見出し画像

長編小説『2045/65』(冒頭部分)

(この文章は9781字あります)


1 お洒落な出会い

 零は約束の時間より五分早くその店に着いた。

 悪くない雰囲気のカフェだ。店内には裕福そうなアジア系の外国人の客がちらほら見える。メニューに目を通したら、軽食やケーキ類にも個性があった。最寄りの駅で待ち合わせというのは平凡だし、人込みの中で相手を探すのも無粋な感じがする。ここで会おうと言い出した彼は自分のセンスに自信があるのだろう。

 世の中では相変わらず性やジェンダーの多様性が論じられているが、そんなことは関係ない。わたしは古臭い普通の女で結構だ。頼りがいがあり、美的センスもあってハンサム、収入も高い男と結婚したい。子供を二人以上望む人限定の政府系マッチングアプリを利用しているくらいだから、零がそんな希望をもっているのも当然だった。

 今回は成功しそうな気がした。獅子島数人は、都内の有名大学の卒業生、絶対に倒産しそうにない大手IT関連企業の正社員だ。そして零自身は一応有名なお嬢様大学の卒業生で大手商社の正社員。彼女はその仕事で国民としての義務は十分果たしてきたので――少なくとも〈みらい〉のAIはそう判断していた――、成婚後に退職しても専業主婦手当を受給できるはずだ。

 腕時計を見ると六時五九分。店の前で立っているのも変な気がしたので店に入って待つことにしたのだが、これはこれで居心地が悪い。さっき注文を取りに来たウェイターが、カウンターの辺りからこちらを伺っている。店内には数人しか客がいないので手持ち無沙汰なのだ。零は落ち着かなくなり、ハンドバッグからコンパクトを取り出してメイクを直しながら、入口の自動ドアのほうを伺った。

 ドアが左右に開き、細身で引き締まった体つきの男が入ってきた。数人だ。時刻を確認した直後らしく、片手に携帯を握りしめている。零は慌ててコンパクトをバッグに戻した。

 数人は零に気づき、清々しい笑顔を浮かべて足早に彼女の席に近づいた。

「すみません。こちらで場所を指定したのに、待たせてしまって……」

「あ、いいんです。わたしが早く来すぎたんです」

 数人は携帯を、零は腕時計を同時に見た。七時を一分しか過ぎていない。
二人は目を合わせ、微笑を交わした。かわいい笑顔だと数人は思った。〈みらい〉のチャット画面で見た時よりずっと美人だ。数人自身、自分が与える第一印象には気をつけていた。清潔で少しだけカジュアルな印象を与えるスーツや靴、手入れの行き届いた髪、自信に満ちていながら優しい微笑。
数人が零の向かいに座ったのを見て、さっきのウェイターが注文を取りに来た。

「僕はブレンドコーヒー。入間さんは?」

「わたしも同じで」

 零は顔を少しだけウェイターのほうに向け、笑顔を浮かべて言った。視線は数人に向けたままだ。彼はそれに応じて会話の話題を提供した。

「ここのコーヒー、美味しいんですよ」

「そう言えば獅子島さん、コーヒー党でしたよね」

 零は〈みらい〉で公表されている彼のプロフィールを暗記していた。

「そうです。もしかして、入間さんも?」

「ええ。父の影響です。コーヒー好きで、わたしが中学校の頃から淹れ方を訓練させてたんです」

 これは前半部分だけ本当だった。父に訓練などされていないし、淹れ方は大学に入ってから自分で学んだ。だがこの話題は無難だ。自分たちの階級が同じであることをそれとなく確認できるからだ。今時インスタントや代用品でないコーヒーは、アッパーミドル以上でなければ日常的に飲んだりできない。

「そうなんですか。僕は中学の頃、家で勉強中に集中力が途切れないように飲みはじめました」

 ひとしきり天気や最近のニュースといった無難なテーマでお喋りしたあと、有望な花嫁・花婿候補たちは、義務教育では教えてくれない「自然な」会話術と表情を駆使しながら、お互いの仕事について話しはじめた。

「汎用AIの開発って、とても難しそうですね」

「ええ。昔は今世紀半ばまでに人工知能が人間を超えると予想した人もいましたけど、まだまだ先ですね。僕が小学校でプログラミングの基礎を勉強しはじめた頃にはまだ〈シンギュラリティ〉なんてことが言われて、多くの人々がそんな説を真に受けてたらしいですけど」

「その言葉、わたしも聞いた記憶があります」

「僕が大学に入学した頃にはさすがに、もうすぐ〈シンギュラリティ〉が訪れるなんて、誰も信じてませんでした。僕たちが日常生活で使っているコンピュータ技術の延長で汎用AIを実現しようとしたら、法外な電力が必要になります。コンピュータ本体の物理的サイズもメインフレーム時代に逆戻りするだろうから、その点でも実用的じゃない。汎用AIの開発には、コンピュータの設計面での技術的なブレークスルーが必要でしょうね。僕の会社でやってることは、それが起きるまでの準備です。正確に言えば、無駄に終わるかもしれない準備の、そのまた下働きですよ」

「はあ……」

「こんな話、退屈ですよね」

「いいえ、そんな……。とても興味深いです」

「汎用AIの開発は複数の階層で同時並行的に進んでいて、その全体像を把握しているのは、たぶん社内でも数人だと思います。会社としては開発の過程で生じた副産物に他の分野での価値を見出して、もっと実用的なシステムを開発したりもしています。今のところ、収益に結びついているのはそっちなんです」

「そうなんですか……」

 気がつくと、零は完全に聞き役に回っていた。数人の話す内容は今一つよく分からないが、彼の頭の回転が速いことだけは分かった。自分の仕事は彼のそれに比べればずいぶん素朴だ。高度な専門性が要求される自分の仕事について他人事のように淡々と話す数人の謙虚さに、零は好感を抱いた。

「〈トキメキ・タウン〉にも僕の会社の副産物が採用されているんですよ」

 零は自分の鼓動が速くなるのを感じた。これは、「あなたとあの街に住みたい」という仄めかしなのではないか。

 〈トキメキ・タウン〉は、政府系マッチングアプリ〈みらい〉によって成婚し、心身ともに優秀と判定された新婚夫婦だけが住めるスマートシティ、要するに未来志向のエリート・ハイテク都市だ。かつてブドウや桃、サクランボなどの産地として知られていた山梨県の一角にそれが完成したのは五年前。豊かな自然に囲まれた快適な住宅地全体が最新のセキュリティ・システムで守られており、地下には非常時を想定したシェルターまであるらしい。凋落した出版業界を支える人気作家や漫画家、機知に富む発言でネットに話題を提供しつづけるインフルエンサー、エコロジー的思想をビジネスと結びつけて成功した青年実業家など、二十から三十代の若い有名人たちも住んでいる。下層階級のネット民たちは彼らが「人寄せパンダ」として利用されているだけだと噂したが、零と同じアッパーミドル階級の知人であの街を批判する者は一人もいなかった。

「入間さんは、チャンスがあればあの街に住みたいですか?」

 数人はさり気なく重要なことを訊いてくる。ここで彼に躊躇いを見せるべきではない。

「ええ。もし機会があれば住んでみたいです」

「だったら、チャンスはいつまでもありませんよ。〈トキメキ・タウン〉はもう定員の九〇%が埋まっていて、あと一年以内で空きがなくなると思います」

「定員って……」

「当初の計画では二千五百世帯。マンションもその前提で作られています。公共サービスの職員を除く街の住人は、一世帯当たり二人から三人の子供ができるとして、最大で一万二千五百人です」

「え、じゃあ、あの街には、残り二百五十世帯くらいしか……」

「そうです。要件を満たした新婚夫婦五百人程度が入居したら、それで終わりです。〈トキメキ・タウン〉は今のところ成功していて、政府はもう次のスマートシティ建設に取りかかったそうです。今度は最大五万人まで住める街を全国に十ヵ所、一挙に作る計画ですが、完成までには五年以上かかると思います」

 数人の口調は、自分の仕事のことを話していた時よりも活気づいていた。彼も零と同じように焦っているようだ。〈みらい〉は登録に際して男三十四歳、女二十九歳という年齢の上限があり、健康診断書や不妊検査とDNA検査の結果まで必要だ。他のマッチングアプリと比べて勝っている点は一つしかない。住民税だけでなく家賃も公共料金も無料という政府系スマートシティに住める可能性だ。しかも二十年間もである。

「僕も来年で三十歳です。そろそろパートナーを見つけて結婚したいですし、できれば子供たちには理想的な環境で育ってもらいたい。政府系スマートシティはその点でも完璧です。移住を許可されるのは心身ともに健全で優秀だと認定された若者だけですし、親たちがそうなら、家庭環境もまともになるはずで、子供たちの間でいじめが起きたりもしないでしょう。教育プログラムに関しても、子供たちの個性や資質が最大限に伸ばせるように工夫が凝らされているそうですよ。子供たちは早い断簡で自分の才能に気づくことができて、それを存分に伸ばせるはずです。親にしても、子供が三人いても経済的な負担を感じなくていいですし、子育てのあとで別の場所に家を買う資金が残せます。〈みらい〉に登録された以上、レイさんも僕と同じ考えなんじゃないですか?」

 数人は一気にまくしたてた。零は自分が名字ではなく名前で呼ばれていることさえ気づかなかった。

「ええ……まあ、そうです」

「それが確認できただけでも良かった。性格云々以前に、お互いの人生計画が嚙み合っていないと、結婚なんて考えられませんからね」

 謙虚な人だと思ったら、結構押しが強かった。


「へえ、しっかりした人じゃない。羨ましいなあ、そんな人と出会えて」
萌は溜め息混じりに言った。

「カズトさんて、美的センスもいいのよ。今時あんなお洒落なカフェがあるなんて知らなかった」

「ごめんね、こんなダサいお店に誘っちゃって」

「そんなつもりで言ったんじゃ……」

「冗談よ。でも、零は高校の時からこだわってたよね。いくらイケメンでも美的センスがない男はいやだって。でも彼、アーティストじゃないんでしょ」

「職業とか創作の才能があるかどうかとは無関係よ。わたしがこだわってるのは、日常的な行動に無意識に出てくるような美的センスなの。それって、生まれ育った環境が反映されるものだから」

「でもさ、零ってわたしと違って都会派だよね。ネットの宣伝動画を見ると〈トキメキ・タウン〉自体が都会的なのは分かるけど、東京から離れてるし、退屈しない?」

「今までと変わらないよ、たぶん。大通りのどこからでも最寄り駅直行のバスに乗れて、駅からは十分ごとに新宿行きの特急が出てるらしいわ。乗車時間は三十分くらいだって」

「速い! やっぱり政府系って特別なんだ」

 萌は感嘆の声を上げた。

「それにね、通勤や通学で街の外に出る人には、通勤・通学用ポイントをくれるそうよ」

「まさに至れり尽くせりね。でも零、どうしてそんなに詳しいの?」

「カズトさんが教えてくれたの。彼の会社、あの街の管理システムも運用してるんだって」

「えっ。じゃあその人、結婚したらそこに配属されたりするかも……。そしたら出勤も楽ね」

「カズトさんもそう言ってた。まあ、今からそこまで当てにするのは楽天的過ぎるとは思うけど」

「きっとそうなるよ。零はわたしなんかと違って、幸運の星の下に生まれたんだから……」

 まるで両手を温めるようにココアのカップを持って飲む萌の姿はどことなく寂しげに見えた。零は親友を見捨てて自分だけ幸福になりそうで胸が痛んだ。

「ねえ、あなたも〈みらい〉に会員登録の申請をしてみたら? 萌は大卒でちゃんとした会社の正社員だし、審査も簡単に通るんじゃないかな」

「確かに、大学の名前を無視したら、零と条件は同じだけどね」

「大学名なんて関係ないよ。ダメな大学はとっくに淘汰されてるんだし、進学率も全国で五〇%を切ってるわ。名前が知られている大学卒で正社員ってだけでもう別格なのよ。萌はもっと自信もったほうがいいよ」

「〈みらい〉って、子供を二人以上産みたい人限定だったよね」

「そうよ。萌も子供、嫌いじゃないんでしょ」

「うん、どっちかって言えば好きだな。家計に余裕があれば二人ぐらいいてもいいかな」

「あのアプリを使うかどうかは別として、子供が欲しいんだったら、三十歳までに結婚したほうが有利だよ。専業主婦手当をもらう権利ができるから」

「知ってるよ……。あと三年半か。でも、専業主婦手当をもらうにも、旦那さんの収入証明とかを提出して審査を受けなきゃなんないんだよね」

「〈みらい〉の会員になると、その審査もAIが自動的にやってくれるわ。それに、旦那さんの収入に関してだけど、〈みらい〉の会員が相手なら、たぶん萌が退職しても子育てできるくらいはもらってると思う。それにね、あのアプリはもともと、結婚相手との出会いの段階から人口減少対策と連動させる目的で作られたんだ。政府もアフターケアしてくれるに決まってるじゃない」

「でも、それで子供が一人もできなかったら、どうなるわけ?」

「そうならないよう、登録前に不妊検査を受けるんじゃない。あと、DNA検査で遺伝性疾患の有無もチェックできるから、〈みらい〉で出会ったカップルはそうでない人たちより安心して子供が産めるわ」

「そっか……。じゃあ、わたしもチャレンジしてみようかな」

「登録申請するんなら早めのほうがいいよ。今ならまだ〈トキメキ・タウン〉に住めるチャンスがある。どうせ会員になるんだったら、そのメリットを最大限に活かさないと。政府系スマートシティは他にも建設中らしいけど、完成は早くても五年後だって。あ、これはカズトさんの受け売りだけどね」

「あーあ。零ったら、さっきからカズトさんカズトさんって、まるで婚約者扱いね。たった一回会っただけなんでしょ。でも確かに、五年後じゃわたしにとって何の意味もないわね……」

「わたしやカズトさんにとっても無意味よ」

 零はカップを持ち上げ、冷めかけた紅茶を啜った。萌は伏し目がちになった親友の顔を見て、相変わらずお嬢様っぽいなと思った。

「ねえ、零。あなた確か、〈みらい〉が利用できるようになった時から会員だって言ってたよね」

「そうだよ。会員番号が三桁だから、最初期の登録者の一人ってことね。五年前に公開されてすぐ審査を受けたから」

「それって、私たちがまだ大学生の時じゃない?」

「そうよ。今の会社に内定が出たあと、その勢いで登録申請しちゃった」

 萌はいかにも彼女らしいと思った。零は高校時代から何をやるにも手回しがよかったのだ。

「でも、どうして今まで相手が見つからなかったの? 零なら簡単に見つかりそうなものだけど」

「たぶん、高望みしすぎたからよ。ハンサムで、少しワイルドで、スタイルもセンスも良くて、もちろん高学歴、高収入で、なんて」

「何それ。昔の韓流ドラマの主人公じゃん」

「そうね」

 二人は声をたてて笑った。


 萌が新宿や渋谷に出かけるのは、せいぜい月に一度、大抵は零とお喋りしたり買い物に付きあったりする時だけになっていた。都民なのに東京の繁華街から足が遠のいてしまったのは、もともと人混みが嫌いで、進学した大学も就職したエコ関連の会社も埼玉にあったことが影響していた。零と同じK市に生まれながら、萌の心は彼女とは正反対にいつも自然に惹かれていた。
今からでも〈みらい〉の会員になってそこで結婚相手を見つけ、自然の豊かな山梨の〈トキメキ・タウン〉に移住できるだろうか。そうなったら零とも時々会える。それに、あくせく働かずに子育てや趣味に時間が割ける。萌は小学生の頃、一度両親に連れられてそこに行ったことがあった。自然の豊かな丘陵地帯で、ブドウ狩りをした記憶がある。今もあの当時のままなら、休日にはみんなでピクニックやブドウ狩りもできるだろう。本当に夢のような生活だ。

 端末の着信音が鳴り響き、萌はそんな夢想から我に返った。ディスプレイを見る。時夫からだ。彼から電話がかかってきたのは五年か六年ぶりだ。
時夫は萌より一つ年上だが近所に住んでいるので、小学校の頃は他の子たちと一緒によく近くの川で水遊びをしたりしたものだった。一人っ子の萌にとって彼はいつでも相談に乗ってくれる兄のような存在だったが、さすがに中学校二年くらいからは次第にお互いを異性として意識するようになり、それからは顔を合わせると挨拶を交わすくらいになった。

「もしもし、トキオさん? 急にどうしたの」

「急に声が聞きたくなった。っていうのは冗談。今日、近くのバス停で偶然モエちゃんのお父さんに会ってね、古い日本製のブルーレイプレーヤーを修理できないかって相談されたんだ」

 萌は父親が両親の形見だという大量のCDやDVD、BDを大切に保管していて、たまに鑑賞し直していることを思い出した。

「話を聞いた限りだと直せそうだったけど、実物を見てみないことには確かなことは言えない。二十年以上前の製品らしいしね。レガシーメディア用プレーヤーなら中国製やインド製のも出回ってるから薦めてみたんだけど、昔と違って海外製は高いってさ。俺はその時急いでたんで、あとで連絡しますって言って、うっかり電話番号を聞きそびれたんだ」

 時夫は電気機器に強く、昔は工学系の大学への進学を目指していたのだった。

「だったら家に遊びに来ればよかったじゃない。お父さん、どうせいつも暇なんだし」

「簡単に言うなよ。俺だって忙しいんだ。今日も仕入れで走り回って、家に帰ったのは九時半。着替えして、飯食って、シャワー浴びたら、もうこんな時間さ」

 ディスプレイの下端に示された時刻は十時半を過ぎていた。

「リサイクルショップに仕入れなんてあるの?」

「この業界も生き残りが大変になっててね。俺みたいな個人経営の新参者は、誰かが中古品を売りに来るのを待ってたら、干上がっちゃうんだよ」

 時夫の店は駅から徒歩五分の場所にある。ぎりぎりで修理できるか部品取りに使えるかどうかという、ジャンク品同様の電気製品を中心に扱っていた。だが始めてみるとそれだけでは商売にならないことが分かり、店頭には、誰が買うのか見当もつかないガラクタに近いモノも置いてあった。そんな時夫の店がライバルより有利な点は、最寄り駅の近くに位置していることだけだ。

 古い家電製品の修理は時夫が不定期に行っている副業で、店の壁に「家電修理も承ります」と小さな貼り紙をしてあった。時夫は古物商の許可は取っていたが、家電修理に関する資格は取っていなかった。古本で独学し、ジャンク品を修理しているうちに自然に技術が身についたので、副業の一つにしたのである。

「わたし、思ったんだけど……」

「何?」

「トキオさんなら、そんな商売しなくても、もっとちゃんとした仕事が見つかるんじゃないの?」

「モエちゃんみたいに、会社員にでもなれっていうの? もう経験済みさ。高卒の学歴じゃあ、就職できたとしても今より収入が少なくて不安定な立場になるだけだよ」

「そうかな。高校の成績、わたしなんかより良かったんじゃない? わたし、必死に頑張ってやっとトキオさんと同じ高校に入れたくらいだから」

「え、モエちゃん、もしかして俺に惚れてたの?」

「違うわよ。わたしの他にも大勢同じ高校に入ったじゃない」

「いい時代だったよな。今じゃ俺たち、別の世界に住んでるようなもんだからな」

「そんな風に言わないで。トキオさんは運が悪かっただけよ。頭がいいんだから、今からでも頑張れば………」

「俺なりに頑張ってるさ。最近は体だって鍛えてる。いつだったかモエちゃんに少し太ったって言われた時は、気にもしなかったんだけどね。それより、お父さんの電話番号、教えてよ」

「あ、ごめん。わたしったら、つい長話しちゃって」

 萌が父親の端末の番号を伝えると、時夫は礼を言ってすぐに電話を切った。

 時夫との会話は、彼女が薄々感じていたことを確証していた。

 彼によれば、リサイクルショップでさえ過当競争に晒されている。そう言われれば、萌の家から半径約五百メートル以内に今では三件もリサイクルショップがあった。時夫が自宅のガレージを改装して開店したのは四年前で、その時点で既に二件もあったのである。最初にできた店は衣服やアクセサリーが専門、次にできた店は主に家電製品や家具と扱っていたが、時夫が参入した時点では、それらの店も以前百均ショップで売っていた商品まで二束三文で売り始めていた。

 時夫は最初から雑多な中古品を扱わざるをえなかったのだろう。大した価値もなさそうな陶製の壺、表紙に醤油かコーヒーの跡が見える趣味の雑誌、工事用スコップ、半世紀近く前にベストセラーだった小説の文庫版……。そんなガラクタがいつも店頭に並んでいたが、それでも安いから買い手がつくのか、商品は定期的に入れ替わっていた。

 自分の住んでいる街はもはやアッパーミドルの多い新興住宅地ではなく、「下町」なのだ。時夫のリサイクルショップを思い出しながら、萌はそのことを初めて意識した。むしろ不思議なのは、毎日のようにその店の前を通っていたのに、今までそれに気づかなかったことだ……。


 獅子島数人は入間零と初めてのデートに満足していた。数人は以前も何度かビデオチャットで彼女と会話していたが、将来の計画まで話し合ったのは今回が初めてだった。〈みらい〉を利用する未婚者全員が政府系スマートシティでの生活を望んでいるわけではない。仕事の関係で都心から離れられない男性や、専業主婦になっても実験都市より住み慣れた都内の住宅地に住みたいという女性もいる。持ち家や土地があればなおさらだ。入間零は両親とも東京出身なので、そんな一人かもしれないと半信半疑だったのだ。

 両親が地方出身で埼玉の賃貸マンション暮らしが長かった数人にとって、山梨の政府系スマートシティに住むことにそれほど抵抗感はなかった。それに、何と言っても二十年間も家賃や公共料金が無料で住民税も免除される特典は魅力的だった。

 零が専業主婦になりたいという希望を述べたことも有り難かった。子育てと家事に携わる専業主婦(或いは専業主夫)には毎月手当が出るが、その金額は下層階級の人々が実現を要求しているベーシックインカムの額とほとんど同じだ。数人が今の会社に勤務しつづける限り、〈トキメキ・タウン〉への移住申請をして審査で落とされたとしても、郊外のマンションをローンで購入し、子供を二人育て上げるくらいのことはできるのだ。

 数人は彼女と結婚したいと思った。それにはまず、彼女の意志を確認しなければならない。彼は端末を開き、初めて〈みらい〉を通さずに直接彼女にメールした。

 今日はとても楽しかった。僕たちはとても幸福になれそうな予感がする。零さんが反対でなければ、近いうちにご両親に挨拶をしたい、云々。強引な印象を与えないよう、文体には細心の注意を払ったが、内容はそれだけだった。

 お互いの両親に相手を紹介しあう。それから入籍、そして結婚式。アッパーミドルの常識としてこの手順は踏まなければいけない。入籍直後に夫婦で〈トキメキ・タウン〉への移住申請をしたとして、審査は長くても二週間程度で終わるはずだ。結果が駄目ならマンションを探せばいい。式までには新居が決まっているだろう。今から行動すれば、最短で半年くらいだろうか……。

 数人が頭の中でスケジュールを考えているうちに、零からの返信が来た。数人の都合がよければ次の日曜に両親に紹介したいという内容だった。彼女も数人に似て行動が早い。

 一都三県のマンションや戸建て住宅の価格は人口減少でかなり下がっている。今の会社に勤めながら二十年も貯金すれば、東京近郊の高級マンションや庭付きの戸建て住宅を買えるだろう。いや、海外への移住だって夢じゃない。それに、あの街に住めたらバラ色の将来が保障されるのは夫婦だけじゃない。子供たちだってそうなるに決まっている。何しろ彼らは、生まれた瞬間から、遺伝的にも生活環境の面でも政府のお墨付きをもらうからだ。
数人はそんな幸福な未来を想像しながら甘い眠りについた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?