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SWITCHインタビュー 達人達 影山ヒロノブ×森雪之丞

SWITCHインタビュー 達人達。
2021年2月6日放送回は、影山ヒロノブさんと森雪之丞さん。

その道の「達人」と皆から評価される二人が、自分のフィールドに相手を招いて対談するNHK Eテレの番組。
たまたまチャンネルを回したら、このお二人だった。

二人の共通点といえば、何と言っても「CHA-LA HEAD-CHA-LA」。ドラゴンボールZの一番最初の主題歌。
作詞は森雪之丞さんで、歌うのは影山ヒロノブさん。

インタビューは影山さんのホームグラウンド、渋谷の老舗ライブハウス「Shibuya eggman」に森雪之丞さんを迎えて始まる。
80年代初頭からマンスリーでライブを行い、今もバースデーライブは必ずここで開催するという。

影山さんと言えば、70年代後半にLAZYでデビューし、解散後はスーパー戦隊「電撃戦隊チェンジマン」の主題歌で再び陽の目を見る。
そして「CHA-LA HEAD-CHA-LA」が世界中を駆け抜け、今もアニソン界の中心人物。私も何度もライブを観に行った。

この歌の影響力はすごい。
一番の思い出は、代々木第一体育館へ観に行ったアニメロサマーライブの第一回目。
JAM Projectの一員として出演した影山さん。
ライブの中盤にソロで登場し、この曲を披露すると、男女問わず、老若男女、会場に居たすべての人が一緒に歌い始めた。もちろん私も。
ライブフェスであるアニメロサマーライブにおいて、会場にいるすべての人がこの歌を歌える、という事に素直に感動した。
しかしそれだけではなく、世界中のアニメファンがこの歌を歌えるのだ。

JAMProjectも思い出深い。
番組では、海外でのライブの模様も放送された。
「Skill」が流れ出し、なんとも懐かしい気分になった。
私もコピーバンドでよく演奏した。ドラマーとして、いつも力が入る熱い曲。反射的に手が動いてしまった。

JAMProject結成のきっかけも、番組内で話してくれた。
2000年ごろに、「アニソンをひっさげてアメリカをツアーで回ろう」という計画が持ち上がり、その計画を元にJAMが結成されたそう。
今まで自分たちが聞いてきたアメリカのロックスターの子供たちが、当時日本のアニソンに夢中になっていることを知り、この計画が持ち上がったそう。その事実を初めて知り、びっくりした。当然、当時の影山さんも驚いたそうだが、森雪之丞さん曰く、「地上波では流れない日本のアニメが、当時アメリカで主流だったケーブルテレビで流れたのがきっかけではないか」と分析していた。

では、LAZYの解散からアニソンを中心に活動するまで、何をやっていたのか?
バンド解散前から、ソロで活動することを目標にしていて、周りのスタッフにも相談していたそう。
しかし、当時は曲も書けなかった。
そんな中、新たに組んだバンドメンバーと共に全国のライブハウスをドサ周り。
日本全国、毎日ライブをしながら旅をつづけた時期もあったのだそう。
鹿児島からスタートして、東京に戻ってきたときには声も出なくなっていた。しかし、そこから北を目指し、函館に着く頃には声が戻ってきて、今までよりも声が太くなったと語っていた。
アイドルであっても、LAZYは人気バンドだったのに、そんな過去があったとは…。

その後は、ビルの建設現場でバイトをしながら歌手活動を継続。仲間がLoudnessで世界的に成功するのを横目に、「俺はアイツらとは違う」と黙々と頑張り、チャンスを待った。

そんな中、チェンジマンの主題歌のオファーが来た。
あの影山ヒロノブが、「そんな日本語をこねくり回すような歌い方じゃ、子供達には響かない」と怒られたのだとか。
かなり苦労してレコーディングした、というエピソードを語ってくれた。

私はLAZYの世代ではないし、影山さんを知ったのはアニソン歌手として有名になった頃だったので、成功したデビューからの下積み時代の話は興味深かった。
バイト時代の所長からの言葉「チームは、何があってもリーダーが元気でいれば、7割がたはうまくいく」という言葉を座右の銘にしている、という話も印象的だった。


続いて、森雪之丞さんが神奈川芸術劇場へ影山さんを迎えた。
2019年に、この劇場でミュージカル「怪人と探偵」を上演しており、大好きな劇場なのだとか。

森雪之丞さんと言えば、日本を代表する作詞家。
「CHA-LA HEAD-CHA-LA」はもちろん、「お料理行進曲」などなど名作は数知れず。流行歌からアニソンまで幅広く活躍する作詞家のイメージ。
私は高橋幸宏さんの楽曲が好きで、幸宏さんの親友である森雪之丞さんも印象的な詩を何曲も書いているので、その印象が強い。好きな作詞家のひとり。

ではなぜ、アニソンを多数書いているのか。
影山さんのようにアニソンのおかげで有名になった、というわけではなく、その時代その時代で関わるジャンルや人が変わっていったという。

雪之丞さんが魅せられたのもロック。
しかし、歌手として活動せず、作詞家の道へ進んだ。
デビュー曲は「ドリフのバイのバイのバイ」。これも意外。
その後からアイドルや流行歌、アニソンなど、ジャンルを問わずオファーが来たという。
LAZYのデビュー曲「Hey! I Love You!」も雪之丞さんの作詞。デビュー曲は「赤頭巾ちゃんご用心」かと思って調べたら、この曲はデビュー曲ではなく、別の方の作詞だった。

「アイドルの曲とか流行歌は、売れる必要があるので制約が多かったが、アニソンは自由だった」と雪之丞さん。
ただ、アイドルソングも今までの既成概念を壊すような言葉を多用しながら書いていた、とも語っていた。
確かに、「溶けた氷の中に 恐竜がいたら 玉乗り仕込みたいね」とは、子供の頃から印象に残る言葉だ。
でも、高橋幸宏さんの曲では、大人の恋愛や愛情、悲哀をうまく表現していて、その雰囲気が好きだったりする。

90年代に入ると、布袋寅泰から「雪之丞さんの詩を歌いたい」とオファーを受け、その後ロックアーティストと深い関係を築いてゆく。
それでも、今でもアニソンも書くというし、本当にジャンルのボーダーを超えた活動をされていると感じる。

そんな雪之丞さんの最近の活動は、ミュージカルへ。
「子供の頃から聴いたロックは、アルバムが中心だった。B面になったらレコードをひっくり返さなきゃならない。そうすると、A面に入っていた曲が違うアレンジで入っていたりして、ガラッと印象が変わる。ミュージカルは、同じ曲でも歌い手が変わると印象が変わる。ロックのアルバムも、ミュージカルだったんだ」との言葉。

ミュージカルは企画書から脚本、曲の歌詞まですべて手掛けたそう。
あの雪之丞さんがミュージカルに携わっていたなんて知らなかったが、興味深い。チャンスがあれば見てみたい。

番組のラストは、eggmanのステージで影山さんが「CHA-LA HEAD-CHA-LA」を歌う。観客は雪之丞さんひとり。

影山さんが「ヘッチャラは日本人なら誰でもわかる。でも、チャラって何なんですか?海外でインタビューを受ける時、そこは説明できなかった」と雪之丞さんに尋ねた。
すると、「メロディーの流れで、ヘッチャラの前にチャラをつけた。英語だったら言葉を簡単に乗せられるが、日本語を乗せるのは難しい。4分音符2つのリズムにどんな日本語を乗せるか、いつも試行錯誤していた」といった話を語ってくれた。

雪之丞さんが「ビートに言葉を乗せる」という挑戦を、影山さんがうまく表現し、今や世界中のアニメファンの心に残る歌が生まれた。
大好きな二人の、興味深く、そして心に残る対談だった。

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