンションが上がった。

シャッターが遅いので見事に車両が歪んだ

竹林の後は、道を戻って桂川に架かる渡月橋へ。木造とコンクリートの配分が上手い名所であった。

そろそろ昼食を頂きたくなってきたので、お店を選んでいたところ、京都嵐山美空ひばり座が気になったので近寄ってみた。

入口近くに行くと、なにやら食べる施設があるようだったのでランチはここに即決。カフェレストラン的なスペースには、外の混雑振りからすると客の数はちらほらというところ。壁面には、歌手生活35周年記念リサイタル@武道館の映像が上映されていた。メニューには、ひばり御膳とか加藤家の弁当等、ひばり絡みのものがあったので、そこからミートスパゲッティを頼んでみた。スパゲッティ自体は、どこぞの街の喫茶店といった感じの味であったが、添えられたキャベツの千切りを交ぜて食べるのが、お嬢流とのこと。

見た目以上に麺の量が多くガッツリしていたが、キャベツと一緒だと口当たりはあっさりだった。ふーん、なるほど。お客さんの中には、ひばりTシャツを身につけた常連と思しき高齢の単独客が数名見かけられた。熱いもんだねーなどと思ったが、自分の好きなスタアの施設が近くにあったら、通い詰めちゃうよなあそりゃ。
食後は、入場料なしで見れる売店へ行ってみた。驚愕の品揃えであった。音楽・映像ソフトや本・ブロマイドは当然として、ひばりオリジナルグッズの多さはテーマパークレベル。お菓子や文具から、バスローブなんてのもあった。オッ!と思ったのが、何百曲とあるシングルのA・B面曲から自分の好きな曲を選んでCD化出来るコーナー。正直、ひばりの歌にはそんなに愛着はないのだが、CDを入れる紙ジャケが可愛かったので記念に作ってみることにした。今回チョイスしたのは、"ひばりのマドロスさん"一曲ポッキリ。

ケースは水色・黄色・橙色の3種から選べた

さらに、売店の一角には公演の台本やポスターを展示したギャラリーがあった。もしや・・・と思い探してみたところ、やはり発見。82年の梅田コマ劇場公演のポスターに、「天知茂特別参加」の文字。そして、まんま明智先生ですか的な微笑みの天知さんのお写真。なんというか、「会いましたね・・・」という気分だった。予想以上に満喫してしまった美空ひばり座を後にして、嵐電嵐山駅へ向った。

年季の入った車両に乗りこんで発車を待っていると、発車時刻直前に運転手さん登場。彼が運転席に着くと間もなく発車した。いや、慣れたもんだねェ。嵐電の嵐山駅を出発。この時点で14時は過ぎていたような。
まずは帷子ノ辻駅(かたびらのつじえき・・・とても読めない)で下車。

駅のすぐ前の道を入っていくと、静かな住宅地のなかに松竹京都撮影所があった。

ここも建替工事中とあって、敷地内には大きな建築中の建物(おそらくスタジオ)が見えた。撮影所敷地は高い塀と有刺鉄線で囲まれていたが、上の方にちょこっとだけ時代劇のセットや資材置き場が頭を覗かせていた。
この近くにあるのが、先ほど駅に看板があった大映通り商店街。以前この太秦の地に存在した大映撮影所の名残とでも言うべき通りであるが、先ほどまでの嵐山とは一転して観光客らしき姿はなく、地元住民が行き交う生活感たっぷりの界隈だった。

カメラ型のオブジェ
路面にはフィルムのパーフォレーション模様

大映撮影所があった場所には現在は太秦中学校がある。学校の入口近くには、撮影所の記念碑とかつて撮影所にあったグランプリ広場が復元されていた。このグランプリ広場の記念碑は、黒澤明の 『羅生門』 がアカデミー賞、ヴェネツィア国際映画祭で受賞したのを記念してつくられたものだそう。

中学校の前の通りから、大映通り商店街に入る角に小さな神社があった。境内にあった碑を見ると、「牧野省三先生顕彰之碑」の文字。こんなところにも、映画ネタを発見!と近くで見てみた。狭い境内の敷地ながら、碑の後ろに入り込むと裏面にはしっかりと説明の文言が。その下には、マキノファミリーをはじめとして錚々たるメンバーの関係者各位の名前がズラリ。

後で調べてみると、この神社はここ近辺での撮影所建設に際して設けられたお稲荷さんで、三吉稲荷神社というらしい。玉垣には当時の映画スターの名が記されていたとは気付かなかった・・・また行かなきゃな。境内には、石碑の向かいにベンチがあったので腰を下ろして一休み。ちなみに、この時の天気は超がつく真夏モード。
商店街を出ると、広隆寺前に出た。すぐ右には、嵐電の太秦広隆寺駅。一駅分歩いたことになる。広隆寺の横の道をまっ直ぐ歩いていくと、おなじみ東映太秦映画村に到着。すでに閉園していたため、人影はまばらだった。

映画村前の停留所からバスに乗車して、市内の超有名な某お寺へ。この近くにあるのが、石井輝男監督の映画 『異常性愛記録 ハレンチ』(1969年・東映) で撮影に使用された衣笠マンション。何故この物件をわざわざ訪れたかというと、ここは映画のクライマックスの舞台であり、何より劇中で吉田輝雄が住んでいる設定のマンションだからである。

少なくとも築40年は経っているはずだが、現役バリバリ。初めて映画を観たときにもオヤ?と思った、すりガラスの玄関ドアも健在だった。

ちなみに、テリーが住んでいた(設定の)2階奥の部屋は、しっかり入居中。住んでる人、うらやまー。というか、住んでる人は40年前にここでナイフバトル&落雷の惨劇があったことをご存知なのだろか。マンションは、通りから横に入った小さい道に面していたが、意外にもこの道は車の行き来が激しくて危険だったので早めに撮影を切り上げた。
近くの停留所からバスに乗って、立命館大学前で下車。大学の敷地を通って辿り着いたのは、足利尊氏の菩提寺である等持院。ここの敷地内には、先ほどの太秦の顕彰碑に続いてマキノ省三の像がある。この等持院の境内には、その昔マキノ先生が建設した撮影所があったのである。

マキノ省三先生像

17時をすぎて、日も暮れてきたのでとりあえずこれにて観光終了。もと来た道を戻って、バスで四条方面へと向った。この後は、街をうろうろしてから京都駅でおみやげを物色。ベタに、漬物(かぼちゃと瓜)と生八橋を購入した。
21時前に改札に入って長い帰路についた。ちなみに書いておくと、京都→米原→大垣→(ムーンライトながら)→東京という経路。ムーンライトながらでは、となりのおっさんが軽い体臭持ちの上に缶ビールを3本飲むというしんどい状況であったが、顔を窓に向ければしのげる程度だったのでなんとかなった。京都を出てiPodを聴きながらウトウトすること約8時間で東京駅に到着。一日目こそ、鉄道ダイヤの乱れで計画倒れになってしまったが、定番スポットからレアスポットまで、非常に充実した行程であった。実は、中学校の時の修学旅行で奈良・京都を訪れた際は、旅行中に風邪をひいた上に、班員に恵まれずにトラウマに近い旅行となってしまっていたのだが、それすらも払拭するような良い旅になった。

☆旅の反省(ほぼ持ち物に対して)
・持ち物を出来る限り軽減化し、リュック一つにしたのは楽だった。リュックだと物の出し入れが面倒なので、財布・携帯・地図を入れた小さなペラいポシェットを斜め掛けしたのも大正解。
・なのに、財布はいつも通りポイントカードなど入れっ放しだったのは不正解(ヨドバシや国会図書館のカードなんかいらんだろう)。
・携帯した地図は、東京版を愛用している昭文社の「文庫判 京都都市図」。観光情報はないが、小ささと見易さではやはりこれが最強。
・荷物になっても、全国時刻表は持ってた方が良かった(特に1日目)。
・たくさん歩くなら、靴がオールスターじゃダメ(31日は舗装道路ばかり歩いたので夕方には足の裏が痛くなっていた)。

いま読み返してみると、いかに体験の記録が重要かを痛感します。あまりに忘れていることばかりで、むしろ自分のテキストなのに参考になるなとか思う記述もあり。今後の記録の励みになりました。
次回はシリーズ最終回。2009年から一気に2021年です。

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