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似非“アート”映画の見分け方

 映画祭での受賞歴は、実はそれほど当てになりません。例えば、同じカンヌ映画祭のパルムドール受賞作でも、『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017)を、『雪の轍』(2014)と同じ水準の映画芸術だなどと言えるでしょうか。

 『ザ・スクエア』の物語には、頭の中でこね回して作ったような作為性が感じられます。それに、一つひとつのエピソードが有機的に結びついておらず、自然な物語の流れを形作っていません。まるで“純文学”志向のアマチュア作家が「どうだ、これは奇抜で現代的だろう」と、短編ならば許されるようなエピソードを適当に並べて長編を装っているかのようです。社会的立場が異なる人間同士のコミュニケーション不全、上辺を繕った上流階級の低俗な本質など、一行で要約できる内容であることが問題なのではありません。“フィクション映像作品”という、観客に提示すべき料理が“生煮え”であるどころか、素材である出来事の組み合わせがマズすぎるのです。
 現代美術のキュレーターが抱える内面の矛盾(文字通り、取り繕った解説によってほとんど無意味なモノに“意味”を与えながら、自分の人生の無意味さには気づかない愚かさ)、モンキーマンを演じた男の上流階級への反抗と“原始的”行動(文字通り、現代社会で抑圧された動物性の“象徴”)、自分のスマホがなくなったことを下層階級の犯行だと断定するキュレーターの独善性(文字通り、格差社会における上下階層間のコミュニケーション不全)、そして人間的には何も解決できないという結末(文字通り、現状を肯定するしかない現代人の悲哀)など、すべてがあまりにも図式的であるだけでなく、退屈で、作為的なのです。さらに事態を悪くしているのが、BGMのように反復される音楽です(バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻のプレリュードを編曲)。この曲本来の天才的な無垢さと、主人公のスマホが見つかるゴミ捨て場にも似た物語の散乱ぶりとは、あまりにも対照的です。
 主人公は映画の最初と最後で“変化”しているでしょうか。一応、宣伝用ビデオの件で辞職し、スマホ紛失の件で自分の狭量さを反省したようには見えますが、住む場所を失なうわけでもなければ子供(登場する意味もあまりないのですが)と離れ離れになるわけでもありません。そもそも彼は、作中で一度も自分の生活を変えようとはしていません。偶然の状況によって生じた“狭量さの反省”は、2時間半の上映時間に対してあまりにも微々たる変化です。

 一方、トルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督『雪の轍』の場合、一本の主筋を幹として枝のように副筋が茂り、全体としてまっすぐに伸びた樹木のように美しい物語が作られています。田舎の観光地でホテルを経営する中年知識人の、妻や家族や近隣住民との葛藤が描かれてゆき、やがて彼が自己欺瞞をやめて現実を受け入れ、自分にとって何が最も重要であるかを認識するまでを丁寧に辿っていきます。田舎での生活にストレスを感じた彼は一度、妻から離れて首都で自分を見つめ直そうと考えますが、偶然、駅で知人に声をかけられ、彼の家で話しているうちに思い直します。そして自分の不在中、妻に難題が降りかかったことを知り、問題は彼が住んでいる土地にではなく彼自身にあったのだと悟るのです。『ザ・スクエア』の場合と違い、“象徴的”なだけで本筋と無関係なエピソードはありません。主人公に対して共感するにせよそうしないにせよ、この作品は劇映画として作られる必然性を持っています。

 “アート映画”と呼ばれる劇映画の中で、映像の華麗さや個々のシーンの意外性しか見どころのない作品は、芸術的水準が高いとは言えません。映像の華麗さや意外な展開それ自体は長所になり得ますが、それが作品制作の主要な目的になっていては、フィクション映像作品である必然性はないことになります。それらは、ゲームでも現代美術でも、あるいはネット小説でも実現できる課題だからです。
 パラジャーノフの『ざくろの色』(69)やグリーナウェイの『プロスペローの本』(91)は映像の華麗さばかりが注目されがちですが、ちゃんと一人の主人公をめぐる、テーマ的に完結した物語になっています(後者に関しては原作者シェークスピアのお陰だと言えるかもしれませんが)。パラジャーノフの『ざくろの色』はわずか70分強の上映時間で、詩人が自分の使命に目覚め、王女への禁断の恋に破れて修道院に入り、老境に達して再び俗世に戻り、死を迎えるまでの伝記的な構成を持っています。もっとも、現在観ることのできるヴァージョンは、パラジャーノフの意図を十分に理解しなかったとされるセルゲイ・ユトケヴィチが再編集したものだけなのですが。

 結論を述べましょう。フィクション映像作品で、主人公が映画の冒頭から最後までに顕著な変化(成長でも破滅でも)を遂げない、あるいは主人公と他の登場人物との関係に顕著な変化(和解でも決裂でも)がないような場合、その作品はそもそも劇映画やドラマとして制作される必然性がないのです。作者によって選択された分野で作られる必然性のない芸術(アート)には、存在意義がありません
 似非“アート映画”の簡単な見分け方は以上です。『去年、マリエンバートで』(61)のような、例外的な実験についてはここでは問題にしません。登場人物が極端に抽象化されているこの作品のような劇映画は、現在では商業的リスクが大きすぎて制作されなくなっているからです。

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