shuzo_kumagai

熊谷周三。北海道出身、埼玉在住。企業でヴァナキュラー・リサーチの仕事に携わっています。

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マガジン

  • フォークロア

    民俗学、民族学、文化人類学の関心ごとについての記事をまとめてみました。

  • これまでの旅に関する記事をまとめてみました。

  • 武蔵野

    武蔵野フィールドワークに関する記事をまとめました。

  • ものづくり

    ものづくりや地場産業、農業などについての記事をまとめてみました。

  • アート

    これまでのアート系の記事をまとめてみました。

最近の記事

西国と東国を分つ坂 足利峠

足柄峠は伊豆半島に位置し、相模国と駿河国とを分ける古代からの重要な関所である。万葉集に見られるように、この峠は古くから日本の東西を区別する境界として認識されていた。ここは「坂東」の名で呼ばれる地域の象徴的な存在であり、東の国と西の国の分かれ目とされている。 地理的特徴においても、足柄峠はフォッサマグナという地質学的な概念における境界の一つである。フォッサマグナは日本列島を西と東に分ける大きな地溝帯とされ、伊豆半島がその南端から日本列島にめり込んできたことで形成されたという説

    • 移民としての日本人、その歴史 全米日系人博物館

      全米日系人博物館。 日系アメリカ人の歴史と物語は、他の移民のそれと大きくは同じで、幾分違っている。 かつて、日本から貧しく勇敢な移民たちが太平洋を渡り、新天地カリフォルニアへと足を踏み入れた。19世紀後半、明治維新の波に乗り、未知の世界への扉を開いた時代である。彼らは農業や漁業、鉄道建設といった仕事に従事しつつ、新たな環境に順応し、日本の文化を守り続けた。 その後、アメリカの大地に根を下ろした日本人コミュニティは、言語や文化の絆で結ばれ、リトル東京やジャパンタウンといった

      • 植民、移民、貿易 混じり合うシンガポール

        シンガポールの歴史と文化は、植民地の過去、移民国家としての特性、そして貿易国としての地位に深く根ざしている。 1819年にイギリス東インド会社のスタンフォード・ラッフルズによって設立されたシンガポール(元々のライオンの街を意味する「シンガプーラ」を英国風に変えた)は、地理的な位置の戦略的重要性を活かして、イギリスの貿易拠点として発展した。この時期に建設されたラッフルズホテルや旧最高裁判所ビルなどの建物は、日本の占領期を経て、再びイギリス、やがてマレーシア、そして独立した今日

        • 眼差され純化する伝統 バリのバリ化

          バリ島は不思議な体験だった。この島の歴史は古く紀元前300年からの人の居住、ヒンドゥー教の伝来、ジャワの支配、オランダ植民地時代を経て、独立に至るまでの変遷がある。 19世紀のオランダ植民地時代には、多くの伝統が失われたかけたが、奇妙な巡り合わせにより、また奇妙な復興を遂げることになった。 1917年の大地震とその後の災難は、バリの文化保護政策に大きな影響を与えた。バリの人々はその災難を儀礼によって乗り越えようとした。バロンの練り歩きやサンヒャン・ドゥダリなどの儀礼が盛ん

        西国と東国を分つ坂 足利峠

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        記事

          角川武蔵野ミュージアムから良品計画へ

          この秋より、角川武蔵野ミュージアムを離れることになりました。 ミュージアム立ち上げから、武蔵野というフィールド研究、ギャラリーでの展覧会、雑誌編集執筆など、貴重な経験をさせてもらいました。 中でも、フィールドワークの手法を自分なりに深めていけたことも大きく、それを機に色んな方々や風景と出会うことができました。 次の職場は、縁あって良品計画です。良品計画は数年前より〈第二の創業〉と銘打って様々な目標を掲げており、その目標の大きな柱の一つに”土着化”があります。 無印のいう

          角川武蔵野ミュージアムから良品計画へ

          外房、朝の海岸

          外房、朝の海岸

          地磁気が逆転しても地球はまわる チバニアン

          千葉県市原市の山間、養老渓谷の河川に削られむき出しになった地層に、一筋の白い線が走っている。 77.4万年前に降った火山灰がその正体だ。 カラブリアンとチバニアンとを分けるその境界は、地球史上最後の地磁気逆転が起きた時期と重なる。 地磁気逆転とは、その名の通り、地球のS極とN極が逆転する現象のこと。 過去360万年の間に11回は逆転していることが分かっている(逆転している途中では至る場所でS極N極が発生していたという)。 何故逆転する原因は未だ判明されていない(一説による

          地磁気が逆転しても地球はまわる チバニアン

          関東平野を受け止める地層 銚子

          66kmにもおよぶ九十九里浜の平坦な海岸線を北へ北へと進むと、ゴツゴツとした高低差のある段丘の風景が見えてくる。関東地方を覆う広大な火山灰から成り立つ「関東ローム層」と呼ばれる地層が露出している。 ここには地球のプレートの動きによって押し上げられた白亜紀の地層も見ることができる。これらの地層は、日本最大の平野・関東平野を受け止めるエッジの役割を担った。 これらの特殊な地形の上にあるのが、千葉県の北東部、太平洋に面した港町、銚子だ。 江戸時代には、利根川の流れが東京湾から銚

          関東平野を受け止める地層 銚子

          イワシとサーファーが棲む浜 九十九里浜

          九十九里浜。 江戸期にいわし漁で栄えた漁業のまち。いわしの脂を取り除いた干鰯は藍染の藍を育てる肥料として重宝され、関東への一台供給地となった。 地域を走ると立派な御殿がいくつもみえる。屈強な海の人々が漁業で財を成したが、最近は厳しいという声も聞く。 風はとても強く、多くのサーファーで賑わっていた。

          イワシとサーファーが棲む浜 九十九里浜

          岡本太郎と宮本常一がみた武蔵野

          岡本太郎の武蔵野 岡本太郎が秋田、岩手、京都、大阪、出雲、四国、長崎に赴き綴った「芸術風土記」には、未完の一章があった。武蔵野についてだ。 この文章が書かれた1960年代前半は、まだ昔ながらの武蔵野の姿があった。母・かの子の故郷でもあった武蔵野だ。彼女を仲立ちに太郎はこの地に結び付けられた。もうすでに縄文は彼に発見されていた。「われわれの祖先」という言葉には一万年以上の射程がある。 宮本常一の武蔵野 同じ頃に武蔵野に移り住んだ民俗学者がいた。宮本常一だ。1961年、常

          岡本太郎と宮本常一がみた武蔵野

          まるで生き物のような 第一牧志公設市場

          国際通りから一歩踏み出すと、奇妙なほど魅力的な迷路のような風景が広がる。沖縄の台所である「第一牧志公設市場」へと続く、ひしめく商店街の入り口だ。この市場は、かつて戦後の混乱から生まれた闇市から始まった歴史を持つ。それ以来この場所はまるで生き物のように四方八方に曲がりくねった形で成長を続けてきた。 市場は2023年リニューアルを果たした。一見すると、新鮮な風を纏った明るい建物が立ちはだかるが、それでも、この場所の本質は変わらない。その活力はかつての北九州の旦過市場を彷彿とさせ

          まるで生き物のような 第一牧志公設市場

          地形がうみだすもの 名護の海岸と読谷のシムクガマ

          沖縄本島の北部に位置する名護には、美しい海岸線が広がっている。海岸沿いに目を向けると、背の高い島々が点々と浮かんでいる。その一つ一つの島が特異な形状をしており、それぞれ異なる風景を提供している。 泥質片岩が一部が剥き出しになっている。これらの岩石は、太平洋のプレート移動と衝突により隆起したものだ。沖縄本島の北半分は火山やサンゴ礁の島ではないことを物語っている。 名護を南に位置する読谷には、シムクガマという、「下向く洞窟」と名付けれた洞窟がある。これは石灰岩が溶けて空間がで

          地形がうみだすもの 名護の海岸と読谷のシムクガマ

          やちむんの里 読谷

          沖縄の焼き物は6,000年前からあるものの、やちむんの直接の始まりは、1,616年に薩摩藩から呼んだ陶工によるという。 小鹿田焼は1,705年。小石原焼は1,669年の始まりというから、そういう時期時代なのだろう。 読谷に窯が集まったのは、戦後のこと。那覇市内で登り窯は公害問題になり、沖縄戦で一度焼け野になった読谷へ集まった。

          やちむんの里 読谷

          辺野古とは、どんなところなのだろう

          名護市久志区辺野古。琉球語の「ヘヌク」(土地の祖神の名前という説あり)からその地名が来ているという。 ここはかつて炭焼きや樟脳づくり、漁労の小さな集落で、15世紀には「国頭方東海道」の宿場でもあった。 1945年6月米軍による沖縄時上陸時に、ここに大きな捕虜収容所が設置され、最大25,000名が収容された。戦後に収容所は消滅したもの再び米軍基地キャンプ・シュワブが作られることとなる。 基地工事は大阪の業者が請け負い1959年8月に完成。周辺には基地建設作業員のための飲食

          辺野古とは、どんなところなのだろう

          この土地の歴史が溶け込んでいる 《食堂味乃屋》のソーキそば

          本島のほぼ中央、東側の海岸に位置する金武町。 この土地にある《食堂味乃屋》のソーキそばが美味しかった。昆布出汁、かまぼこ、あぐー肉の風味が素朴で味わい深く、泡盛と島唐辛子から作られたコーレーグスが合う。店内では地元の農家さんやお婆がそばをいい音で啜り、濃ゆいウチナーグチで会話をしていた。 建物は戦後建てられたコンクリートの家。どうして沖縄はこんなにもコンクリートの家が多いのか。戦後、深刻な住宅難に加え職人が戦争で亡くなった。その後、職人なしで建てた木造住宅《規格ヤー》は、台

          この土地の歴史が溶け込んでいる 《食堂味乃屋》のソーキそば

          海人たちの技術と歴史 糸満

          糸満。 優れた漁法と道具を生み出した海人たちの歴史を伝える資料館に立ち寄る。 その漁法とは、追込み漁だ。子どもたちが海に入り、魚を大きな囲い網の方へと追いやる。この追込み漁の成果は凄まじく、あっという間に他の漁場を席巻した。本島はもちろん、フィリピンなど南方までその漁場を広げた。貧しい地域から口減らしとして子どもたちが糸満に売られてきたという。追い子はその子どもたちが担った。 その追込み漁の際に活躍したのがミーカガンと言う水中メガネ。これにより失明のリスクを軽減し長い間の潜

          海人たちの技術と歴史 糸満