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村上春樹より文学的なミュージシャン(または「流動体について」について②)

(2017.2.28)

金曜日にテレビでオザケンの新曲を聴いて、日曜日にもうちょっとしっかり聴いて、月曜日にCDを注文して、今日それが届いたので、だれもいなくなった会社で3連続で聴いてみた。ヘッドホンでも聴いた。
結果、かなり詰め込んだなぁ、こりゃいろいろな聴き方で楽しめる曲だなと思った。ぼやっと聴くといろいろな聴き方の渦に飲まれそうなので、とりあえず今晩はギターだけ聴いた。明日はたぶんベース音ばかりを聴くだろう。

ところで、オザケンの歌詞については、ぼくにはちょっとついていけないところがあって(きらいとかよくないという意味でなく、単にぼくの頭ではうまく捉えられないという意味)、ファーストアルバム以降は考えずに過ごしていた。今回もやはり同じように考えないようにしていたが、20年前とちがっていまは質の良い分析がネット上にたくさんある。せっかくだから調べてみようと思ったら、以下のリンク先の日記にたどり着いた。

http://bronson69.hatenablog.com/entry/2017/02/25/212352

とても明快かつせつない文章で、勉強になった。
オザケンは、同じところをグルグルしている(ように見える)村上春樹より、よっぽど文学的に生きてるなと感じた。
「ある光」のアンサーソング的な曲という、ぼくなりの捉え方はどうやら合っているみたいで、ちょっとうれしかった。また、「オザケンは売りにきてるな!」という(たぶん多くの人がもっている)直感を論理的に説明してくれて、かなりうれしかった。

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