私の自我は、私の意識の対象であるがゆえに私の所有の対象となりうる。 『不十分な世界の私―哲学断章―』〔18〕

 一般に『自我』とは「私自身が形成するもの」だと考えられているとすれば、そのように「私自身が形成した、私の自我」とは、「他の者が形成した、他の者の自我と、同様に自我である」ということにおいて、「誰にでも形成しうる、一般的な自我である」と言えるが、しかし「私自身が形成した自我として、その自我を、私自身が持つ」ことにおいて、その「私自身が所有する自我が、すなわち私自身の自我である」ということになる。
 繰り返すと、「私の自我」が、他者の自我と同様に自我である限りにおいて、「私は、私の自我を所有することができる」ことになる。自我は、それが「誰のもの」であれ、「誰もが所有する自我として形成された、誰の自我とも同様な自我を、私も所有する」限りにおいて、「誰にでも了解可能な自我」として、「誰においても承認されうる自我」となる。そしてそのような自我を「私も他者と同様に所有している」ことに、私の自我の「自我としての意味」が成立する。
 そのような「私が所有する自我」が、「私自身を意味するものとしての私の自己」を、一般的な自己から分割することとなり、また、「何者にでもなりうる私」が、「私自身を意味するものとしての私の個別性」を獲得することにより、私は、「私の所有する自我と、あるいは私によって獲得された自己を、私自身において同一化」して、一般的に誰でもなりうるものとしての個別性を持った「何者か」になっていく。
 何者でもないような「それぞれの私=個人」が、具体的に個別の何者かになっていくということを、私は、「私自身の、個別の経験」として学んでいく。ここで私が経験的に学ぶのは、「私が私自身を獲得する」ということにおいて、「私が私自身を対象として見出す」ということであり、また、その経験を通じて、「私と同一であるところの、人間一般」を、「私の対象として見出す」ということである。つまり、「私=人間を、私の外側において見出す」という視点が、「私を対象として、私が獲得する」という私自身の経験において私自身によって学ばれ、そして「私自身を他人のように見る」ことによって、「私にとって私は、他人たちと同様に、私自身の対象となる」のであり、そうであるがゆえに私自身もまた他人たちと同様=平等なのだということを、「私は経験的に知る」ことになる。

 ところで、時を重ね経験と共に積み上げてきたもの、富や成功、あるいは能力や権力などといったものを、たとえどれほど多く「私が所有する」としても、それを実際には誰もが所有できるのだとしたら、一体それによって「私は、私自身の固有の経験において、私自身である、と言いうる」ことになるものだろうか?
 また、誰もが所有できるものを「私が所有していない」ことで、あるいはそれを「私が失う」ことで、「私の自我までもが失われる」としたら、そのような『自我』とは一体、「誰の」自我なのだろうか?
 誰もが所有することができるものを「私が所有する」というのである限りにおいて、「私の所有するもの」は、一般的な所有の対象であると言える。要するに、そのような一般的な所有の対象を「私が」所有していようと「誰が」所有していようと、「所有の対象であること」に関しては、誰においても同じなのだ、ということになる。
とすると、誰でも所有できるようなものを「私」がただ単に所有しているだけでは、「それを私が所有しているということが、私の個別性を意味する」と言えるようになるものだろうか?また、見方を変えると、それを私が所有した場合と他の人々が所有した場合では、どれほど違う意味を持ちうるものなのか?
 そもそも「私自体にはなかった」ような能力・長所・素質あるいは資格などを、「私が経験的に獲得する」ことで、またそれによってそのような能力・長所・素質あるいは資格などを「私自身に内面化すること」で、それが「私自身の」能力・長所・素質あるいは資格として「私に所有される」ことになるのだとしても、またそれによって、「私の能力・長所・素質あるいは資格が、私自身を表現するものとなる」と、「私自身では考えている」のだとしても、結局のところそのような能力・長所・素質あるいは資格などが、一般的な対象として誰でもその所有者になることができるものである限りは、そしてそのような私の所有している能力・長所・素質あるいは資格を、他の誰かもまた同様に所有しているのだとしたら、その他の誰かと私は「同じである」ということになってしまうのではないだろうか?そのように考えると、「私の所有するものが、私の個別性を十分に表現してくれる」とは、次第に「私自身」としては思えなくなってくる。結局のところ、ただ所有しているだけでは「みんな同じ」ではないか?同じデザインの服を着ている人が「みんな同じ」に見えるように。
 だから『私』は、「私の個別性が、他の人に対して明らかに違うと言えるような対象」を所有したいと、より一層強く激しく求めるようになる。「私の個別性が、一発でわかるような対象を所有したい」と、より強く激しく考えるようになっていく。

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ササキ・シゲロー

哲学/文学/脱学校/政治/歴史/労働/社会問題など。1969年生まれ、千葉県在住。Twitter https://twitter.com/sigeros1969 ブログ版『脱学校的人間』http://deschoolinghuman.blog.fc2.com/

不十分な世界の私 ―哲学断章―

『私』と『世界』をめぐる探究。
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