不十分な世界の私―哲学断章―〔10〕

 客観的に自分自身を捉えることができるというのは、他人のように自分を捉えることによってだ、と考えることができる。
 他人の目として自分自身を捉える。それは他人もまた、そのように自分自身を他人として捉えうることを、私も他人も同様に容認していることを前提にしているからこそ、私もまたそのように、「他人と同じように」自分自身を捉え直すことができる、ということである。そして、他人もそのように自分自身を捉え直しうるからこそ、私が自分自身を捉え直したことを他人にも説明できるのだし、他人が私をどのように捉えているのか?という、その他人の意見を、私もそのように、他人と同じように捉えうることとして聞くこともできるのである。

 しかしたとえば、医者は自分自身では病人ではないからこそ、患者の病気を診察することができるのであり、たとえもし自分自身が病人になった場合でも、医者である自分自身は、患者ではない自分としての「立場=視点」を確保して、病人=患者である自分自身を見る限りで、自分の病気を考えることができるのだろう、と言える。つまり、医者である自分自身と病人である自分自身は、それぞれの立場=視点において、それぞれの自分自身から切り離された場所から、自分自身を見ているのであり、要するにそれによってはじめて、医者という客観的な立場で、自分自身における病気という「客観的な事象」を診る=見ることができるのだ、と考えられる。

 また、以前に「私は、自分のことを客観的に見ることができるのです、あなたとは違うんです!」と捨てぜりふを吐いて退陣した総理大臣がいた。彼をそのようにキレさせた記者からの質問とは、「総理の発言はまるで他人事のように聞こえるのだが」というような主旨のもので、それに対して彼=元総理は上記のように反論したのだったが、むしろ彼の意に反して彼の発言は、その質問の論旨を肯定してしまっているのではないか。要するに彼は、「自分のことを他人事のように見ることができる」のだ、と堂々と言っているようなものなのだ。だからそのような彼の言葉が「他人事のように聞こえる」のは、当然と言えば当然のことなのである。むしろ彼は記者に、こう言い返せばよかった。「そのように言うあなたと私は、一体どこが違うのか?」と。それに対して記者はけっして、反論することはできなかっただろう。なぜなら、すでに言ったように「他人の話を聞く」ということは、すなわち記者が「質問をする」ということは、「他人事を聞く」ということなのだから。

 一方で、「自分のことを客観的に見ることができる」という「見方」は、それ自体がすでに主観的ではないだろうか?「見る」ということ、もっと言えば「そのように意識して見る」ということが、すなわち「主観の働きそのもの」なのではないだろうか?
 「客観的に見る」ということは、その「見る対象」を自分の意識を通さずに、「その対象そのものを見る」ことなのだ、ということを言いたいのだろうと思われる。しかし実際のところ、「見ることそれ自体が意識の働き」なのである。たとえ対象そのものが客観的に「それ自体として存在している」のだとしても、それを見るのは「その対象を意識する意識」なのだ。自分自身を客観的に見る、つまり「自分自身をそれ自体として見る」あるいは「その全体を見る」というのは、それ自体が「意識的」なのであり、あるいは「意図的」なのであり、結局のところそれは「自分が見たいように見る」ということに他ならないのではないか?

〈つづく〉

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