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“作家の映画”を読解する:『東京物語』(53)

 『東京物語』は小津安二郎監督の代表作であるだけでなく、現在では世界映画史上の名作として認められています。この作品は、親子であることの喜びと悲しみを、落ち着いた叙述スタイルによって静かに表現しています。形式的には非常に完成された映画であるだけでなく、先進国に住む外国人の目には異国情緒やある種の懐かしさや良心の痛みを感じさせるのではないでしょうか。日本を含む先進国における現代の親子関係、家族関係は、『東京物語』で描かれたそれよりも希薄な場合が多いと思われるからです。
 この作品には、映画作家小津安二郎のテーマとスタイルがこの上なく十全に実現されているため、作家論や映画研究書を書くという目的でもない限り、時間のない方は他の作品を観なくても構わないくらいです(『東京物語』で仄かに示されるにすぎない社会的テーマの掘り下げや、斬新なスタイル、実験性などを他の小津映画に求めても、決して得るところはありません)。『東京物語』とテーマ的に近い作品を創造したいというのであれば、自国の現状を反映した設定の物語を、自分自身のスタイルで作ればよいだけです。映画に限らず、創作においてスタイル面でオマージュを捧げるという行為はいつでも滑稽なものです

 私は本稿を書くために、この作品を何十年かぶりで観直しました。いくつかの発見があったのですが、それらについて述べる前に、小津映画における有名な“空ショット”について、映画史的な復習をしておきましょう。

“空ショット”とは?

 私が大学生の頃は、このような質問は愚問でした。映画ファンなら誰でも知っていたからです。
 空(から)ショットというのは、劇映画において、主要な登場人物が映るわけでもなく物語の展開に貢献するわけでもない、シーンとシーンのあいだに挿入される映像のことです。大抵は風景や建物の一部や室内の一角を撮影したショットです。そのようなショットは、サイレント時代から使用されていました。
 小津安二郎とはテーマもスタイルもまったく共通性のない映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(25)には、空ショットだけからなるエピソードがあります。次の三つのショットはその一部にすぎません。

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 『戦艦ポチョムキン』の翌年制作されたフセヴォロド・プドフキン監督『母』(26)にも同様な空ショットだけのエピソードがあります。これらはソ連映画ですが、フランスのジャン・エプステイン監督も『アッシャー家の末裔』(28)で空ショットを使っています。つまり、既にサイレント映画の芸術的完成期からその末期に当たる1920年代後半にかけて、空ショットの挿入は映画の専門家には手法として周知のものだったのです。
 日本ではソ連映画は上映禁止でしたが、エプステイン作品のような前衛的な欧米の映画は東京で公開されていたので、小津がそれらをまったく観なかったと考えるのはかえって不自然です。当時映画は非常に若い芸術であり、同じ東京出身で小津より7歳年下の黒澤明でさえ見ていたのですから。

 空ショットは、現代までさまざまな監督によって利用されています。それぞれの作品で空ショットの機能や意味は違います。小津とはまったく対照的な作風のミケランジェロ・アントニオーニは『太陽はひとりぼっち』(62)のフィナーレとして、約7分にも及ぶ空ショットを中心とするエピソードを置いています。最近ではダリウス・マーダー監督『サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~』(2019)でも使われており、その意味は以前の記事で考察しました。ですから、ある映画作家が空ショットを使っているからといって「(偉大な)小津の影響である」などと断じれば、映画に関して素人であることを全世界に晒していることになるのです。小津安二郎の映画における空ショットの機能や意味に関する議論は、映画学のちゃんとした学位(修士以上)をもった専門家に任せておきましょう。

 さて、映画史的な復習はこのくらいにして、『東京物語』に関して今回、私が気づいた点について述べていきましょう

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