見出し画像

美しいもの

世界はたくさんの美しいもので溢れている。ただ、それらを美しいと思うか、否かの評価基準はそれぞれの自己に内在しているから、僕が美しいと思ったあれこれは、隣にいる友人、遠く故郷にいる家族、画面の中にいる名前も知らない人々、引いては遠く海の向こうにいる肌の色が違う人間たちの中の美しいに当たるとは限らない。

例えば、詩人・谷川俊太郎は代表作「生きる」の中で

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ

と、自身の考える"美しいもの"を挙げている。谷川俊太郎の中ではミニスカート、プラネタリウム、ヨハン・シュトラウス、ピカソ、アルプスが美しいものなのだ。このように、各人の中に美しいものが存在し、それらに触れること、それらを崇拝すること、それらを描くこと、表現すること、様々な方法で人々は美しいものと向き合い続けているんだ、と僕は思う。僕はミニスカートを美しいとは思わないし、ピカソもよくわからない。ワルツも詳しくないからヨハンシュトラウスについてもあまりわからない。でも、写真で見たアルプスは美しいと思うし、幼い頃に郡山のスペースパークで見たプラネタリウムは"美しいもの"として脳裏に刻まれ続けている。僕が生活の隙間から偶然出会った文学や音楽を美しいと思い、文章に書き表すことと谷川俊太郎が感じた美しさに、一体違いなんてあるのだろうか。いや、そこにはきっと違いなんてない筈なんだ。

きっとそれは小山田壮平や志村正彦の音楽、カネコアヤノ、堀辰雄の文学。浅野いにおの作品、リリィシュシュのすべて、春は馬車に乗って、ジブリ、八ヶ岳、立山連峰、十和田湖、インド、アラスカ、イギリス海岸、夏の高い入道雲、いつかの青い空、中央線の車窓から見える東京の街並、ある光....。僕も世の中に存在する様々な美しさに支えられ、魅了されて生きている。


僕には時間が足りない。読みたい本も、見たい映画も、聴きたい音楽も、これから出逢うはずの素晴らしい人々も。たくさんの美しさが僕を待っている筈だ。友達と遊びにだって行くし、1人の時間だって欲しいし、好きな人が出来たらまた恋愛だってする。
そして同時に、これからきっと色々なものを失っていくと思う。大切なもの、大切な人、大切な場所、そして記憶、時間も。


だから急ぐ。美しいものを美しいと思えているこの時間には限りがある。人の汚さ、ふとした時に垣間見える腹黒さ、世俗への諦念、社会への憤りに道草を食っている場合じゃないんだ。僕はぼくの美しさに生きる。君もきみの美しさに生きればいい。僕らには時間がないから。だってあまりにもこの世界は美しすぎるから。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?