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『Am I Ready?』かわいい

ライブにおけるアムアイレディ体験

 ライトアップされたメインステージ。軽快なBGMとともにステージに登場した上村ひなのは、淡いパステルカラーが特徴的な襟付きのワンピースドレスを着ている。まるで50年代を想起させるようなクラシカルなデザインで、ドレスの縦縞模様といいヒールといいソックスといいカチューシャといい、全体がバランスよくまとめられている。上村ひなのはステージ上で何かを探すように当たりを見回しているが、やがて(ステージに設置された)ベンチに腰を掛け、そこで見つけた双眼鏡を手に取り客席を覗き見る。双眼鏡からの視界には当然ながら観客席が広がっているのだが、突如、そこに現実には存在しないはずのモノが現れる。ぬいぐるみやラムネ、太陽、メロンパン、アイスクリーム、金魚などが次々と出現し、客席だけだった景色はいつの間にやら賑やかな世界へと変貌を遂げている。その光景に満足したのか上村ひなのはベンチから立ち上がり、メインステージにスタンバイしていたメンバーの元に駆け寄る。そして、このツアーの(アンコール前の)ラストナンバーである、日向坂46の10枚目シングル、上村ひなのセンター曲『Am I Ready?』のイントロが始まる。曲が始まると、上村ひなのは気球に乗り込み会場をふわふわと漂いながら客席に手を振っている。前方から後方へ、後方から前方へ。その一方で地上に残されたメンバーたちは、メインステージから伸びる花道を列となり、気球の動きに合わせたようにぴょこぴょこと横歩き(視線は客席へと向いている)をしながら踊っている。
 さて、眼の前で繰り広げられるこのファンタジックな光景に、『Am I Ready?』のライブパフォーマンスを初めて目にした『Happy Train Tour 2023』の大阪公演1日目、私はその場から動けなくなった。心拍は速まり、血管が収縮しているのを肌感覚で認識した。血液中に放出されたアドレナリンが体中を全速力で駆け巡り、体温が上昇するのを感じた。めまいを伴うほどの高揚感は今もなお忘れられずにいる。私の身体はどうかしてしまったのか。いや、きっと圧倒されていたのだろう。そのあまりにも強力な「かわいい」に。

「かわいい」ということ

 「かわいい」という形容詞は普段から日常的に使用されているが、その一方でその感覚に対して私たちは実は無自覚でいる。もう少し具体的に言うならば、「かわいい」とは対象の持つ性質を指しているのか、観察者自体の内部に湧き出つものなのか、という問題だ。「そんなの対象についてに決まっているじゃないか。アイドルはかわいいからかわいいのだ」と思われるかもしれないが、いやいや待ってほしい。これが「柔らかい」や「白い」といった類ならばそのようにも言う事ができるが、「かわいい」においてはそうはいかない(「かわいい」に限ったことではないが)。人によって「かわいい」と感じるものは異なるし、例えば猫をみて「かわいい」と感じる人がいればそうでない人もいるわけで、他人に理解されない「かわいい」を持っている人がいることを、私たちは当たり前のように理解している(そしてもちろん、他者に理解されない「かわいい」の対象を自身がもっていることもあるだろう)。ということは、それはすなわち「かわいい」が対象の属性によるものではないことを意味しているわけで、 「かわいい」とは対象に接した時に私たちの内部に生まれる感情に他ならないのだ。
 であれば、『Am I Ready?』のライブパフォーマンスを観た時に「かわいい」と感じたのも、私たちの内部から「かわいい」が呼び起こされているということなのだ。そしてその「かわいい」は、自分自身だけでなく観客全体に共有され伝播され増幅されていく。これは誇張でもない。「同じ対象のモノを仲間と同時に共有したとき、注意が高まり感情が増幅する」というのは実験的にも証明されている。であるならば、この仮説を拡張するならば(安易に拡張して良いかどうかの厳密性はこの際おいておく)、同じ空間で『Am I Ready?』を観た時の私たちの「かわいい」はやはり共有されているのであろう。そして、このかわいいの出現と共有と増幅は、さらなる効果を生み出すこととなる。

MVについて

 ところで、すでに公開されている『Am I Ready?』のMVは「上村ひなのの脳内世界」をテーマとしている。そこでは世界がコマ送りのように切り替わり、巨大なうさぎや宇宙空間を飛ぶ金魚など現実に存在しないモノが次から次へと出現し、突然としてアニメーションへも展開される。そこでは理屈もなく説明も一切されないが、しかし「脳内の世界である」ということが視聴者の違和感を抑えることに一役買っているのかもしれない。なるほど脳内世界だからなんでもありなのだろう。次元もスケールも自由自在なのだ。このようなファンタジー感の強い作品は、これまでの日向坂46のMV作品にはあまりなかった新たな試みであったといえるだろう。
 さて、MVは「脳内世界」がテーマだったが、このような内的経験を外面化して芸術にする欲求は、先史時代の洞窟壁画や60年代のサイケデリックアートなど、人類の歴史の中でいたるところで出現してきた。しかし、そこには「内部世界を外に向けて表現・発信しようと試みた時点で内部世界ではなくなる」という矛盾が付きまとう(ように思える)。屁理屈のようだし、はたまた当たり前のように思えるかもしれないが、閉じたままではアートになりえないのだ。おそらくそれがアートというものの本質なのだろうし、この矛盾性が作品の(『Am I Ready?』MVにおいても)キーであるともいえるかもしれない。内でありながら外へ向かう。それによって、『Am I Ready?』のファンタジィな世界はより強調されているのかもしれない。

 ちなみにこれは余談であるが、私は初めてこの『Am I Ready?』のMVを観た時、少しだけ恐ろしくなったことを覚えている。昨今、アイドルは表舞台に立っている時以外のプライベートも、メッセージアプリやブログなどを通じて外に開かれることが求められ、そしてコンテンツとして利用されている。私もそれを嬉々として受け取っている一人であるため、そのことについて議論するつもりは毛頭ないが(あまりにデリケートすぎる話題でもあるため)、いよいよプライベートどころか脳内までもが作品としてパッケージングされてしまうのかと思うと(それ自体がデザインされた脳内世界であるかもしれないが)、末恐ろしくなったのだ。仮に、もしもこのキュートなMVにそんな風刺の意味が込められたとしたら、こんなに恐ろしいことはない。※もちろんこれは杞憂にすぎないだろう。

ふたたびアムアイレディ体験

 さて話をライブ会場に戻そう。内でありながら外へ向けているという矛盾性は、ライブ会場におけるパフォーマンス(あるいは演出)にも利用されているかもしれない。前述したように、上村ひなのが双眼鏡を覗き見ることによって、現実世界では存在しないはずのもの(キャラクタ)を出現させるという演出は、観客に現実とファンタジーの境目を曖昧にさせる効果があるのかもしれない。しかもファンタジーでありながら、完全な非現実ではなく、ライブステージ(とそこにいる観客)という現実と見事に重なり合っている。これによって現実と非現実の境界は曖昧となり、脳内世界と物理世界の境界は曖昧となる。すべての境界が溶け出し混ざり合い曖昧になった世界で、残されているものは何か。確かだと言えるものは何か。そう、それは私たちの内部から発生した「かわいい」だけなのだ。外部から与えられていないという意味では「かわいい」だけが確固たるものであり、「かわいい」だけが疑いようのない真であるのだ。
 また、もしかしたら、『Am I Ready?』のどこかふわふわとした現実感のないようなメロディも、振りコピが容易であるようにデザインされた振り付けも、いい意味であとに残らない歌詞(誤解されるかもしれないがめちゃくちゃ褒めている)も、「かわいい」を増幅させるのに一役買っているのかもしれない。歌詞にメッセージ性は見当たらず誰かに寄り添うこともせず、時代も世界も文脈も関係なく、ただただ最大出力の「かわいい」をくらい、私たちは飲み込まれるのだ。そして「世界はかわいいに満ちている」ことを思い知らさせる。圧倒的な「かわいい」の前に私たちは到底無力であることを痛感させられる。そして、曲が終わってパフォーマンスが終わって我々の中に残るのは「かわいかったぁ」という記憶だけなのだ。
 危うい表現をするならば、これはもはや「かわいい」による集団催眠ともいえるかもしれない。私たちは「かわいい」による幻視体験をさせられているのだ。私たちの内部から発生した「かわいい」は、視覚系の異常な活性化を引き起こし、情動系の神経回路を発火させ、また新たな神経回路をつくりだす。それらは様々な情緒的・肉体的反応(初めに書いたような)を生み出す。パフォーマンスを観測した者同士で「かわいい」は同期される。そしていつしか、この神秘体験にも似た「かわいい」によって私たちは「かわいい」なしで生きられなくなるのだ。そのことに気付いた時にはもう遅く、『Am I Ready?』のなかった世界には戻れない。
 そうなのだ。「準備できてる?」は初めから私たちに向けられたメッセージだったのだ。

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※フィクションを著しく含みます。ツアーの『Am I Ready?』のパフォーマンスめちゃくちゃ可愛くて好きだったなぁ……ということを書こうとしたはずでした。


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