不十分な世界の私―哲学断章―〔21〕

 アイデンティティとは、人の社会的関係の、それぞれの側面において、その人の立場を説明するものとして、言い換えると、その人を「意味するもの」として表れるものであると言える。それはまた、その人の社会的な関係の、それぞれの側面によって、「それぞれ違う意味として表れるもの」なのだとも言っていい。
 『私』は、たとえば会社にいるときは「スズキ課長としてのアイデンティティ」を持っており、それに応じて『私』は、その社会的関係において、つまりその部下や上司との「現実的な人間関係」において、「スズキ課長として」ふるまうことになる。しかし、それとは別に、たとえば家にいれば「夫あるいは父・イチロー」として、「私の家族に対しての、その関係に応じた」ふるまいをすることとなる。社会的なそれぞれの関係において『私』は、それをいちいち意識してはいないけれど、それぞれの関係に応じた何者かとしてふるまい、『私』は自分自身を、「その何者かとしての意識」において把握しているのだ。そのように、自分自身を把握している意識が、しかしそれを「いちいち意識しない」というのは、それが「すでに経験的に形成された認識」だからであり、現にそれに基づいて、『私』は社会的に行為・活動していることになっている。
 「自分とは間違いなく、かくかくしかじかの者である」ということが経験的に確かなこととして、その『自己認識』において保持されているからこそ、人はその「確実性」については、「いちいち意識しないでもいられる」のである。自分自身の確実性について、いちいち意識しないほどの「自明性」を確保しているというのであれば、たしかにそれに対して改めて関心を抱くことも、つまりいちいち意識するほどのこともないだろう。逆に言うと、人は自らのアイデンティティに関心を寄せるよりも、むしろ「他の者のアイデンティティに対して」こそ、その視線を強く向けるものであるのかもしれない。

 人は、「他の者のアイデンティティが意味するところ」において、「その者が何者であるか?」を知ることとなり、その意味するところに照応した関係を、その者との間に築く。
 たとえば「ある人」がスズキ課長の部下であったのならば、その「ある人」の意識の対象である「スズキさん」が、「課長というアイデンティティを持っている」ことに照応して、「自分は、スズキ課長の部下というアイデンティティを持っている」ということが、その彼の意識において見出され、それに応じた関係が、その彼とスズキさんとの間に築かれることとなる。彼にとってスズキさんは、「課長であるというアイデンティティを持った対象として関係するべき相手」なのであり、それ以外ではありえない。彼はあくまでもスズキさんを「課長であるというアイデンティティが意味するところの対象として見る」のであって、「それ以外の者」としてスズキさんを見ることはない。なぜなら「それ以外のスズキさん」が、どのようなアイデンティティを持っていようと、彼には何にも関係がないのだから。彼はあくまで「スズキ課長の部下」としてスズキさんと関係しているだけなのだから。それが彼にとって「スズキさんとの関係における、彼自身のアイデンティティ」なのだ。
 彼はもちろん「スズキさんの家族」ではない。だから、「夫あるいは父・イチローとしてのアイデンティティをもつスズキさん」には何の関心もない。
 もちろん逆に「スズキさんの家族」にとっては、「スズキ課長というアイデンティティにおけるイチローさん」について、特段の興味もないだろう。家族とすれば「夫あるいは父イチロー」には、ただとにかく一生懸命働いて、たくさん給料を稼いできてくれればいい、というだけの話だろう。もちろんこれは、「一般論」である。

 スズキ課長と関係する人にとっては、スズキ課長というアイデンティティを持ったスズキさんが、その関心の対象であり、「そのアイデンティティを、スズキさんの本質と見なして、その本質を対象として関係している」のだ、と考えることができる。その関係の中に、「夫あるいは父・イチローの側面」を持ち出されても、彼らとしては「仕事に家庭を持ち込まないでよ!」と顔を渋くするしかない。スズキさんが家庭でどのような「夫あるいは父・イチロー」であろうと、それは「スズキ課長の部下あるいは上司、もしくは取引先等々の人々」には、どうでもいいことでしかない。
 逆に「夫あるいは父・イチローを、その本質と見なして関係する」ところのスズキさんの家族にとっては、その関係に「スズキ課長であるところのアイデンティティ」を持ち込まれたとしても、場合によっては「アンタ、それを言い訳にして家庭をないがしろにしているのではないの?」という憤りの気持ちに火をつけるものにしかならないかもしれない。もちろんこれも「一般論」である。
 スズキ課長に関係する者にとって、「その人=スズキ・イチローは、スズキ課長でしかない者」と見なすより他ないし、スズキ課長であるということを「その人の本質」と見なして、その本質を対象として関係する他はない。それ以外の「意味」は、その関係においては「何の意味もない」のである。だから「その人を意味するところの、その人のアイデンティティ」なるものは、それを媒介にして関係する人にとっては、それが「その人の本質を表しているもの」と受け取るより他ない。そのように表れるものこそが「その人そのものを意味するもの」として、人は「その意味」を意識して、それを対象として関係するよりないのだ。

 ある人の持つアイデンティティは、さまざまな社会的関係の中で、その人が関係する具体的な関係において、その人を関係の対象として識別するものとして機能する、と言える。その人と関係する人は、その人のアイデンティティにおいて意味されるところの、その人の本質を、自らが関心を寄せるべき対象として見出し、自らが関心を寄せるところのその意味を、その人そのものに還元して、その人と関係することになる。人は、その関心の対象のアイデンティティを通して、「その対象そのものを見る」ことになる。
 そのように見る意識にとって「その人」は、そのアイデンティティにおいて意味されるところの「意味そのもの」として見ることができる対象であり、「そのようにしか見ることのできない対象」でもある。それが「その関係のみにとどまる」のであれば、それで構わない。しかし問題は、「そのように見えるもの」が、「そのように在るもの」であるかのように「見えてしまう」ことである。その関係において見出される意味が、「その対象の本質であるかのように見えてしまう」ことに、アイデンティティなるものが場合によって「倒錯的に機能してしまう」問題を見出させるのである。
 ある関係において見出されたところの、ある特定のアイデンティティなるものが、それをそのようにしか見ることのできない意識によって、「その対象の本質」に還元されてしまう。それが「その人そのもの」であるかのように見なされてしまう。これは、アイデンティティは「一つしかない」と見なされていることに由来しているのだ、とも考えることができる。それは、「私として認識された私が私自身なのだ、と私自身が私自身を見なしてしまう意識=『自己意識』」に由来している、とも考えることができるだろう。

〈つづく〉

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