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東村芽依1st写真集『見つけた』から読み解く”めいわーるど”の存在性について



はじめに

 東村芽依(Mei Higashimura)はアイドグループ「日向坂46」の一期生である。奈良県出身。愛称、めいめい、めいちゃん、めいちご、やんちゃる、やんちゃるめいちゃん、猫、等々。様々な呼び名をもつ彼女であるが、冠番組等においても決して口数の多いわけではない彼女について、我々の知りうる知見は限られている。卓越した身体能力、奈良のチーター、五歳児、涙もろく、ピンクでかわいいものが好き。パブリックなイメージを挙げるだけならば可能だが、それだけで彼女のキャラクタ・パーソナリティを知るには不十分であることは否めない。そこで、2022年9月に発売された1st写真集『見つけた』である。この写真集は彼女の視点(物理的な意味でも、思考的な意味でも)を理解するのにこの上ない作品であると考え、本論は写真集『見つけた』を読み解きながら、写真集のテーマである"めいわーるど"ならびに東村芽依本人についての理解に迫ろうという試みである。無論、写真集の方がいくらインタビュー記事や本人ブログの文字情報に比べて(文字通り)解像度が高いといえど、一冊の写真集からそのすべてを理解するのは到底困難な話である。そのため内容には筆者(すなわち私)の主観的な解釈、妄想、矛盾、整合性のなさ、猫、ファンタジーが入り込むことは否めないが(むしろそのすべての可能性が高い)、その点はご容赦いただきたい。制作陣の意図していない解釈があるとすれば、その責任はすべて筆者にある。

東村芽依1st写真集『見つけた』

写真集『見つけた』と時空超越性

坂道グループ史上、最もファンタスティックな写真集!

やんちゃでかわいい素顔から、ピンク一色のメルヘンな空間、そしてはじめて見せる無防備な姿まで、現実とファンタジーが織りなす世界・めいわーるどの住人となって、不思議に包まれた"めいめい"の生態を覗き見ることができる一冊。

 これらは『見つけた』の帯に記載されているものである。
 『見つけた』のロケーションは出身地の奈良から、福岡、長崎、東京(のスタジオ)と多岐にわたる。一冊の中でストーリー的な連続性は見られず(あるいはその比重は小さく)、いちご狩りのシーンからスタートしたと思えば、奈良公園で鹿と戯れ、遊園地でお姫様ドレスを着こなし、シックなブラックのドレスも着こなし、優雅にティーパーティを愉しみ、奈良の夜の街を闊歩し、ススキ野原を元気に駆け巡る。ページをめくる度に彼女は世界と世界の間を自由自在に飛び越え、どこにでも現れる。日常と非日常の間を縦横無尽に飛び越える。特定の座標を持ち合わせず、あらゆる場所に出現する。我々は東村芽依に翻弄されるがままであり、また目を離した瞬間に、ねこだましのように忽ち消えてしまう。
 さらに。東村芽依は猫である。この点については異論はない。本人が猫だというのだから猫なのである。猫であり、アイドルであり、また『見つけた』の中ではウサギにもなりイチゴにもなり妖精にもなる。そのどれもが等しく彼女であり、あるいはどれも彼女を言い表すには不十分であるともいえる。なるほど「ファンタスティックな写真集」とはそういうことなのか、と我々は納得するほかない。五歳児でありながら24歳(写真集発売当時)でもある。猫でありながら人間でもある。幼さと艷やかさのその両方を抱えて写真の中で微笑む彼女に、一切の矛盾はない。我々は狐、いや、猫につままれたが如く事態は混乱を極めるが、彼女には無関係である。この時空超越性こそが彼女の本質であり、"めいわーるど"の構造なのかもしれない。

「私は猫です」(『日向坂で会いましょう』2020年7月13日放送)

「見つけた」のは誰か

 ところで、ここで一つの疑問が浮かび上がる。写真集のタイトルにもある「見つけた」の主語は誰なのか。一般的に考えるならば、それは読者である我々のことを指すだろう。しかし、(写真集を読む側としての)観測者である我々は気まぐれな彼女に振り回され、現実と非現実の間を行き来することとなるのだが、そこで我々はふと気づくのだ。"めいわーるど"は彼女をとりまく空間そのものであり時間そのものであり彼女自身であり、そしてそこに我々は存在していないということに。写真集『見つけた』において、彼女の存在する世界は彼女だけで完結する世界であって、観測者はあくまで観測者のままなのだ。あるいはそれすらも観測者の幻想にすぎないかもしれない。ファインダー越しに笑顔を見せる彼女に対し、ページをめくる我々は、さも自身を彼女の観測者だと信じている。しかし、その前提は脆く容易に崩れる。観測者の有無に関わらず"めいわーるど"は存在し、東村芽依は存在し、無邪気に微笑んでいるわけで、あるいは観測者である私たち自身が彼女が作り上げた"めいわーるど"の内包するオブジェクトの一部である可能性すら無視できなくなる。観測者と対象である彼女との関係はたちまち逆転し、シュレーディンガーの思考実験はこうして意味をなさなくなる。果たして、"めいわーるど"とは一体何なのか。「見つけた」のは本当に我々なのか。禅問答のような堂々巡りに終わりは見えない。

めいわーるど仮説

 では、そんな彼女の織りなす”めいわーるど”は、我々が認識できる世界なのか。我々の存在する世界とはどのように関わり合っているのか。堂々巡りのままでは話は一向に進まないため、この命題について、現在最も有力だとされている「めいわーるど仮説」を紹介するとともに、筆者は新たな仮説を提唱することを試みた。

複素数的に存在する(現在のめいわーるど仮説)

 現在有力な「めいわーるど仮説」は、「"めいわーるど"が複素数的に存在している」というものである。前項にて、シュレーディンガーの思考実験は根本から意味をなさなくなったことを述べたが、この仮説ではそのシュレーディンガーによるシュレーディンガー方程式を適用したものである。もちろん、シュレーディンガー方程式はあくまでも光子や電子といった素粒子の存在についてを対象としたものであることは承知している。運動量を決定しようとすれば、虚数iや定数を含む「ハミルトニアン」とも呼ばれる演算子を「複素共役の波動関数ではさんで積分」しなければならない(いくつかの物理量のあいだの関係はひとつに定まるものではない)。あまりにも複雑怪奇なこの方程式の説明は筆者の手にも余るため他に譲るとして、注目すべきは「シュレーディンガー方程式には虚数iが含まれている」という点である。iは誰もが知っているように、√-1=iとして定義される数である。虚数iは、imaginaryのiであることからもわかるように、想像上の数であり、実数のように実際の大きさをもたない(見えない)数である。虚数と実数は数学的な座標軸としては、原点0において直交する。言い換えれば、0は実と虚が交錯する交差点であるといえる。想像上の世界(虚数)が、実数世界と交わる原点において初めて認識できるのである。これを適用したものが現在の「めいわーるど仮説」である。 
 実数と虚数を座標軸上に表そうとした際のオペレーションを、同様に"めいわーるど"についてもほどこしてみよう。この際、実軸は我々の存在する世界であり、虚軸が"めいわーるど"であるとする。すると、我々の存在する世界から"めいわーるど"は通常は認識することができないが、唯一、原点においてのみ認識が可能となる。この原点であり2つの世界の交差する点とは何か。そう、これこそが、1st写真集『見つけた』なのだ。すなわち、『見つけた』を介することによって、初めて"めいわーるど"が現れる(認識可能となる)。無論、我々が認識できようができまいが"めいわーるど"は存在しているわけであるのだが、このように、"めいわーるど"を次元が交差する複素数的なComplex Worldとして理解しようと試みたものが、現在の「めいわーるど仮説」である。

図1. 複素数的に存在する"めいわーるど"のイメージ


主体によって構築される(新めいわーるど仮説)

 この強力な「めいわーるど仮説」に対し、新たな仮説を提案してみるとする。
 ドイツの生物学者ユクスキュル(1864~1944)は、客観的な物理的環境である「環境(ウンゲブンク)」と、それぞれの生物種がその場で経験する世界「環世界(ウンヴェルト)」とを区別して考えた。これは、生物によって経験する環境自体は同じあっても認識の仕方が異なるというアイデアである。例えば、同じ野に咲く花であっても、ウシのとっては反芻し消化する食物であり、ミツバチにとっては花粉を生み出すものであり、子どもにとっては摘み取って部屋に飾るための綺麗な花と認識されている。世界はそれぞれの主体にとって異なる意味を持つものであり、また主体なしには世界は存在しえないともいえる。
 生物種間での世界の認識の違いは、生物種間の場合のみならず、人間の間でも適用できるだろう(いや、東村芽依は猫なのだから、生物種間のままで良いかもしれないが)。我々が認識している世界と彼女の認識する世界自体は重なっているのだが(物理的環境は同じであるが)、主体である彼女の存在よって初めて"めいわーるど"が出現する。そのため、根本的に我々には認識することのできない世界であるといえる。

図2. 主体(東村芽依)が存在することで"めいわーるど"が構築される

 では、同じ物理環境世界を生きているの関わらず、我々と東村芽依の認識する世界の違いはどこから生まれてきたのか。ここからはあくまで筆者の想像の域なのだが(ここまでも筆者の想像の域であることはおいておく)、ここで、東村芽依の卓越した身体能力について注目してみることとしよう。前述したように、東村芽依はグループ内において優れた身体能力を誇っている。中学生時代はカラーガード部に所属し、そこで身につけたライフル回しは特技として『ひらがなおもてなし会』でも披露している。『KEYABINGO!3』では長時間笑顔で踊り続けるという持久力の高さを見せている(2017年7月25日放送)ほか、『ひらがな推し』(『日向坂で会いましょう』の前身番組)では、「メンバーが選ぶダンスが上手いメンバーランキング」で1位を獲得している(2018年10月1日放送)。さらに『日向坂で会いましょう』では「KASUKE」を軽々とクリアし(2022年2月14日放送)、また「軍団対抗真夏の大運動会」では最終競技の軍団対抗リレーにて、大まくりから見事チームを勝利に導いた(2023年8月28日放送)。なお、『SASUKE』には2021年より3年連続の出場を果たしている。
 この彼女の身体性こそが"めいわーるど"の認識・構築に関与しているキーではないかと筆者は考えている。
 我々は通常、感覚器官(見る、聞く、嗅ぐなど)によって情報を知覚し、世界の仕組みや構造を理解するようになったと考えている。しかし、それらの前段階に、身体の運動スキルが必要となる。例えば、生まれたばかりの乳幼児は自らの体を動かし、ものに触れ、地を這うことによって、この世界には触れられるものがあり、噛めるものがあり、転がせるものも曲げられるものもあることに気づいていく。周囲の世界の探索方法をだれに教わることもなく、体をつかい、遊ぶことから徐々に経験するのである。すなわち、身体の運動スキルは世界を認識するのに不可欠な要素であるといえる。
 また、身体の運動スキルに応じて、世界は拡張(あるいは縮小)される。例えば、同じ距離であっても、健康な人と不健康な人では距離の感じ方は異なるということを我々は経験的に知っている(普段気にすることのない駅までの道のりが病気のときは遠く感じる)。であるとすれば、健康優良児である東村芽依にとっての世界の受容の仕方もまた、我々とは異なっていると考えられる(もちろん我々の中でも異なっているだろう)。
 最近、興味深い動画がアップされた。2023年の『SASUKE』に挑戦に向けた練習動画であるが、動画内でトレーナーの日置氏は彼女について「徐々に難易度を上げていく練習方法と、いきなりここっていう難関を与えるタイプだったら、徐々にタイプじゃなさそう」と感想を述べている(11分13秒頃〜)。まさにこのコメントに集約されている。東村芽依はその身体性を存分に活かし、クリエイティブな霊感に従い、自分の世界を跳ね回ることで、世界を受容し"めいわーるど"を構築しているのかもしれない。  


結びに

 本論では、東村芽依1st写真集『見つけた』を読み解き、紹介をしつつ、写真集のテーマである"めいわーるど"について、その存在性を考察してきた。この試みが成功だったかどうかは読者の判断に委ねるしかないが、最後に東村芽依センターの日向坂46一期生曲『どうする?どうする?どうする?』(5thシングル『君しか勝たん』カップリング曲)の歌詞の一部を記載しておこう。

答えは出ない
どんなに考えたって解決できるわけないじゃない?
世界一難しい問題 悩みのタネ
答えは出ない
誰かに聞いたって教えてなんかくれないわ
だって何が正しいかなんて
みんな自分で決めなきゃダメよ

日向坂46『どうする?どうする?どうする?』

 そうなのだ。結局のところ、"めいわーるど"についても、明確な答えというものは存在しないのかもしれない。仮説は仮説に過ぎず、"めいわーるど"という世界について考えることも不毛なことかもしれない(ここまで述べておいて、大どんでん返し的な結論である)。しかし、そんなこととは無関係に東村芽依は元気にこの世界を生きていていることは紛れもない事実である。そして、彼女の表情やパフォーマンス、その他一挙手一投足が我々を魅了し続けていることも、疑いようのない真実であろう。

不要なあとがき

 はじめまして、しばいぬ(@sibainu_08)と申します。今回はしとさん(@skt4060)のアドベントカレンダー企画に「なんだかおもしろそう!」と思い、図々しくも、参加させていただきました。普段は別のブログにて、日向坂のライブを観た感想文や、それ以外のことも書いております(あまりにもジャンルがバラバラのため、専用のnoteとして初めて投稿しました)。
 どのようなテーマについて書こうか悩み、この他に、
・『月と星が踊るMidnight』MVおよび歌詞と人類の他者との「つながり」の歴史の相似性
・『川は流れる』のライブパフォーマンスからみる生命体の脈動

 などといったテーマを考えたのですが、結局「東村芽依ちゃんの写真集めっちゃ良いよね!超可愛い!」という話を書かせていただきました(嘘かと思われるかもしれませんが、本当にそういう記事を目指しました)。2023年12月現在にも関わらず、2022年発売の写真集について取り上げてしまったのですが、突拍子もないことを突拍子もなく書くのはとても楽しかったです(ただし門外漢の話にまで手を出してしまったので頭が爆発しそうでした。記述した内容に誤り等がありましたら申し訳ございません。あくまでフィクションとして読んでいただければ幸いです)。稚拙な文章となってしまいましたが、最後まで読んでいただき(そんな稀有な方がいらっしゃいましたら)、ありがとうございました。

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