note_siaduzore_はじめてかきこむ-0002

はじめてかきこむ

     おれがnoteに会員登録したのは記憶ちがいでなければこれまでにこのIDのが最初で最後のはずで、そしてそれは去年すなわち2018年の初夏のことだったようだから、すでに1年数か月まえであり、そのあといままでなにもあらわさずにほぼ放置していた。 無内容な字句・文言によるわずかな下がきを何どかためしたぐらいだ。 でも世のひとたちにはいまnoteはずいぶん人気があるようで、どうも利用者もふえつつあるっぽい。 これまでおれがここを放置していたわけはいくつかあって、その1つは作文においてHTML機能のほとんどが無効の設定なのでネットでの文章表現力としてはかなりとぼしいサイトであることだったりもするが、しかしいずれにしろたいしたことではないのでわけのすべてをここでいまぶっちゃけるのはやめる。
     ぎゃくに、いまはじめて何かをここにあらわす気になったわけは1つだけで、それはここでの作文につかえる引用機能がすぐれていることだ。 ほとんどありとあらゆるウェブサイト・ウェブページの引用ができるっぽい。 このことはかなり最近になってしったことで、それまではおもいもよらなかった。 この機能があるとしっていたらまえからここをつかっていたにちがいなく、こんなに放置はしていなかったはずだ。 去年の初夏のあといままでのあいだのわがしらぬうちにこのウェブサイトよろず引用機能はそなえられたのでもあろうか。 単におれがしらなかっただけであろうか。
     ツイッターやフェースブックでも、ほとんどすべてといいたいほどおおくのウェブページが引用できる。 そのことはとぉにしっている。 だがツイッターは140字のこまぎれ・ぶつぎりが不自由すぎるし、フェースブックはなぜかどうにも陰気にかんじられてならず、個人的に相性がよくない。 どんなウェブページも引用できて、それについての論評を、長文とはいわずとも不自由な短文でではない字数で寸評するぐらいのことがおもいのままにこころよくやれるサイトがあればいいのにと、ずっとおもいつづけていた。 そしたらなんと、このnoteがそうだった。
     それでこのたび放置を中断することにした。
     最初にここに何かをあらわすのにここの運営にひとことイチャモンをつけねば気のすまぬ件が1コあるので以下にそれをかく。
     その件とはほかでもない、このnoteを運営する株式会社ピースオブケイクでCXOとよばれる役職をつとめる深津 貴之【ふかつ・たかゆき】さんというひとが、例の昭和天皇ヒロヒト軍用性奴隷制によってひどい犠牲をしいられた被害者女性たちをめぐる件───いわゆる従軍慰安婦問題───についての害ある発言をネットで世にたれながしていたことだ。 そんなひとが要職にあるような会社が運営・サービス提供しているサイトをなにも気にせずに気分よくつかいはじめることはどうもちょっとむりっぽい。
     前記のとおりおれ自身は会員登録しただけでクリエーターとしてはまったく放置だったけれど、ほかのひとたちがここにあらわす文章などはいくらも閲覧していたし、ここがどんなかんじかはそれなりにはしっているつもりでおれもいて、ネットでの表現の場としての総合評価ではそれなりに好意的にみていた。 だからフカツさんのその件にはかなりガッカリさせられ、noteに対する好評もそれなりのおおきさでそこなわれた。
     おなじ件でnote評価をさげたのはおれだけではない。 noteにそれまであらわしてきた表現物のすべてを、この件にもとづいてすっかりよそへひきあげてしまったひと(→★)や、あるいはおれとおなじで会員登録だけはまえにすませててコンテンツの公表・掲示はまだゼロだったのを、そのゼロのまま会員登録をうちけして退会してしまったとツイートでうちあけたひと(→★)がある。 これらのひとたちはフカツさんの件でnoteに対してある種の縁をきる(あるいは「縁をとおざける」)行動をとっている。 いずれもいさぎよいひとたちだとおれはおもう。 おのれの良心にもとづいて、サイト運営当局の有力者による害ある言動にしっかり対応した。 さらにはそれを上記のとおりネットにあらわすことで政治行動としての抗議の意思表明にもし、それは同時に世にひろく注意をよびかけることにもなっているだろう。
     ほんとならこういうひとたちにおれもならわなけりゃいけねぇのかもしれぬ。 退会で抗議のきもちをあらわすことはおれにもたやすい。 だがおれはそれをしていない。 なぜしないか? また、こんなふうにクリエーターとしてのnote利用をいまからはじめるなどもってのほか言語道断といわれるかもしれぬ。 なのにおれはそれをなぜしているか?
     これらの批判・疑問に対してはそれなりのわけ・反論がおれにあるので、いさぎよい縁きり対応にある種のためらいをおぼえるからだ。 そのわけ・反論の説明にまずあげねばならぬのは「きりがない」ってことだ。 この件でnoteと縁をきるなら、ではツイッターはどうなのか、ラインは、フェースブックは、ネットにたくさんあるブログ₌サイトは、そもそもプロバイダーはと、抗議の縁きり行動をつぎつぎにせねばならぬはめにおちいる。 ことによればネットそのものから全面離脱撤退せねばならなくなりさえする。 どのネット関連会社にもゲスいやつは在籍しうる。 社長はじめ社員全員・役員全員がひとりのこらず良心的で人格高潔である、そんな会社法人はざんねんだがおとぎばなしの設定にしかありえまい。 だから「きりがない」。 われわれは地獄にいきている。 われわれは地獄の住人である。
     そしていまの世にくらしながらネットと縁をきることはほぼだれにもできぬ。 パソコンもケータイももたず つかわぬ者でいることはすくなくとも私的な範囲でだけならその気になればおそらくだれにもたやすくできようが、それですっかりネットと縁をきることにはぜんぜんならぬのがいまの世だ。 もはや世のすべてがネットを土台になりたってしまっている。 われわれの地獄はネット化・コンピューター化されている。
     こうした世のざまにてらせばフカツさんの件でnoteをみかぎることはりっぱでいさぎよくはあるにしろ、そうしない者をとがめるまでいくのはやりすぎで非現実的であろう。 じっさい、いや「じっさい」という副詞をここにおくのがふさわしいかどうかは微妙ながら、くだんのいさぎよいふたりはいずれもプロの表現業者であり、紙メディヤでもすでにながく活動してきているので、いまさらネット₌サイトの1つや2つ縁きりしても何でもないであろうひとたちだ。 しかるに世の圧倒的多数にとって紙メディヤは雲のうえにあるようなものであり、ひろく世間に直接の意思表明をしたければ、もっぱらネットにたよるしかない。 この事実にてらせばくだんのふたりのばあいを一般人にもそのままあてはめてかんがえるのは詭弁のもとであろう。 むしろこのふたりのばあいをあてはめてかんがえるべきなのは、このふたりとおなじように紙メディヤでも活動していながらnoteの利用者でもあるのに、このふたりのようにはフカツさんの件でなんの対応もしないひとたちについてこそであろう。 それらのひとたちはなぜ何の対応もしめさぬのか? だからくだんのふたりはその意味でもやっぱり好評すべきひとたちであろうとおれはおもう。
     ともあれ一般人としてのおれがフカツさんの件でnoteに対して縁をきるのにためらいをかんじるのは、いま上にのべたことどもが無意識のうちに知識・情報としてあるために、こころがそれにさまたげられて心底からのなっとくをできなくさせられているのであろう。
     ほかにもそうしたことはある。 それはたとえばフカツさんが株式会社ピースオブケイクの要職にはあっても同社の創業者でも最高責任者でもなく、それはべつのひとであり、このべつのほうのひとにはフカツさんとおなじような有害言動がこれまであったとの情報にはすくなくともいまのところおれは接しておらず、また同社には重役・従業員が当然ながらほかにもあるが、それらのひとたちにも有害言動があったとの情報もおれはしらぬことだ。 だからすくなくともいまのところはフカツさんの件を同社の全体にまであるいはその提供するサービスを容認するか拒絶するかの問題にまでにおしひろげてうんぬんするのは当をえぬ過剰とおれにはおもえる。
     と、そんなわけでおれ自身は上記のいさぎよいふたりとちがってnoteと縁をきる・とおざけるの行動にはおよばぬことにした。 とはいえフカツさんの件になにもふれぬままでこのさき何かのコンテンツをしれっとnoteにあらわしはじめようという気にもなれぬ。 そこでフカツさんの有害発言にここでイチャモンをつけることにする。 それでその気はすむのかなぁ、どうかなぁなどとおもいつつ。
     フカツさんの件を最初におれがしったのはツイッターでだった。 すでにふた月あまりにもなるであろうか、つぎのブログ記事をだれかがツイートで引用していたのをみてリンクをたどったのだ。

     このブログ記事のURLはつぎ。
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20190806/1565061050

     このブログ₌サイト名の法華狼はホッケ₌オオカミとよむのらしい。 このブログについてはこのときまでたぶんしらなかったはずだし、サイトぬしのホッケ₌オオカミさんもおそらく未知のひとで、このことではじめて知覚・認識したといえる、といってもあくまでネット上でだけのことだが。 しかしてこのブログ記事をよむかぎりでは、このホッケ₌オオカミさんは、この件───昭和天皇ヒロヒト軍用性奴隷制によってひどい犠牲をしいられた被害者女性たちをめぐる件───について正確な事実をきちんとしっている、すくなくともおれのあたまにある知識にてらすかぎりはそう判断できる。 このブログ₌エントリィはそういう文章でできている。 それはそれとして、フカツさんもツイッター₌アカウントがあることを、このブログ記事内で引用されたフカツさんのツイートをみておれはしった。 フカツさんのツイッター₌アカウントのユーザー名はこれだ→ @fladdict
     そこでこころみに、「慰安婦 from:fladdict」とか「少女像 from:fladdict」の文字列をキーワードにツイッター内けんさくしてみたところ、フカツさんのこれまでのさえずりに害あるといえる例がいくつかあった。 以下にそれらを引用してイチャモンをつける。 さえずりの引用はふるい順とする。 ぜんぶで7コのさえずりをまないたにのせる。

その1/7

     まず最初は時刻2013年5月12日(日曜日)23時19分のさえずり。

     このさえずりのURLはつぎ
https://twitter.com/fladdict/status/333828791342346240

     おれがこのエントリィでまないたにあげるフカツさんのさえずりはだいたいどれもつっこみどころがおおいが、これもそうだ。 ささいなこともかんじんなこともふくめてつっこみどころがおおい、おおすぎる。 詭弁やそのたぐいもいくつもふくんでる。 全体としてたいしたことをいっているわけではすこしもないのに、だ。 けれどもフカツさん自身は詭弁を自分がさえずったとはおもっていないだろう、単に無意識・無自覚にそれらをたれながしただけであろう。 いずれにしろこのさえずりにふくまれる非のすべてにいちいちくわしく論及していたら1コの堂々たる論文ができあがってしまう。笑 いや、まじで。笑 だからここではささいなことはほぼ全部すっとばし、ささいではなかろうとおれのおもうことだけにしぼってふれる。
     このさえずりでフカツさんがいいたいことの中心は、おれのことばでいう「モノサシちがい」という批判だ。
     「いまのあたりまえとむかしのあたりまえとはちがう。 戦地でのあたりまえとふつうの場所でのあたりまえもちがう。 なにがあたりまえかをさだめるモノサシがそれぞれにちがうのだ。 たいせつなのは、それぞれに応じたモノサシによって判断することなのに、この件ではそれがそのようには なされておらず、それぞれに応じていない くいちがったモノサシでものごとが判断されている。 そのせいではなしがかみあわず、まずいことになっている」
     と、まぁだいたいこんなようなことをフカツさんはおもっているのだろう。 こういう「モノサシちがい」という批判をフカツさんはこの件にあてはめて論評してこれをさえずったとおれはうけとめてる。
     だがフカツさんのこのさえずりは詭弁だとおもう。 どのように詭弁かをつぎにときあかすしだいだが、そのまえに1つ結論めいたことをいうのは、フカツさんがそうした詭弁やそのたぐいをなぜおもっちゃっているかのわけの推定だ。 ひとことでいえばそれは「事実にもとづいていないから」だとおもう。 事実に即していない。 事実から目をそむけている。 事実確認がない。 事実に無縁。……… この件について歴史学上でもすでに確定している基本的な諸事実さえフカツさんはたぶんほぼまったくしらずにさえずったんじゃないか。 それらをしっていれば絶対にだれもおもわぬこと・おもえぬことをもフカツさんはいくつもかきこんじゃってるからだ。 この見たてがあたっているなら、フカツさんのいうことが詭弁などになってしまうのもむりはないとおもう。 それを無自覚・無意識のしわざであろうとさっき上に推測したが、それもまた、事実に即してかんがえようとしないからおのずとそうなるのだとおれはおもう。
     ではフカツさんのさえずった詭弁のタネ・シカケをごくおおまかにだけだがときあかす。 おれのことばでいう「モノサシちがい」の批判をフカツさんがさえずったのが、なぜ・どのように詭弁か。
     それがいちばんわかりやすいだろうとおもえるのは、だまして慰安婦にしたという事例がいくらもあることだ。 被害者本人によるその証言がアジヤじゅうにたくさんある。 被害者本人だけでなく、慰安所を利用したがわのニッポン兵にも、慰安婦がだまされてきたと身の上ばなしにかたったのを当時きいたと証言するひとはたくさんいる。
     「だます」というおこないは、ひとごろしやぬすみなどとともに、はるか大むかしからいまのいままでずーっと一貫していつでも、さらには地上のどこのひとたちのつくる世でも「わるいこと」でありつづけてきている。 このことに異論・反論をさしはさむすきはあるまい。 ということは、すくなくともこれについてはモノサシはおなじ───すなわち<人権/倫理感覚>はおなじ───ということだ、モノサシちがいではないのだ。 <1940年代>であろうと、<2000年代>であろうと、また<戦争環境下>であろうと、平和環境下(?)であろうと、ひとをだますのはつねにわるいことだ。 あたりまえすぎる。 だからフカツさんは、あてはめてはならぬばあいに、あてはめてはならぬお説を、あてはめちゃってることになる。 そういう詭弁をさえずってるのだ。 ひとさらい、強制連行、監禁、集団強姦、性奴隷化などの犯罪についてまではあえてふれずとも、単にこの「だます」の問題だけで、昭和天皇ヒロヒト軍用性奴隷制というもののろくでもなさ・犯罪ぶりは、時代・年代のちがいにかかわりなく、このさきどんな世のなかがこようとも永久に、議論のよちなくあきらかだってはなしにも当然なる、ならざるをえぬ。
     というこの詭弁の証明ただ1つだけでフカツさんのさえずってるインチキぶりははっきり論証され確定しちゃうので、ひまでもなければこれ以上こんな有害ヨタさえずり批判のかきこみはよまなくていい。 もっとましなことにひまをつかうべきだとおれはあなたにおすすめする。 われでかきこんでおいてなんだといわれそうでもあるが。 まぁおれ自身はこんなひまつぶしがすきな変人なので以下もつづけるのだが。
     ねんのためにいうと、おれがいま上にかいた詭弁の証明をひっくりかえすには、「だます」ことが<1940年代&戦争環境下の人権/倫理感覚>で「ただしかった」「わるくなかった」「ゆるされた」「『あり』だった」ことを実証・確定すればよい、それだけですむ。 フカツさんでなくてもいいが、だれかにそれができるだろうか?


     さっきおれは

慰安所を利用したがわのニッポン兵にも、慰安婦がだまされてきたと身の上ばなしにかたったのを当時きいたと証言するひとはたくさんいる。

とかいた。 つぎに引用するウェブ記事で専門家がまさにそのことを明言してる。 ちなみにこのページはわりと最近にぐうぜんしった。

     このウェブ記事のURLはつぎ。
https://www.cyzowoman.com/2019/08/post_244183_2.html

     この研究者の明言はつぎのとおり。

 先に説明した通り、日本人「慰安婦」の中にはもともと売春に携わっていた女性が多いといわれていますが、 軍人の回想録や手記には「女性が『私は騙された』と話していた」といった記述がたくさんあります。ですから業者が騙して連れてきたケースが多々あったとみています。

     ねんのためにいえば、これとおなじ内容を公言する専門家はこのひとだけではまったくない。
     つまり被害者女性たちの戦後の証言と一致する内容のことを、おおくのニッポン兵たちが当の現地で当人たちから直接に当時きいたと証言しているのだ。 フカツさんは、おおくのこうした元ニッポン兵たちの証言をまさかウソよばわりはするまい? それともかれらをウソつきよばわりするだろうか? だまされて慰安婦にさせられたとしって彼女らを気の毒がったニッポン兵もおおくあったことも、かれらの証言からよくわかりもするのだが。 それにまた、自分が慰安婦になりたいとおもうような者でないことを身分証などの証拠つきで慰安婦にしめされたという意味の証言をした元ニッポン兵たちもある。 そりゃ気の毒がるはずだよね。
     当事者・体験者の証言をしることは事実にせまるための第1歩のはずだが、フカツさんはこの件の証言にどれだけふれた上でさえずっただろうか? 前記のとおり事実にもとづいていないから詭弁のたぐいにおちいるのだとおれはおもっている。
     なお、昭和天皇ヒロヒト軍用性奴隷制による加害をめぐる問題についての正確な知見・事実情報を適切に紹介しているウェブサイトはうえに引用したページだけではもちろんなく、けんさくすればネット内にまだいくつもみつかる。 それらのうちからこの記事を特にここにあげたのにたいした理由はなく、前記のとおり最近しったので記憶にあたらしいためすぐにおもいだしたからというぐらいのことにすぎず、他意はない。
     フカツさんのさえずった詭弁のタネやシカケのときあかしをつづける。
     フカツさんは、<従軍慰安婦問題は、1940年代&戦争環境下の人権/倫理感覚でおきた問題を、>うんぬんとかいてる。 つまり事実としてこの件があったこと自体と、この件が害ある<問題>だったこととの2点についてはフカツさんはちゃんとみとめていることがこの書きかたからわかる。 このみとめていることについてはなにもわるくない………というより、とてもまともなことだ。
     フカツさんによるこのさえずりの「モノサシちがい」批判にからんでひじょうにマユツバだとおれがかんじることの1つは、この件のことを何々<の感覚でおきた問題>だとフカツさんがかいていることだ。 この<感覚>というのは<人権/倫理感覚>とフカツさんはかいてる。 それがどうマユツバにかんじるかというと、人権のであれ倫理のであれ、またほかの何のであれ、およそ「感覚」というしろものがひとのあたまのなかにだけあり、そのほかは世界のどこにも宇宙のどこにもないものだってことはいうまでもあるまいところ、その<感覚でおきた問題>だというからには、ではそれは具体的にだれ(たち)のあたまのなかの<感覚>をさしてフカツさんがいったかをかんがえるとはっきりしてくる。 この<問題>がその<感覚でおきた>というのだから、この<問題>の直接の当事者であるつぎの4者はその<感覚>のもちぬしにあたるとかんがえねばなるまい、すくなくとも。
     (1)被害者女性
     (2)慰安所を利用したニッポン兵
     (3)慰安所の設立者・経営者(いわゆる「業者」)
     (4)昭和天皇ヒロヒト軍の責任者(大元帥ヒロヒト自身もふくむ)
     この4者のどれか1者が欠けてもこの<問題>は絶対になりたたない。 ぎゃくにいえば、この4者さえあればこの<問題>はいつでもどこでもおきうる。
     で、この4者のあたまのなかの<人権/倫理感覚>をひとくくりにまとめてそれ<でおきた問題>だとこの件をいいあらわすのは適か不適か、あるいは当か否か? という疑問をおれはいだくので、この疑問にこたえようとするにつけマユツバをかんじるというわけ。 そんないいあらわし方ではこの<問題>の<おきた>責任が、まるでその4者の全員に公平に等量ずつあるかのようだ。 被害者も加害者もいないようなはなしにすらなりかけてるっぽいし、そもそもこの<問題>自体がないというはなしにさえつうじていきそうな気配までかんじられてくる。 まゆつばのほかではない。
     要するにこの件を何々<の感覚でおきた問題>だなどとするとらえかた自体が事実としてはなりたたぬことなので、バカバカしい詭弁になってる。 この詭弁を土台にしてさらに<2000年代の人権/倫理感覚で評価するから>うんぬんという「モノサシちがい」批判をくみたててみたところで、どだい詭弁にしかならぬのはあたりまえだ。
     それともフカツさんのいう<感覚>のもちぬしには被害者女性はもとよりふくまれておらず、上記の4者のなかの(3)業者と(4)軍責任者ぐらいだけとかのはなしだったのだろうか? そういうつもりでフカツさんがもしもさえずってて、当時の現地でのそのひとたちだけのあたまにそなわる<感覚でおきた問題>なのだから、2000年代のいまのわれわれのではなく、それに応じたモノサシではかってわれわれはおおめにみるべきだみたいな意見をさえずったのだとすれば、これはもうハナから当の被害者を100%シカトするかんがえになっちゃってるわけで、はなしにも何にもならぬことになるのだが。 そのへん、どうなのか?
     何々<の感覚でおきた問題>とこの件のことをかいたとき、そのかいた表現が事実としてはどんな意味になるかまでをフカツさんはたぶん何もかんがえなかったんじゃないかとおれはおもう。 つまり事実に即していない、事実とは無縁、事実にもとづいていない、だからこういう詭弁におちいるのだとおもう。


     このさえずりの詭弁ぶりをあきらかにするきり口はまだいくらでもあって、すべて書きつくしていたら前記のとおり堂々たる批判論文ができあがる。 そんなことはやっておれぬ。 あと2-3にとどめる。


     「だます」という悪行に上記の意味での「モノサシちがい」という批判はあたらぬとのむね前記したが、奴隷化・性奴隷化という悪行もそれとおなじで、いつどこの世でも悪行なのでモノサシちがいにならぬというのは、あまりにもひどいあつかいに悲観して自殺する慰安婦もいたとの証言がこれまたあっちにもこっちにもたくさんあることだ。 フカツさんのいうとおり<1940年代&戦争環境下の人権/倫理感覚>というものがいまのそれとちがってて、奴隷化・性奴隷化も当時の現地でのその<倫理感覚>ではおおめにみられるものだったなら、なぜ自殺するおんなが続出したかの説明がつかない。 なにしろ<倫理感覚>がそもそもちがうのだから、おんなもその<倫理感覚>にしたがってなきゃおかしいことになるので、奴隷あつかい・性奴隷あつかいも悲観するはずがなく、〝まぁまぁこんなもんだろぅねぇ〟とか〝可もなく不可もなくってかんじィ?〟とか〝ふつうだね〟〝まずまずかなぁ………〟などとおもうだけであり、反発どころか異和感もおきまい。 <人権/倫理感覚>がちがうとはそういう意味だ。 ここでもフカツさんは、かいてる内容が事実としてはどんな意味になるかをおそらく何もかんがえずにさえずったんじゃないか。
     <人権/倫理感覚>の字句・文言でフカツさんがいおうとしたことは、たしかに、時代によって、お国がらなどによってまちまちであり、ときには大差のあるばあいもあるとおれはおもう。 だが反対に、どの時代どの民族であろうとかわらずおなじであることもがそれにはたくさんある、なければこまる、当然だ。 前記のとおりひとごろし、ぬすみ、だますなどはそれであろう。 ではおんなのあつかいについてはこの面にかかわってフカツさんはどうおもうであろうか? ということを、フカツさんはやはりなんにもかんがえずにさえずったのではないか?
     まだ15にもならぬガキもふくむわかいおんなどもを、あるいはだまし、あるいはさらうように強制連行してきて、自力では絶対にもどれぬとおい異国にその身がらをうつし、きわめて非人間的な環境下に監禁して、何人もの───ばあいによっては2けた台の人数にもなる───異国・異民族の兵士どものなぐさみものに毎日させる、しかもうむをいわせぬ強制すなわち強姦でだ。 こんなふうにおんなをあつかうことが、たとえ戦地であろうと、いつどこの世であれば<人権/倫理感覚>として「わるくない」「あり」「ゆるされる」ってことになるのか。 われわれホモ₌サピエンス30万年たらずの歴史上に地球上のどこかに1どでもそんなことがありえたのかとさえおれにはいいたくなるほどだが?


     昭和天皇ヒロヒト軍用性奴隷制の加害問題とははなしがややズレるが、大日本帝国 陸軍の武官で日中戦争の当事者のひとりでもあるところ、岡村 寧次【おかむら・やすじ】という将軍がいた。 昭和天皇ヒロヒト軍が敗戦のとき外地に出兵していたのは全部で3つの兵団だったそうだが、そのうちの1つ支那派遣軍の総司令官をこのオカムラ将軍はつとめた。 戦史に関心のあるひとたちには有名な将軍のようだが、軍用性奴隷とおなじく戦時性暴力犯罪としての強姦が昭和天皇ヒロヒト軍にあまりにもおおい上にたえないことを深刻に憂慮し、しまいに「戦地強姦罪」というあらたな刑罰をつくれとの主張をオカムラ将軍はするにいたったそうだ。 それでけっきょくこの罪は1942年にじっさいにつくられたという。 この将軍とそのへんのことについては「岡村寧次+戦地強姦罪」などをキーワードにネットでけんさくすればくわしいことをかいたウェブサイトがいくつもみつかる。
     上記の4者でいえばオカムラ将軍は(4)軍責任者のひとりであり、戦時性暴力犯罪の強姦犯人たちは(2)ニッポン兵に属する。 戦地強姦罪をつくれと主張したオカムラ将軍のあたまのなかにあったのも、また、オカムラ将軍を憂慮させつづけた強姦犯人であるおおくのニッポン兵たちのあたまのなかにあったのも、ひとしく<1940年代&戦争環境下の人権/倫理感覚>だったわけだが、ひとくくりにできるのか? と、そういうはなしである。 おなじ昭和天皇ヒロヒト軍に属している者どうしでありながら、それだけの差がある。 「差」などというものではない、敵対しあう関係でさえも両者はあろう。 とてもその<感覚>をひとくくりにはできるまい。 フカツさんのさえずりはそれをひとくくりにした書きかたになってる。 昭和天皇ヒロヒト軍についての事実をろくにしらずにさえずるからそうなるのではないのか?

その2/7

     つぎは時刻2013年5月13日(月曜日)8時13分のさえずり。

     このさえずりのURLはつぎ。
https://twitter.com/fladdict/status/333963322766524416

     <橋下さんの「慰安婦は必要」ってのは乱暴な表現だけど間違ってはいない。>とフカツさんがいっていることについて。
     このなかの<橋下さんの「慰安婦は必要」っての>というのは、より正確には、例の橋下 徹【はしもと・とおる】が発言して世をさわがせた〝戦場では慰安婦は必要〟という意味のことばであろう。
     それを<間違ってはいない。>とフカツさんはきっぱりいいきってるけど、そういいきれる根拠がフカツさん自身になにかあるんだろうか? フカツさん自身に戦場での戦闘経験があるのか? 根拠らしい根拠など何もなく、単なる憶測か空想・想像にもとづいてそういってるだけなんじゃないの?
     というのも、報告されている戦場や軍隊でのさまざまな事実・事例をかんがえあわせると、〝戦場では慰安婦は必要〟という説はどうも単なるまちがいでなければウソとしかおもえぬからだ。 つぎに2ページぶんを引用するウェブ記事は、さっき上に引用した記事とおなじ筆者でおなじシリーズに属する記事だが、べつのものだ。 このなかに、ハシモト発言がまちがいでなければウソであることを証明しているとおもえる事実がいくつかかいてある。

    このページのURLはつぎ。
https://www.cyzowoman.com/2019/08/post_242364_4.html

     このページのURLはつぎ。
https://www.cyzowoman.com/2019/08/post_242364_5.html

     これらのページにつぎの3つのことがでてくる。
     (A)慰安所を利用しなかった兵士もひとりやふたりではなくあった。
     (B)兵隊は初年兵のうちは性欲に無関心だった。
     (C)慰安所は利用しても性行為をせずに自由時間として利用していた兵士がすくなからずいた。
     ハシモト発言を<間違ってはいない。>といいきるフカツさんは、これらの諸事実をどのように矛盾なく説明できるだろうか。
     しかも戦場での激烈な戦闘に従事しながら強姦もなければ性欲処理のための軍施設も軍制度ももたなかった軍隊はむかしから世界に実在しており、この意味でもハシモト発言は事実ではないので、まちがいかウソかのどっちかといわざるをえない。 フカツさんも、世界の戦史上・軍事史上のこれも初歩に属するそれらの事実をしらないんじゃないの?
     おもうに、戦時であれ平時であれ、単に本人がその気になりさえすれば、性欲なんていつでも適切に処理できるぐらいのことなんじゃないのか? ちがうのかな? なんか〝戦争と性欲〟あるいは〝戦闘行動と性欲〟についてのヘンな〝ロマン〟があるよね。 なんなんだろうね、この〝ロマン〟。 いうなれば〝いくさばの性欲ロマン〟とかか? なんかどうにもクソふざけたかんじがするんだが。
     つぎに<占領地でのレイプを防ぐ為に、娼館を一括借り入れしたり従軍慰安婦制度を導入するってのは、>うんぬんのくだりについて。
     これについてはいま上に引用したページの、それよりまえのつづきにあたるつぎのURLのページにまさにドンピシャの反論になってる指摘がでてくる。

     このページのURLはつぎ。
https://www.cyzowoman.com/2019/08/post_242364_3.html

     その指摘の部分は以下のとおり。

――本来は現地での強姦事件を抑止するために設置された「慰安所」ですが、まったく強姦が減らなかったという事実にも驚きました。

平井氏 「慰安婦」に対価を払う慰安所が設置されたことで、兵士たちは「軍が買春を公認した」と思い、それなら「タダでやれる買春」(レイプ)もやっていいだろうと、かえってレイプ事件が増加したと言われています。慰安所は、強姦の歯止めにはならなかった。

     もう1コ、うえのほうでいちばん最初に引用したウェブ記事のページにもおなじ指摘が、こっちはべつの面からの説明をともなってつぎのとおりかいてある。

――日本軍が「組織的に」慰安所を設置したというのが、国際的にも問題視されるポイントですね。

林氏 日本軍の場合は、陸軍海軍の中央部が仕組みを作った上で、現地では物資の補給などを管理する後方支援の部署が慰安所の設置と運営を行っています。後方支援担当ですから最前線ではなく、軍の支配が安定した都市部に慰安所を作る。すると前線にいる兵士は、「都市部にいる兵士は戦闘もせずに、慰安所で楽しんでる」と不満を募らせ、戦地で女性を拉致してきては集団で強姦し、監禁して慰安所のようなものを作っていく。要は軍が慰安所を設置したために、性暴力がどんどん促進されていく。そこが問題なのです。

     上記と重複するが、この記事のURLをねんのためもう1どここにかいておく。
https://www.cyzowoman.com/2019/08/post_244183_2.html

     これらのウェブ記事に指摘されているこの事実は、ウェブ上にだけでなく、これまでに公刊された関連書のどれかにもかかれたばあいがあるとおもうが、具体的なその書名をいまあげれぬのがおしい。 しかし書名はあげれぬが、前記したホッケ₌オオカミさんのブログ記事にもまさにこの指摘事項が、ここではUSA軍のばあいについてつぎのとおりかいてある。

しかし慰安所を開設すれば性暴力を抑制できるという発想は、必ずしも現実的とはいえないし、当時においても反論が存在していた。

たとえば、1941年時点の米国で公娼制が「性的乱交をまし、性的残忍性と堕落を培うことによって性的犯罪を促す」という見解があったことや、1917年の米陸軍省が「見境のない性交渉を刺激することにより女性への犯罪を増加させる」という見解をもっていたことが確認されている。

     うえに引用したサイゾーウーマンの複数のウェブ記事の指摘内容そのものズバリといってこれはいいであろう。 昭和天皇ヒロヒト軍でもUSA軍でも、戦地で軍が容認する公娼制は、そこの兵士たちにおなじ結果をもたらしたのだ。
     すなわち売春宿や慰安所を軍当局が戦地に用意することは現実には予期を正反対にうらぎって、戦時性暴力で残酷としての女子住民の強姦という犯罪に兵士をかりたてる役目をはたす。 いくさばのリアリズムのこれが1つなのであろう。 だがこのことはすでにだいぶまえから世にいわれているのであり、多少ともこの方面に関心のあるひとはシロゥト衆でもよくしっていることだ。 そんなことでフカツさんはひっかかっちゃってる。
     この方面の問題はなにしろ微妙なことだらけなので、関係あることをおおっぴらに発言したければ、やはりあるていど以上は本格的に勉強してからにするほうが、だれであれいいとおもう。 ネット上に実名・顔さらしの身のうえにあるひとならばそれはなおさらで必須ってぐらいではなかろうか。
     空想や想像ではないこうしたいくさばのリアリズムにいささかでもふれてみれば、フカツさんがこのさえずりのあとのほうにつづけていることどもすなわち<指揮官がちゃんと仕事してる>うんぬんだの、<慰安婦なり娼婦なりの確保方法に問題があったかどうか>と<慰安婦の是非とはまた別>だとかといった論評が、いかにあたまでっかちのズレたトンチンカンのお説にしかならぬものかをフカツさんご自身もよく自覚なさるであろうか。

その3/7

     時刻2013年5月13日(月曜日)8時22分のさえずり。

     このさえずりのURLはつぎ。
https://twitter.com/fladdict/status/333965495726387202

     フカツさんのこのさえずりも、いくさばの現実をしらぬあたまでっかちのズレたトンチンカンな妄説にすぎぬことは、ここまでにかいてきたことからあきらかであろう。
     それとはちがうはなしだが、このさい1ついっておく。
     フカツさんは、<現代の感性では「従軍慰安婦はよろしくない」というのは正しい>うんぬんといっているが、ほんらいの意味での慰安婦は従軍のそれであってもすこしもわるくないので、わるいのはその内実が奴隷・性奴隷だったからだ。 ここはまちがえてはいけないところだ。 したがっていま現在でも、外地にでている軍隊にくっついて営業するというまさに従軍のかたちで戦地でしごとをする性愛サービス業者がもしいても、その内実として、勤務・就労のあらゆるすべての部面においてその業者の全員が完全無欠に自由意思にもとづいてて、かつ職場環境・労働環境においても全面的にたった1つの例外もなく合法でまったく問題のないありようをもってどの局面でもどの瞬間にも経営・業務遂行されているのであれば、そしてこのばあいの末端労働者のおんなを「慰安婦」の名でよんでいるとすると、これならわるいことはなに1つないのだ、この仮定したばあいに問題はいっさいない。 だから大日本帝国でもすべての慰安所をこの仮定のばあいとまったくちがわぬものとして運用・経営すればよかっただけのことである。 この仮定のばあいには奴隷・性奴隷はおのずとなりたちようがないからだ。 一般に軍用性奴隷制問題の本質とは要は単にこれだけのことなのだといういいかたもなりたつであろう。 大日本帝国はこの件でとりかえしのつかぬ全面的な大失敗をアジヤじゅうで大々々………的にやらかしまくっちまったのだ。
     問題のこの意味での本質を、<現代の感性では「従軍慰安婦はよろしくない」というのは正しいけど、>とかいてるフカツさんは、ちゃんとわかっているだろうか。

その4/7

     時刻2013年5月13日(月曜日)8時32分のさえずり。

     このさえずりのURLはつぎ。
https://twitter.com/fladdict/status/333967881211637760

     よくもまぁこんな恥しらずの内容をさえずれるもんだと、いわば〝逆感心〟させられる。 問題の所在がフカツさんにはまったくわかっていないことをこのさえずりは証明してる。 この件の本質はほかでもない、大日本帝国のやらかした巨大規模の残酷・非人道に対するけじめの問題だ。 この種のことに<自動で解決>なんていうおめでてぇデMパお花ばたけはありえねぇでしょぅよ。
     韓国が最後に戦争したあいては朝鮮戦争での北韓+シナ国じゃないの? ちがうかなぁ? あるいはUSA軍にくっついてベトナム国に海外派兵したときのベトナム人民解放軍とが最後だったともいえるのかな? そのへん、どうなのか。 いずれにしろひたすら一方的に大日本帝国に侵略されてその属国というか植民地になってたんだから、朝鮮(=北韓+南朝鮮)国とニッポン国とはそもそも交戦していないわけだが?
     中国が最後に戦争したあいては朝鮮戦争での南朝鮮+USA国じゃないのかなぁ? そのまえは国共内戦+社会主義革命という大激突を国内でしていたわけで、抗日戦・対日戦はさらにそのまえの戦争ってことになるんじゃないの? ちがうかなぁ?

その5/7

     時刻2013年5月13日(月曜日)9時06分のさえずり。

    このさえずりのURLはつぎ。
https://twitter.com/fladdict/status/333976478645641219

     だれかに対する返信のさえずり。
     上記のくりかえしだが、いくさばのリアリズムとはほどとおいあたまでっかちのズレた現実ばなれと無知とにもとづいてだれかとやりとりしているらしいことが字句・文言からよみとれる。 論外で不毛のやりとりにしかなりえぬであろうよなぁとおもうばかりなわけだが。

その6/7

     時刻2014年6月20日(金曜日)21時14分のさえずり。

     このさえずりのURLはつぎ。
https://twitter.com/fladdict/status/480202102744940544

     矢じるしのゆきつくさきが<慰安婦問題>になってる。 ということは、その問題が<トンデモナイとこ>ということにフカツさんのあたまンなかではなっているのらしいな。 だがそもそもそれのなにがどのように<トンデモナイ>のであろうか。
     だいたいフカツさんはなにを心配なさっているのか、それもよくわからぬ。
     <倍プッシュ>がなんのことかもよくわからぬし。
     セクハラ議員問題で火のついた世論がだんだん話題をひろげてゆき、やがて、昭和天皇ヒロヒト軍用性奴隷制によってひどい犠牲をしいられた被害者女性たちをめぐる件にまでいたりついて世にこれがさわがれるようになることをフカツさんは<トンデモナイ>とおっしゃるのでもあろうか。 もしもそうならフカツさんのほうこそがトンデモナイとおれはおもう。 なぜならああいう巨大な非人道的犯罪にけじめをつけさせようとする情勢への全面的拒否感の表明がこのさえずりってことになるからだ。 なんでそのけじめ要求を全面的拒否なのかっていうはなし。 とんでもねぇことだ。 それともなにかべつのことが<トンデモナイ>ってことなのか。 どうなのか。

その7/7

     時刻2014年8月4日(月曜日)19時56分のさえずり。

     このさえずりのURLはつぎ。
https://twitter.com/fladdict/status/496489926624428033

     わずかな字句・文言のみじかいさえずりだが、たったこれだけで、この件の初歩の事実にもフカツさんが無知であることがここでまた証明されちゃってる。 朝日新聞の例の記事とりけしの趣旨は<「慰安婦嘘でした」>ではない。 このことは上に引用したホッケ₌オオカミさんのブログ記事にも指摘されてる。
     とにかく、ごく基本的な事実にさえこれほど無知でありながら、この件についてしばしば何ごとかをいわねばフカツさんは気がすまぬものらしい。 おれにはそれがナゾ。 そんなに興味があるんなら初歩的事実ぐらいはやがて正確にしるものではなかろうか、ふつうは? これほど徹底して本質的に関心がない件であるのにかかわらず、こうもしばしば何ごとかをいいたがる。 この態度はどういうことなのか。 と、まことにナゾめいておれにはみえる。
     想像でいうのだが、この件にかかわって事実にもとづかぬ妄説を、ほかならぬ自分自身にむかってこそムリにでもいいきかせつづけねば、精神のどこかの重要な部分がフカツさんはぐらついちゃうんじゃないか? その内心がぐらついてあやうくなろうとするのをふせぐ衝動がおきて、この内心ぐらつきふせぎ衝動が、ここまでにみてきたような妄説の有害発言となってあらわれてきてるってことなんじゃないの?
     もしもこの見たてどおりなら、そのぐらつく精神の部分にこそフカツさん自身がかっとうをもってとりくまねばならぬことがひそんでいるのであろうとおれはおもう。 事実と無関係な妄説によってでなければたもてぬ精神など本質的にはすでに破綻・崩壊・腐敗しているのだ。
     とはいうものの、これ以上個人的なことにまでふかいりしてあれこれここでいうつもりもおれにはない。 フカツさんがこのさきどうされようとカラスのかってだ。 それに、前記のとおりこれは単なるおれの想像でいってるだけのことなので、フカツさんのナゾの態度の真相はおれの見たてとはぜんぜんちがうかもしれないんだしね。 ただ何となくそんな<気がする。>ってだけでさ。

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