言葉が沈み込む(再掲_2020/4/15)

削除してしまった記事を読んでいたら面白かったので再掲します。

繋ぎの一本。

文章を書くことについて、私は何度も言及している気がするが今回も大体そんな話をする。

いつだったかは忘れたが、最近二夜連続で同じような感覚を味わった。
布団に入って横になって、最後のスマホチェックを終える。向上心のない私はたいてい寝る前の時間はスマホでネットの海を泳いでいるが(かなりの遠泳だ)、布団に入ってから何時間もスマホを眺めていることはない。その夜もいい加減寝るかと思って横になり、ついさっきから横になるまでに更新されたわずかなツイートやストーリーを確認して、その時点で見逃したコンテンツがなくなったところで消灯。
特に最近は睡眠時間が足りなかったり肉体的な疲労感を抱えていたりということもないので、目を閉じた瞬間死んだように意識を失うようには眠らない。幸せなことである。
直前まで様々な言葉を眺めていたため目を閉じた私の頭の中にもいくつかの言葉がふわふわと漂っていた。明日はnote書こうかな。浮かんできた言葉をつなげた文章を核にしたらいい感じになりそう。
地震で目を覚ます。
時間を確認すると消灯した時間からおよそ30分が経っていた。その時私は自分が「目を覚ました」ことにいくらか驚いた。考え事をしていたら眠ってしまっていたとはまさにこういうことなのかと。いや、大した考え事ではなかったのだけれども。
その翌日は地震こそ起きなかったが同じように横になって、目を閉じて、ぼんやりと言葉遊びをしているうちに眠っていたようでふと目を覚ますと最後に時間を見てからやはり30分ほどが経っていた。
そして話は続く。
その二日間の夜、それなりに書けそうな実感があったのだが翌朝目覚めてみるとさっぱり何も書けなかった。

このような経験はその前にもしていたみたいでその時に言葉にしたのがいちばんしっくりきている。


言葉は沈んでしまったのだ。

「沈む」という表現に対して皆さんがどのような想像をするかわからないが、私の場合ビーカーやマイクロチューブを考える。
誰にでも伝わるであろう例を挙げよう。ガラスのコップに泥水を注ぐ。泥の粒は小さく、その液体は案外綺麗に薄らと濁っている。もちろん、そのコップを机の上に置いてどこかへ行ってしまえば再度そこへ戻ってきたとき、コップの底には泥が沈み上層には澄んだ水が居座っている。
あなたがそのコップを持ち上げると泥は水中に巻き上がるし、少し揺らしてみればまた、コップの中には一様な泥水が現れる。

私のnoteが敬語で書かれていて、挨拶から始まっていた頃の記事一覧を眺めてみると大体は「こんばんは。」で始まっていた。予定の有無に関わらず私は夕方から夜に記事を書きはじめることが多い。
それに気づいたとき『朝しか書けない文章』というタイトルで記事を書こうかなと思った。結局私は朝に書くべき文章を思いつかなかったのでその案はボツになったのだけれども。

よく、寝ている間に記憶が整理されるので睡眠は大切だと言われたりする。これはきっとその日一日、私の中に新たに投げ込まれたり、乱雑にぶつかりあったりして混乱したモノ(言葉)たちを眠っている間に正しい場所に仕舞い込むというようなことだと思う。
きっと試験前にポイポイと投げ込んだ知識は睡眠によって頭の中で整理され、試験中に正しい方法でそれを参照すればきちんと現れてきて私の力になる。(たまにそれはどうしようもない程深く沈み込んでしまって出てこず、私はがっかりする。)

先日、横になったときには頭の中にあったのに朝目覚めたら書きだせなくなっていた文章はきっと、今説明した通りの方法で整理されてどこかに仕舞われている。記憶の中あるいは無意識の中に沈み込んでいる。何かのはずみに現れたらまた記事にすることがあるかもしれない。(多分とりとめのない類の内容だったので、それを浮かび上がらせる適切な「揺らし方」がわからないので書けないと思っている。)
実際頭の中にコップはないし、結構空想的な内容になってしまったが自分の文章や言葉に対する感覚はかなりわかりやすく説明できた気がする。
私が夕方から夜にかけて記事を書くことが多いのは、起きてからたくさんの言葉(会話や他人のSNS投稿から)を目にしてそれが私の頭の中に新たに入ってくる。さらにそれらが沈み込んでいた言葉を揺さぶって浮かんできて、相互作用して文章になるといったプロセスを踏んでいるからだと思う。
その辺に散乱した言葉が少ない、澄んだ頭から文章を作るのは私にとっては難しい。しかしやろうと思えば「朝しか書けない文章」も書けるだろう。

今回この内容の記事を書いたのは言葉が沈むという感覚を思いつき記事にしておこうと思ったのが一つ、何でもいいから間を開けずに記事を投稿しておこうと思ったのがもう一つだ。
Noteで記事を書くというのは何か考えた内容を「(他人にも)読める文章」という一つの様式にまとめるということだ。
直接書く内容だけでなく、この様式にまとめるために必要な言葉がある。そしてそれは先に話したその他の言葉と同様に使っていないと沈み込んで取り出しにくくなってしまう。
今日記事を投稿して明日もまた何か書こうと思ったら私はスムーズに書きたい内容を言葉にできるだろう。しかし一週間後まで「記事を書く」という行為から遠のけば、それに要する時間は長くなると考えられる。
こういった意味で私にとって文章を書くことはアスリートが毎日走ったり、アーティストが毎日楽器を奏でたりするのに近い継続性を要求する行為だ。

現在書きたいなあと思い続けている内容はいくつかあるがそれを差し置いて今回「文章を書くこと」についていくらか書いてみた。だから今回は本当に伝えたい内容というよりとりあえず記事書いとくか~という気持ちで投稿した繋ぎの一本。記事の書き方を忘れないうちにまた、次の記事を投稿したい。
また、何となく記事を書きたいし時間もあるけど書くことから遠のいているなぁという人がいたら是非短くてもいいから、何か書き出して見て欲しい。この記事があなたの中に沈み込んだ言葉を呼び起こす揺さぶりになったら幸いだ。


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