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“作家の映画”の創造的継承ということ

 4月後半から「“作家の映画”を読解する」と題した記事を書き続けてきました。本稿ではその意図について説明したいと思います。

 “作家の映画”という言葉は現在日本ではあまり使われていないので、一般の読者には解説が必要でしょう。日本では、作家という言葉は小説家とほとんど同じ意味で使われることが多いですが、“作家の映画”は文学作品の映画化などではありません。むしろ商業的な効果を狙ったベストセラー小説の“映画化”とは対極にあると言っていいでしょう。“作家の映画”の概念は、映画以外のあらゆる芸術とは無関係です
 この概念は文化としての映画にとって重要です。世界の映画全体を見渡せば、そのことが分かります。メキシコやロシアでは“作家の映画”をその名称に含む国際映画祭まで存在します。そもそも、世界の最も有名な映画祭(カンヌ、ヴェネチア、ベルリン、ロカルノなど)は、実質的にずっと“作家の映画”のための映画祭です。ちなみにロシアでは“作家の映画”(авторское кино)という言葉は、私が留学していた25年以上前から使われていました。

 では、具体的にはどんな作品が“作家の映画”なのでしょうか。「分かる人には分かる」映画、国際映画祭にでも出なければ誰も見ないかもしれない映画、有名な批評家が持ち上げその批評家のファンが支持する映画、「難解な」映画……。どれも違います。
 映画以外のどんな手段によっても実現できない表現のために、独自の映画観をもつ作者によって創造された映像作品、それが“作家の映画”です。つまり、監督が芸術としての映画を志向し、それが具現されている作品のことです。
 作者独自の映画観は、先行する映画作品をある程度以上観ていなければ、形成されません。しかし、映画史上の名作と呼ばれるものを手あたり次第に鑑賞し、批評家がベスト1だという作品をそのまま受け入れていたのでは、自分自身の映画観は生まれないでしょう。私の考えでは、映画の創作家だけでなく映画を芸術として論じたい観客にとっても、このことは重要です。

 “作家の映画”(英語ではauthor's cinema)はもともと、フランスの映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の批評家たちが1950年代に唱えた映画批評の“理論”である「作家主義」に由来する概念です。ただし、当時の同誌の批評は、21世紀に入って20年も経過した現在の“作家の映画”をめぐる言説や制度とはまったく違う文化的環境のもとで書かれたことを忘れてはいけません。
 この記事を読んでいる方のほとんどは映画史や映画理論史を詳しく知りたいわけではないと思いますので、思い切って単純化します。要するに、1950年代の「カイエ・デュ・シネマ」の批評家たちは、映画を監督個人の“作品”と見なし、そのような観点から、おもに同時代の作品を評価したのです。50年代には劇映画のスタイルはまだ現在と比べて多様化しておらず、彼らは自然の流れで些細な部分に“作家性”を見出したり、凡作やプロパガンダ映画も作った外国の映画作家を、そのことは全く知らずに恣意的に高く評価したりといったことさえありました。今風にいえば、オタク的だったわけです。この雑誌の批評家たちの中には、のちに監督として”ヌーヴェル・バーグ”の主導的映画作家となったJ=L・ゴダールやフランソワ・トリュフォーのような人々がいました。そのため、まるで“作家の映画”に関しては同誌が今でも権威をもっているかのような錯覚を抱いているオールド映画ファンもいるようです。これはまったく誤った認識です。
 当然ながら、当時のフランスにいながら、例えば同時代の日本やソ連の映画界の実情をつぶさに客観的に知ることなど、まず不可能でした。それは60年代後半になっても、70年代になっても程度の差はあれ同じことでした。例えば、アレクサンドル・ソクーロフの長編劇映画デビュー作『孤独な声』を、それが本国ソ連で公式に上映された87年より前から知っていたフランス人批評家など、おそらく一人もいません。この映画の日本公開は88年で、私はすぐにその斬新な映画表現に惹かれたのですが、作品を分析する際に一番参考になったのはソ連本国の批評家や研究者による文章でした。
 60年代に制作されイタリアの映画祭で受賞した脚本家ゲンナジー・シパリコフ唯一の監督作で“雪どけ”期の最後の名残でもある『長く幸福な人生』(66)について、今知っている外国の批評家がいったい何人いるでしょうか。アントニオーニが称賛したと言われる作品なのにです。同様の例は、探せばいくらでもあるでしょう。これは当然といえば当然です。批評家というものは、研究者とも理論家とも違い、“活きのいい”現代の創作家でなければ、歴史上の“古典”に拘りがちだからです。
 一般的に言って、現代の創作家は若い批評家の、“古典”は大御所批評家の担当です。映画批評家でもこれに倣っている人々がいます。しかし、そうすることによって批評家は、“作家の映画”の創造的継承という現実を捉え損なってしまうのです。

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おもに1970年代以降の劇映画を中心に、毎回10本程度の作品分析を通じて“作家の映画”の魅力を探求してゆきます。

“作家の映画”とは何か、具体的な作品分析を通じて考えていきます。

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