不十分な世界の私―哲学断章―〔35〕

 一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持った存在者の、「互いに共通しているが、それぞれに自立しているという、奇妙な二重の構造」については、キルケゴールが次のように語っている。
「…人間が個人であり、しかも個人としては彼自身であるとともに全人類であり、したがって全人類は個人に、個人は全人類にあずかる…。」(※1)
「…各個人はそれ自身であるとともに人類であり、後の個人は最初の個人と本質的にはちがわないということである。…」(※2)
「…個人が彼自身であるとともに人類であるということは、あらゆる瞬間をとおしていえることである。これが状態として見られた場合の人間の完全性である。と同時に、それは矛盾であり、矛盾はつねに課題としての意味をもつ。ところで課題とは運動である、しかるに、課題として負わされているある一定のものに向かってゆく運動はひとつの歴史的運動である。…」(※3)
「…個人は歴史をもっている。しかし個人が歴史をもっているなら、人類もまた歴史をもっている。(中略)人類の歴史が進むにつれて、個人はつねに新たに始める。個人は彼自身であるとともに人類であり、それゆえに彼の歴史はまた人類の歴史だからである。…」(※4)
 「存在者である『人間』」は、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持って存在するがゆえに、他の何ものとも取り換えることのできない自立した「彼自身=個人」である。しかしそのような「それぞれの個人」は、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持って存在することにおいて「互いに共通しているがゆえに『人類』」である。その意味においてはたしかに、「後の個人は、最初の個人と本質的に違わない」のだということを考えることができる。「人間が個人であり、個人として彼自身であり、彼自身であるとともに全人類である」というのはまさに、互いに共通しているがそれぞれに自立しているという、二重の構造を持つ存在者としての、「人間の本質」を言い表しているのだ、と言える。
 しかし、「後の個人」と「最初の個人」は、それぞれに一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持った「全く異なる、自立した歴史的なあらわれ」であることにおいて、「本質的に異なっている」のはすでに言っている通りである。また、「最後の個人」については、私自身がその最後の個人でない限りは、それが最後であるというように証言するのとともに、最初の個人ならびに「途中の個人」である私自身と、その最後の個人が、「本質的に違わない」かのように明言することは、私自身にはできないことなのだ、ということは、ここであらためて断っておかなければならない。それは、「人間が個人であり、個人として彼自身であり、彼自身であるとともに全人類であるという、状態として見られた場合の人間の完全性を、完全な状態で目撃すること」が、私自身のみならず、人類の誰であれできないことであるがゆえに『矛盾』となることにつながるからである。「人間として見られている」のは、人間の「あらゆる瞬間に見られる、歴史的な『運動』」であり、それは、『運動』であるがゆえに「状態としてとどまることはない」ものなのだ。つまりそれは、「完全に状態であることがない」のである。そのことは、「最後の個人」においてもついに見ることは叶わない。もし、彼が「最後の人間」となったときは、それは人間の運動が止まるとき、人間の歴史が終わるときである。それは「状態」ではあるかもしれないが、しかし「完全」ではない。なぜなら、「彼だけ」が『人間』だったわけではないからであり、ゆえに彼は「最後の人間」ではあったとしても、「完全な人間」ではありえないからである。

 『人間』は、状態としては常に不完全であり、常に不十分である。しかし、不完全で不十分であるからこそ人間は、「ある方向へと運動する」のだ。それは、自身が「より十全でありうるような可能性」に向かって、である。そのように、人間が「可能性へと向かって運動すること」は、「あらゆる瞬間において、常に新たにはじめられていること」であり、ゆえにそれは常に新しいはじまりであり、かつて存在したことがない瞬間なのである。すなわちそれは、常に歴史的な瞬間であり、その人間の運動もまた、常に歴史的な運動なのである。
 また、瞬間とは常に現実的な瞬間であり、その瞬間に見られる人間のあらゆる運動は、どんなにささいなことであれ、確実に現実を変革=alterしているのだ、と言える。そして、人間として見られているのが、このあらゆる瞬間の現実的な運動であるとすれば、人間は、その存在している限りにおいて、あらゆる瞬間において現実と関係することを課題とするのを止めることことができない。現実と関係するということは、すなわち人間と関係するということであり、その人間=他者が無限多数に存在し、その「誰」と関係するのであるかが特定できない限り、「全人類と関係するということがありうる」と考えられた上でなされるのでなければならない。いや、「なければならない」という以前に、「すでに現にそうなのだ」というように考えられていなければならない。
 どんなにささいなことでも、仮に自分では「自己完結している」と思えるようなことでも、ただ「存在するという事実」だけで、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持った存在者=人間の、その『運動』は、全人類に・全世界に関わりうるものなのである。それが「歴史的」である限りは、その全てが人類史的であり、世界史的なものでありうるのだ。「今、あなたがしていること」は、そのように世界と人類と歴史とに関係しうることなのである。
 これは飛躍だろうか?しかし私は、これらのことをただ、存在する限りは避けられないこととして述べているのみである。

〈つづく〉

◎引用・参照
(※1) キルケゴール「不安の概念」第一章・一 田淵義三郎訳
(※2) キルケゴール「不安の概念」第三章・二 田淵義三郎訳
(※3) キルケゴール「不安の概念」第一章・一 田淵義三郎訳
(※4) キルケゴール「不安の概念」第一章・一 田淵義三郎訳

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?