不十分な世界の私―哲学断章―〔5〕

 現に生きている人間は一般に、自分に意識が保たれていることにおいて、現に生きている自分自身としての自己が保たれている、と感じている。そしてまた他の者に対しても、その者の意識が保たれているか否かにおいてその者の自己が保たれているか否かを、あるいはその者が現に生きているか否かを判断しているものと考えられる。
 ということは、現に生きている人間にとっては「意識がすなわち自己である」ということになるのだろうか?
 意識は、その対象に対してはじめて成り立つ。言い換えると、意識はその対象に対応する限りにおいて生じるのであり、対象に対応する必要がある限りにおいて生じるものである、と言える。ゆえに、意識を向ける対象もなく、それに対応する必要もなく存在しうるような、「意識それ自体」などというものはない、と考えることができる。さらに、「意識がない」というのは、意識の喪失であるというよりも、対象の喪失あるいは対応の喪失であって、むしろ意識「自体」は何も喪失していないし、「意識それ自体」がないのだからそもそも喪失するものがない、ということになる。
 意識とは、ある対象に対する意識であるということにおいて、「その対象を意味づける」ものでもある。人は、その対象を意味づけることによって、その対象が何であるかを知るところとなる。つまり「その対象の意味を知る」ことになる。
 対象を意味づける意識は、その対象が何であるかを表現する意識として、「外的に表現することができるもの」でもある。その対象が、人の、あるいは私の、または私ではない他の者たちの、『内面』においてどのように意識され意味づけられたのかを、人に、あるいは私に、または私ではない他の者たちの目に見えるように「外面的に表現する」もの、つまり、その人の、あるいは私の、または私ではない他の者たちの意識にとって、その対象が何であるかを意味するものとして、その意識、あるいはその対象の意味を、目に見えるかたちで外的に表現することによって、誰にでもその対象の意味を知らせることができるところとなる。
 そして人は、その意識の外的な表現によって意味づけられた対象を、その対象を意味する表現において表現された対象として知ることになり、かつそれ以後はそのように意識することになる。
 意識によって捉えられた対象は、その対象を意味づける意識が、現に意味づけている対象として、あるいはまさに意味づけようとしている対象として、「意識に捉えられているもの」である。意識にとっての対象は、「その意識によって意味づけられるもの」として、その意識に捉えられている対象であり、当の意識がそのように対象を捉え意味づけた、当のその意味が、その意識にとっては「当の意識自身とその対象との関係の全て」となる。その対象を意識する意識が、その対象を意味づけた「その意味」は、その意識とその対象との「関係の意味」として、その意識に固定されるところとなる。意識はその対象を、その意味を媒介にしてしか知ることができないし、それ以外においてはその意識の対象として知る意味がない。仮に対象それ自体が、その意識が意識する意味以外の意味、あるいはその関係以外の関係を他に持っていたとしても、それはその意識にとっては何ら関係のない意味であり、また何ら意味のない関係なのだ、と言える。その意識にとってその対象は、「その意味」あるいは「その関係」以外のものではないし、その意味を持った対象、あるいは、その関係を持った対象以外の何ものでもない。要するに、ある特定の意識によって捉えられた対象は、その特定の関係の対象として意識に捉えられる以外にはない。

〈つづく〉

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