【日記】白々しいけれども人間なので共感する_2023/2/24

生きること、死ぬことについて。センシティブな話題なので読まれる方はお気をつけて。

2022/2/24ネットで知り合って電話して仲良くなった友人(個人的に、ハンドルネームだけでなく本名を知った相手はただのSNSのFFより格上げにしたい)と初めて顔を合わせる予定が潰れてしまった。どうしても外せない予定により、私が行くつもりであった対バンライブに行けなくなったためだ。大好きな(のかな?)サイレンインザスパイで始まり、これまた大好きなのに聴いたことがなかった10%に繋がる、更にシューゲイザースピーカー(CITS)のおまけつきの、逃してとても悔しいライブになった。

残念だなぁと思っている間に大国が軍事侵攻を開始したというとんでもないニュースが飛び込んできて、ひどく驚いたことを覚えている。現実味がなく、その後どうなるかなんて全く想像がつかず、悲しみや恐れとでも名付けるのが適切なのか今でもよくわからない、何かしらの大きな感情が頭を占めた。紆余曲折あり、そのことを特に思いださない日も多くなり、しかし日付が再び2/24になったことで改めて上に書いたような気持ちを思いだした。一年が経ってもまだ続いているのはにわかに信じがたいが、食糧危機により食べたくて食べられなくなったものは今のところないし、品薄になったというコンタクトレンズも、欲しいものは「在庫あり」ですぐに手元に届いた。私と同じく多くの人にとって、世界のどこかで侵攻が続いている状態が日常化しているのではないかと思う。

不必要に人が傷つく状態を日常として受け入れて暮らすのが良いのか悪いのかでいえば、悪い方に当たるのだと思う。けれども、自分がほとんど無力なかなしみに対して心を傷めて自分も沈み込むのが正しいのかというと、そういうわけでもないだろう。ある程度他人の気持ちは背負いきれないと自覚するのも生きていくためには必要だ。

普段忘れているのに、日付で思いだした事柄をあれこれと語るのは白々しい。それでも、考えてしまうのはやめられないのでこっそり話せるところに記録するのだ。


2023/2/24ちょうど一年前に会う予定を断ってしまった友人と一日を過ごす。主催は一年前とは違うけれども、同じく目当てがゲストバンドの対バンライブのためだ。何度聴いても大好きな桜のあとで思わず笑顔になり、大好きなのに聴いたことがなかった蒙昧termination(CITS)に歓喜する、とても素敵なライブになった。

整理番号は離れていたので、開場してからは一人になり、電波の悪い会場内でSNSを開いて開演を待つ。思わぬ訃報が飛び込んでくる。率直に言って、私にとってはかろうじて顔と名前と愛称を知っているだけの方だ。死が純粋に私に忍び込んできて心を支配することはない。(もちろん亡くならずに済んだ方がよかったので残念だとは感じている。これは、積極的な希死念慮を抱くのは健全ではないという持論による。死は望まれるものではない)どちらかというと、彼と、彼の所属先を好いていた友人たちの顔が頭に浮かんだ。

目の前のパフォーマンスが頭に入ってこないほど心を乱されはしなかったけれども、「あなたがここにいないことで回ってしまう地球なら別にいらないんだけどな」とか「全部嫌になったなんて簡単に言うなよ」が特別な意味を持って心に留まった。

多くの人が彼の話題に言及して、私も何かしらの感情を抱かされている以上何も述べないのは薄情ではないか。しかし、この件で私は何を語れるだろうか。先に書いたような気持ちのありようで「残念だ」と表明するのは白々しい。共感めいた白々しい言葉は、かえって誰かを傷つけそうな気さえする。なぜなら、誰かのかなしみは誰かだけのものであって、私が背負いきれるものでも、背負うべきものでもないからだ。存命の日本人作家で恐らく最も有名な一人がよく書いた「上手く伝えることができないのであれば、全く何も言わない方がいい」という言葉がふと思いだされる。

ここまで整理できているのに、少しでも誰かの心に寄り添える言葉が出てこないものかと、楽しかった一日の記憶を思い返すのを中断して頭を捻ってしまい止まらない。(これは、誰かのかなしみや怒り、やるせなさが少しでも低減するのを願いたいというエゴによる)

私の決して豊かではない知識を動員する。フィリップ・K・ディックはアンドロイドと区別するための人間の特質を「共感すること」と定義した。生き物を傷めつける様に心が動じないのは、人間ではない。(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のフォークト・カンプフ検査を参照されよ)また、ここでの宗教の基本は共感性であった。(マーサー教、同じく)『時計じかけのオレンジ』で人殺しを更生するためにとられたのは、拷問・暴力の映像を繰り返し見せることで共感性を起こさせることであった。(目を閉じられないように器具をはめられた主人公の有名なシーンである)人間と共感性を必要十分条件の関係で結ぶのが適切であるのか真剣に検討したことはないけれども、今のところは私が何かに共感する動機は「人間だから」で済ませたい。

白々しいけれども人間なので誰かのかなしみに共感する。共感するのは困難でも、何かを伝えることができたらと思う。結局私に言えるのは、あなたが前向きに生きていられたらいいなということだけだ。こっそりとしか言わないけど。


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