不十分な世界の私―哲学断章―〔17〕

 一般的な意識において見出される自己は、その本質としては「何者でもない」けれども、ゆえに「何者にでもなりうる」ような、「一般的な自己」として見出される。一般的な視点に立って見出される『私』とは、そのような自己である。
 たとえば世が世なら私は、あるいは「古代ローマの支配者」であったかもしれないし、あるいは「明治の文豪」であったかもしれない。その立場に立つのはシーザーでも夏目漱石でもなく、「この私」であったかもしれないのだ。そのような視点において見れば、私は「何者にでもなれる自己」なのであり、他の人もまた「私と同様に何者にでもなれる自己」である限りにおいて、私と他の人は、「同質の者として一般的な自己を共有している」ということになる。
 そして、「実際に古代ローマの支配者になった自己、あるいは実際に明治の文豪になった自己であるところの私」を、「誰でもそうなりうる者」だったところの他人一般に共有されている、一般的な自己から「分割」し、その「分割された自己としての私」を、他人一般に対する個別性として「私自身を証明することができる」ような、「私自身を意味するもの」としての「私の『個性』」として、あるいは「私の『アイデンティティ』」として、「それをもって私の自己とする」ということを、私自身がその「意識の対象として見出す」こととなる。『私』とはそのように、ある特定の条件が一致することで、その条件に基づく個別性によって「個別的な自己になりうる自己」なのだ、と言えるようになる。

 いわゆる「経験的な自己」なるものは、ある条件のもとで誰もがそのような経験をすることができるという限りにおいては、「誰の」自己としても成立することが可能なものとして、「それぞれの」自己において経験されることになる。
 たとえば、「ナポレオンが経験したようなこと」であれば、その経験は「誰においても経験できるはずのこと」なのだ、と一般に考えうるところとなる。むしろそのように「誰の自己としても可能である限りの経験」においてこそ、そのような「経験に基づく自己」は、「私の自己として、私が所有することができるはず」なのだ、と考えることができるようになる。「私が手に入れる(経験する)までの、私の経験的な自己」は、たしかに「私のもの」ではなかったかもしれないが、かといって「誰のもの」でもなかった。それは、「私に所有された(経験された)とき」にはじめて、「経験的に一般的な自己として、私の自己となる」と見なしうるところとなる。
 私が所有する私の経験は、誰もが所有することができる=経験することができる経験であり、誰もが所有することができる=経験することができる経験を、「実際に私が所有している=経験している」ということが、「私の実際的な個別性」として表現され、誰もが所有することができる=経験することができる経験を、実際に私が所有する=経験することで、その経験は「私が独占的に所有する、私自身のもの」となりうるところとなる。

〈つづく〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?