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祖母が亡くなった日

母方の祖母とは、痴呆が悪化してから、母と同居していた。

しかし状況は悪くなる一方で、夜中には1時間ごとに外に出ようと玄関に行ってしまうため、鍵に細工をして、勝手に出られないようにした。
すると、出られないことに怒り、ドアをガタガタやったり、バンバン叩いたりするので、同居中は毎日極度の睡眠不足であった。

起きている時は、常に無表情で、出てくる感情は怒り以外になかった。
祖母が寝ているので、こっちは先にご飯を食べていると、ふと起きた祖母に「私にはご飯をくれないで、勝手に食べてるの。薄情者。」と言われ、さっき食べ終わったばかりなのに「ご飯はまだか!」とテーブルをバンバン叩きながら怒られたことも、しばしば。

もちろん下の世話は自分でできない。しまいにはトイレの場所も分からなくなり、そこら中がトイレと化し、3日に1回は大惨事であった。
下着は冷蔵庫に入れられたこともあったし、靴下に大便が詰め込まれていたこともあった。

そんな寝不足とストレスの生活に限界を迎えた頃、大学の冬休みを使って旦那に(当時はまだ彼氏)会いに台湾に行くことにした。
ちょうど交際記念日ということもあり、さらに祖母や介護を一人でやらせてしまっている母のことは忘れようと思い、台湾へ飛んだ。

交際記念日当日、夜は夜景の見えるカフェで過ごすことに決めていた。なんとなく嫌な予感がした私は、お昼頃から携帯の電源を切っていた。祖母のことで、母から連絡を受けたくなかったからだ。台湾に来てまで、日本で起こる現実に目を向けたくなかった。母からは常に祖母の様子がメールで送られてきていたし、母の愚痴や悩み事には早めに返事をしなくてはと思っていたため、携帯を見ることがプレッシャーになっていたこともある。

その日は夜中を過ぎてやっと家に着いた。
恐る恐る携帯の電源を入れると、母から衝撃の連絡がきていた。
祖母が喉に物を詰まらせて、病院へ運ばれたというではないか!
母からは、とんでもないことをしてしまったと連絡がきていた。

もう何時間も前のことなので、現時点での状況が分からず、すぐさま国際電話をかけた。
母は病院にいて、祖母の状態を説明してくれた。
心肺蘇生をし、脳死状態まで持っていったが、93歳という歳もあり、亡くなるのは時間の問題ということであった。
何かあったら、電話してと言い残し電話を切ったが、数時間後に祖母が亡くなったとの連絡を受けた。

私の嫌な予感は的中したらしい。

まさかこんなことになるとは思っていなかったので、びっくりし、その日の早朝便を急いで予約し、日本へ帰った。

家に着くと、まだ遺体は運ばれてきておらず、母だけが静かに座っていた。

どうやって亡くなったのか聞くと、今までずっと無表情で会話もなく怒ってばかりだった祖母が急に「まぐろが食べたい」とはっきり言ったそうだ。
母はそんなに食べたいのかと驚き、急いでスーパーにまぐろの刺し身を買いに行き、夜は鉄火丼にしたそうだ。
そうしたら、そのまぐろを喉に詰まらせて亡くなったのだ。

私は本当に不思議だと思った。

こういう言い方は正しいのか分からないが、私の率直な気持ちを述べさせてもらうと、“祖母は私達の思いをくんで、人生の終わりを自分で決めたのかな”と思わざるをえなかった。

実際、母も私も介護生活には限界を感じていたし、いつ終わるか分からない介護の日々に正直疲れ果てていた。
デイサービスやショートステイも利用してはいたが、補助の範囲内でだったので、利用できない時は私達の負担も大きかった。
老人ホームはお金の面から考えて無理であったし、特養なんて何年先になるか‥‥という状況で、先の見えない暗い生活を送っていた。

精神的に限界がきて、少しでも現実から逃げようと台湾に行った矢先の出来事で、後悔といえば、もっと色々調べて介護がやりやすくなる便利グッズとかに頼れば良かったなというくらいだろうか。家族だから自分達がやらなきゃと自分で自分の首を締めていたことに気が付かなかったのだ。

祖母も93歳まで生きて、私のことは誰だか分からなくなっていたし、最後は娘である私の母のことも誰だか分からなくなっていた。
どこかで“もういいかな”と思ったのだろうか。
それは本人でなくては分からないが、お医者様が「痴呆の人は痛みなどを感じにくくなっているから、あまり苦しくなかったのではないだろうか」と言ってくれた。
私達を励ますためだったのかは分からないが、最後に立ち会えなかった私は少し救われた気持ちであった。

自分の最後を自分で決める。そういうことは、あるのだろうか。
これが私の不思議体験である。

#私の不思議体験

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